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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
王都の毒と蜜

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第30話: 昔からあること

 朝の厨房は、嘘のように静かだった。


 昨日まで漂っていた疑惑の空気が嘘のように——いや、違う。消えたのではない。別の場所に移っただけだ。


 練習厨房の扉を開けると、いつもの参加者たちがいた。作業台に向かい、生地をこね、砂糖を量り、窯の温度を確かめている。昨日とは視線が違う。リゼットを避ける目ではなく——もっと遠くを見ている目。後任菓子師の作業台のあたりを、ちらちらと窺う目。


 あの場所は——空だった。


 後任の菓子師が、今朝から姿を見せていない。助手の拘束を受けて自室に引きこもったという噂が、朝食の席で流れていた。


 リゼットは自分の作業台に向かった。エプロンを締め直す。指先はもう冷たくない。昨日の夜、プティフールの調整をしているうちに、手が温まった。——セドリック様がそばにいてくれたからかもしれない。


 霜花蜜の瓶を棚から取り出す。琥珀色の蜜が朝の光を受けて、小さな太陽のように輝いた。




 午前の練習が半刻ほど過ぎた頃。


 厨房の外が——騒がしくなった。


 足音。複数の足音。衛士の靴が石畳を叩く音。それに混じって——女の声。甲高い、叫ぶような声。


「違います! わたしはただ——」


 リゼットは手を止めた。


 他の参加者も顔を上げている。泡立て器を握る手が止まり、窯に薪をくべようとした手が宙で止まる。


 厨房の扉が勢いよく開いた。参加者の一人——予選で隣の作業台にいた年配の菓子師——が、息を切らして飛び込んできた。


「捕まったよ。後任の助手が——正式に拘束された」


 空気が、揺れた。


「苦扁桃の瓶だけじゃない。宿舎の部屋から、毒の抽出に使った器具が見つかったそうだ。蒸留器と、すり鉢と——量りかけの粉が」


 リゼットは息を呑んだ。


 苦扁桃の種子を砕き、蒸留して濃縮する。菓子師なら知っている工程だ。少量なら風味づけ。しかし——濃縮すれば毒になる。その境界を、意図的に超えたということ。


 菓子師の手で——人を傷つけようとした。


「名前は——エルザ・ベッカーだって。後任のクラウスの下で二年働いていた助手だよ」


 エルザ。


 リゼットは一度だけ、すれ違ったことがある。予選の初日、厨房の入り口で。茶色い髪を低い位置で結んだ、目の大きな女性。二十代前半。リゼットと視線が合った時——すぐに逸らされた。あの時はただ、他の参加者と同じように警戒されているのだと思っていた。


 でも——違ったのかもしれない。あの目に宿っていたのは、警戒ではなく——焦りだった。




 昼前。


 品評会の運営から、参加者全員に通達があった。


 毒物混入事件の犯人が特定され、品評会は予定通り続行する。本選は明後日。参加者への影響はないが、安全確保のため、今後の厨房使用には衛士の立ち会いが付く——と。


 それだけなら、ただの事務的な報告だった。


 でも——昼食の席で、別の話が流れてきた。


 取り調べの場で、エルザが言ったという言葉。


「菓子で人を操るなど、昔からあることだ」


 その言葉を聞いた時——リゼットの背筋に、冷たいものが走った。


 隣の席にいた年配の菓子師が、声を落として続けた。


「衛士がぎょっとしたらしいよ。『昔からある』とはどういう意味かと問い詰めたら、エルザは笑ったんだって。——『宮廷の菓子師が、ただ甘いものを作るだけだと思いますか? 百年前から、菓子は武器です。砂糖の量で機嫌を取り、香りで判断を鈍らせ、味で人の心を操る。毒はその……延長にすぎません』って」


 リゼットは食事の手を止めた。


 菓子で——人を操る。


 その言葉が、胸の奥に沈んでいった。石を水に落としたように、波紋が広がる。


 菓子師の歴史を知らないわけではない。百年前、宮廷菓子師の制度が始まった頃——菓子は権力の道具だった。王に気に入られるために甘味を競い、政敵の食卓に「ほんの少し苦い菓子」を送り、取り入りたい貴族には特別に甘い一品を。


 豊穣神信仰が「食は聖なる行為」と説いたのは、そうした闇を戒めるためだったとも聞く。食の冒涜罪が極刑に値するのは、かつて菓子が——本当に人を殺した時代があったから。


 エルザの言葉は、その歴史の残滓だ。


 菓子で人を操る。毒はその延長。


 ——間違っている。


 リゼットはそう思った。はっきりと、迷いなく。


 菓子は武器ではない。道具でもない。


 菓子は——贈り物だ。


 母が焼いてくれた、あの素朴な焼き菓子。蜂蜜と小麦粉だけの、何の飾りもない一品。あの味が、幼いリゼットの心に灯した小さな明かり。菓子師になりたいと思わせてくれた、あの温かさ。


 それが——菓子の本質だ。


 食べた人を笑顔にすること。それだけが、菓子師の仕事の全て。




 午後。厨房に戻ると、入り口に衛士が立っていた。通達通りの立ち会いだ。少し窮屈だが——仕方がない。


 作業台の前に立ち、プティフールの最終調整に取りかかった。


 本選まで、あと二日。


 五つのパーツを、一皿に仕上げる。辺境の四季を——一口ずつに凝縮する。


 黒胡桃のフィナンシェ。父の批評を受けて、焼き温度を二度上げた。焙煎の深さを変えた。殻を割った瞬間の苦味と、奥に潜む甘味。秋の山の、風の味。


 霜花蜜のボンボン。糖衣を二層にした。外側はかりっと、内側はとろりと。口に入れた瞬間、冬の森で蜂蜜を見つけた時の驚きが蘇るように。


 高原りんごのコンポート。酸味を残して煮た。加熱で甘くなる高原りんごの特性を活かしつつ、生の酸味の記憶を一筋だけ残す。春の、雪解けの後に咲く最初の花のような——鮮やかさ。


 ベリーのタルトレット。夏の陽射しで熟した、あの濃い紫色。タルト生地は薄く、さくりと。ベリーの味が主役。余計なものは何もいらない。


 そして——中央のカラメル。


 辺境の蜂蜜を、ゆっくりと煮詰める。


 銅鍋の中で琥珀色が深まっていく。泡が立ち、香りが変わる。蜂蜜の花の香りが——カラメルの深い苦甘さに変わっていく瞬間。


 あの境目。甘さと苦さの境界線。


 菓子師の手が——その一瞬を、見極める。


「……ここ」


 火から下ろした。鍋の底で、カラメルが琥珀色に凝固していく。


 辺境の太陽。短い夏の、あの力強い陽光。冬の長さを知っているからこそ——短い夏の光が、こんなにも眩しい。


 五つの菓子。五つの季節。五つの味。


 これが——わたしの答え。


 毒ではなく。武器ではなく。操るためではなく。


 食べた人の心に——風景を贈るための菓子。




 夕方。


 厨房の片づけをしていると——扉の向こうから、聞き覚えのある足音が近づいてきた。


 重い足音。でもどこか——ためらいがある足音。セドリック様の足音ではない。セドリック様はもっと迷いがない。


 足音が——扉の前で止まった。長い沈黙。


 そして——扉が、控えめに開いた。


 ギルベール・フォン・メルヴェーユ。


 擦り切れた伯爵服。だが手入れだけは完璧。くすんだ金髪に、眉間の皺。琥珀色の目が——リゼットの目と同じ色をしている。


「……お父様」


 リゼットの声が、少し震えた。


 父が厨房に来ることは——これまでなかった。品評会の観覧席から批評を投げつけるだけ。「話にならん」「焼き加減が甘い」「蜂蜜の扱いが雑だ」。言いたいことを言って、去っていく。それが父だった。


 厨房まで足を運ぶのは——初めてだ。


 ギルベールは入り口に立ったまま、厨房の中を見回した。作業台。窯。棚に並ぶ素材の瓶。そして——リゼットの手元に並ぶプティフールのパーツたち。


「……ふん」


 第一声がそれだった。


 リゼットは身構えた。何を言われるか。「こんなもので本選に出るつもりか」「素材が貧弱だ」「話にならん」——どれが来ても驚かない。


「毒の件——片がついたそうだな」


 予想外の言葉だった。


「は、はい。後任の助手が——」


「聞いている」


 ギルベールが一歩、厨房に入った。靴音が石畳に響く。作業台の前まで来て——並んでいるプティフールのパーツを、じっと見つめた。


「菓子で人を操る、か」


 父が呟いた。


 リゼットは息を呑んだ。エルザの言葉を——父も聞いたのだ。


「昔からあること——確かにそうだ」


 ギルベールの声は低く、静かだった。いつもの尊大な批評家口調ではない。


「私が社交界にいた頃にも——菓子の裏で動く駆け引きはあった。この菓子師は誰の派閥か。あの菓子に使われた砂糖はどこの商会から仕入れたか。茶会で出す菓子の甘さひとつで、政治の流れが変わることもあった」


「お父様も——ご存知だったのですか」


「知っていたとも。私は食べる側の人間だ。菓子の味だけでなく、菓子に込められた意図も——舌で読み取ってきた。誰が媚びているか。誰が牽制しているか。甘味の裏にある苦味を、な」


 父の琥珀色の目が——少しだけ、遠くなった。


「お前の母は——違った」


 リゼットは動けなかった。


 父が母の話をすることは——ほとんどない。五年前に他界した母、エレーヌ。料理上手で、父の舌を唯一満足させた人。


「エレーヌの菓子には、意図がなかった。駆け引きも、打算も。ただ——食べた人間を、笑わせるためだけに作っていた。あの女は馬鹿だった。伯爵夫人が自ら厨房に立つなど、社交界では物笑いの種だ。それでもあの女は——笑って菓子を焼いていた」


 父の声が——かすかに震えた。


 すぐに咳払いで誤魔化した。


「……要するにだ」


 ギルベールが作業台のプティフールを指さした。


「この菓子に——毒はないのだな」


「……当たり前です」


「駆け引きも、打算もないのだな」


「……ありません」


「ならば——」


 ギルベールが一瞬、言葉を切った。眉間の皺が、わずかに緩んだ。


「——焼き温度に気をつけろ。フィナンシェの底面がまだ半度甘い」


 それだけ言って——踵を返した。


 扉に手をかけたところで、足が止まった。振り返らない。でも——声だけが、低く聞こえた。


「……お前の菓子は、あの女に似ている」


 扉が閉まった。


 リゼットは——しばらく、動けなかった。


 目の奥が熱い。指先がじんとする。


 お前の菓子は、あの女に似ている。


 父の口から——母の名前が出た。リゼットの菓子に、母の影を見たと——そう言った。


 それは父にとって、どんな批評よりも重い言葉だ。


 「不味くはない」よりも。「話にならん」よりも。


 ——お前の菓子は、あの女に似ている。


 涙が——一筋だけ、頬を伝った。すぐに手の甲で拭った。菓子に涙が落ちてはいけない。塩気が入る。


「……ありがとう、お父様」


 誰もいない厨房に——呟きが落ちた。




 日が暮れかけた頃。


 セドリック様が厨房に来た。昨日と同じように。何も言わず、窯のそばの椅子に座り、腕を組んで壁にもたれた。


「……今日は、何を作っていた」


 珍しく——聞いてきた。


「プティフールの最終調整です。フィナンシェの焼き温度を修正して——カラメルの煮詰め具合を確認して——」


「……ああ」


 興味があるのかないのか分からない返事。でも——聞いてくれている。リゼットにはそれが分かる。この人は、興味のないことには「ああ」とすら言わない。


「セドリック様」


「何だ」


「犯人が——捕まりました」


「聞いている」


「……エルザという女性でした。後任の助手。菓子で人を操るなど昔からあることだ、と——言ったそうです」


 セドリック様は何も言わなかった。しばらく沈黙が続いた。


「……菓子のことは分からん」


 ぽつりと——言った。


「味のことも、よく分からん。俺の舌は——まだ万全じゃない」


 リゼットは手を止めた。セドリック様が自分の味覚について話すのは——珍しい。


「だが——お前の菓子を食った時のことは分かる」


「……え?」


「操られてるとか、そういうのじゃない。ただ——食ったら、もう一口食いたくなる。それだけだ」


 リゼットは——笑った。


 小さな、でも確かな笑い。


「それが——菓子の力です、セドリック様」


「……そうか」


「毒でもなく、武器でもなく。ただ、もう一口食べたいと——思ってもらえること。それが、菓子師の全てです」


 セドリック様は視線を逸らした。窓の外の、夕焼けに染まる空を見ている。


「……なら、本選でも——そういう菓子を作れ」


「はい」


「もう一口食いたくなるやつを」


「……はい」


 窯の火が赤く揺れている。プティフールのパーツが作業台に並んでいる。辺境の四季。辺境の風景。辺境の——この人に食べてもらいたい味。


 あと二日。


 毒ではなく。武器ではなく。


 この手で——贈り物を作る。


 昔からあること——菓子で人を操ること——に対する、リゼットの答え。


 菓子で、人を——笑顔にすること。


 それも——昔からあることだ。


 母が焼いてくれた菓子がそうだったように。


 リゼットは窯の火に向き直り——最後のフィナンシェを、窯に入れた。


 半度。たった半度。父の指摘通りに、温度を上げて。

事件解決回。犯人の「昔からあること」という台詞、宮廷毒殺史の片鱗を匂わせました。このシリーズ、実は裏設定がかなり重めなんです(笑)。でも表には出しすぎず、甘いお菓子の物語として楽しめるように。さあ、次はいよいよ本選です。

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