第8話_『姉様』とわたしの姉妹ごっこ
キティに前述の詞を告げると女性はさっさと部屋の中のドアを開けて、ノイマン家の中に消えた。キティは広いノイマン家屋敷の台所をちゃんとあの女性が見つけられるのかが疑問だったが、一時間ほどしてくるとなにやら芳しい匂いが開けっ放しのドアから嗅ぎ取れた。そしてしばらく経った後、その女性はカゴにパンを山積みにして、キティのところに帰ってきたのだ。香ばしい匂いに、焼き加減も見事なそのパンたちを目の当たりにして、空腹で動けなかったキティの身体がベッドから起き上がった。食べるために。食べたいと思ったから。女性がすぐ傍の机にカゴをおいてキティの起き上がり動作を補佐してくれたこともあり、キティの身体はベッドに座るかたちに落ち着く。そこから一瞬、間を置かずに女性はカゴの中からキティの口に合いそうな大きさのパンを選ぶとキティに渡す――のではなく、「はい、口開けて。あーん♪」と食べさせてあげる旨を表明したのだ。さすがに8歳にもなって「あーん」は恥ずかしかったが、家族の誰も見てないことと、空腹で起き上がるのにも苦労したことを鑑みたキティは甘んじてその提案を受け入れた。
「あーん」小さい口をめいいっぱい大きく開けて待つキティに、女性はパンをひとつまみ千切るとそっと、静かにパンを摘んでいた指ごとキティの口の中に入れた。キティの唇と女性の指が触れ合い、キティの舌がパンと一緒に女性の指を舐める。一見すると食べているのは女性の指?――と勘違いしてしまいそうな艶かしさ。でもそれはパンを食べるために避けては通れなかった通過儀礼に過ぎない。キティの舌がパンの千切られた断面から露になった柔らかい中身と舌が触れ、焼きたてふわふわの食感をキティに伝えると、キティはいよいよ顎を閉めて歯で押し込まれたパンを咀嚼し始めようとする。それを察知した女性はキティの口に突っ込んでいた指をこれまた静かに引き出した。キティの涎で塗りたくられた女性の指が見えたことで、キティは遠慮なく口の中に入れられたパンを噛んで、舐めて、咀嚼した。指についたキティの涎を舐めながら見守る女性の目の前で、ごっくん、一切れ食べきったキティの目から熱いものが零れてきた。おいしい。食べたい。うれしい。 食べた瞬間感じたいろんな気持ちがそれこそパンのように練り込まれて、涙として目からぽろぽろ溢れ出す。なにもつけてないシンプルなパンだったけど、本当の空腹時に食べるとこんなにもおいしいのかと初めて知ったキティは泣かずにはいられなかった。それは決してパンのおいしさ、パンを食べられたことだけじゃない。パンを作って食べさせてくれた目の前の女性の優しさがとても嬉しかったこともあるんだと、8歳のキティにもわかっていた。改めて目の前の女性を見る。精緻な顔立ちに落ちてきたときの桜の花びらと同じ、桜色の髪――。
「おいしい……あの、お名前……」
「おいしい? じゃあたくさん食べて頂戴! ジャムもあるわよ。ほら!」
キティは無意識にパンへの食欲と女性の名前を知りたい欲からくる詞をごちゃまぜにして口に出していた。ベ、別に一挙両得を狙ったとかそんなわけじゃないのだけれど詞にしてしまった時点でキティは恥ずかしさのあまり真っ赤に赤面してしまった。
でも目の前の女性はキティのそんなところも抱きしめるように受け止めて、満開の笑顔で喜び、次のパンを手に取った。名前を聞くのは失敗か――キティがそう思いかけたとき、不意に疑問が頭をよぎる。ジャムもあるよと女性は言ったが、机の上にはジャムがなかったのだ。
「あのう、ジャムあるよって、言ってましたよね……?」
「ん? ああジャムね。あるわよ、この中にとびっきりおいしいやつが!」
そう言って女性が指差すならぬパンで指し示したのは、部屋の中なのに被っている真っ黒な帽子のブリムとクラウンの境目についていたチャックだった。いきなりそのチャック、手も使ってないのに自動で開いたかと思いきや、中から黒い腕が一本上へと飛び出してきたのだ。あまりのことにびっくりするキティだが、よくよく観察してみるとその黒い腕、先っぽの黒い手の部分にジャム瓶が握られていたのである。黒い手は登場こそセンセーショナルだったが、その後はジャム瓶をそっと置くなどまるで裏方のように静かに動き、役目を終えて開かれたチャックの口の中へと戻っていった。なるほどジャムはあった。でもこの人何者? 疑問が解決されたと思いきや、キティの頭には新たな疑問が浮かんでしまう。
と、ここで当事者たる女性が説明してくれた。そして名乗ってもくれたのだ。
「驚かせちゃってごめんね。この帽子、影の秘術で自分の影を糸にして作った影帽子なの。だから黒いのよ。で、あんな便利道具もしまっているわけ。わたしの名前はミコ=R=フローレセンスよ。よろしくね。で、可愛いめんこいお嬢さん、あなたのお名前はなんていうの?」
「あ……」
キティはそう指摘されて初めて自分も名乗っていなかったことに気付く。町の名家であるノイマン家の令嬢としてなんて失態……大いに反省した。
なので、パンを食べさせてくれた――助けてくれたお礼の意味も込めて、幼い令嬢はこう自己紹介したのだ。
「わたしはノイマン家の一人娘、キティ=ノイマンです。どうぞ御見知り置き下さい。ミコ姉様。助けてくれてありがとう」
姉様という最大限の敬称をもって。キティとミコはようやく自分たちを紹介しあったのだ。それは同時に疑問解消の訪れを告げる。キティは身を乗り出して、カゴの中の、ミコが作ってくれたパンに手を伸ばした。すぐに食べることはせず、ミコが勧めるジャムを塗ってみる。ミコ曰く、これは美食の町イレ・アイエの然るべきジャム専門店で手に入れた逸品だという。ミコの勧めでたっぷり贅沢に塗り付けてあーんと頬張ると、目の前の景色が変わるような刺激が全身を駆け巡った。その刺激に病み付きになり、何度も何度もよく噛んで味わう。ミコの言う通り、美食の町で入手した一級品の味は最高だった。これまで両親の作ってくれる料理しか知らなかったキティ。両親も食材にこだわる方だったけど、これに比べたら評価は下だろう。自分の人生というものが、井の中の蛙であったことを今思い知らされた。大海の幸はこんなにも開けて、多種多様だったのかと。
「姉様、他の種類のジャムはないの?」
「もちろんあるわ。何味がいい?」
わがままともとれるキティの頼みに嫌な顔ひとつ見せることなく、ミコはまた影帽子のチャックを開けて黒い腕・手に色々なジャム瓶やバター、マーガリンに至るまで握らせて取り出し所狭しと机の上、パンが詰っているカゴの周りに色鮮やかに配置すると、「これは大人向けで……」と味の説明やらトッピングのコツやら色々語って教えてくれた。キティはそれを全て聞き留め自分で取捨選択し、美食暴食空腹廃絶主義に基づき、とにかく食べに食べまくった。その健啖ぶりはもう名家の令嬢から完全に遠ざかっていたが、キティ当人はそんなこと気にも留めていなかった。おなかの空いた状況の中では名家のお嬢様だろうと神様だろうと無力で非力な生命である。そこに食が提供されれば貪りつくのが本能であり、義務であり、使命なのだ。当然の使命に基づき、キティはミコが作ってくれたパンをがむしゃらに、かつありがたくいただいていた。
そんな様子を微笑ましく見守りながら、ミコもまた自作のパンを手に取り、自分の説明を実演するように、キティにお手本を見せるようにパンを食す。そのときキティはハッと気付く。そうか、姉様もおなかを空かせていたんだ――自分のことばかりで気付かなかったことを恥じたキティはそれまでの一人食べにカポンと蓋をし、ミコとの会食モードに切り替えた。「姉様、もっとこっち来て」とミコの座っていた椅子を引っぱってベッドに座る自分の隣、脈の音が聞こえるくらいに近い距離にまでミコを動かし、横に並び座ると、キティとミコはお互いの顔を見つめ合い、どこからともなく笑顔になった。そしてまた食べ始める。今度は適度に会話をしながらお互いの食べるものをトッピングして差し出し合いながらと、それはまさに会食、小さなパーティだった。母であるベアトリクスの死の一件以来、塞ぎがちだったキティは気持ちが段々と軽くなっていくのを実感していた。それは母の死やこの家でしかありえない「飢え」というちょっと特殊な極限状況で追い詰められていたキティを助けてくれたミコ。そのありがたさは「姉様」という愛称だけでは量れるものではない大恩である。でも同時に、ミコが助けてくれたのは上に関する一件だけで、母の死に関すること家族問題に関してどういえばいいのかという不安がキティの胸を締め付け始めていた。ひょっとしたらこれでお終いになっちゃうのかも――その可能性が否定できなくて、怖くて、絶対に受け入れられなかったのだ。今ミコと離れるのはイヤだと、キティははっきり認識していたから。
するとミコの暖かい手がポンとキティの頭にポンと載せられ、優しく頭を撫でられる。
ハッとしてキティがミコの顔を見上げると、ミコは変わらぬ微笑みを称えたまま、「言わなくていいの。大体察しはついているから」と、今のノイマン家に起こっている事情さえも知っているかのような素振りを見せたのだった。
「知って……るんですか、ミコ姉様」
「観察しただけよ。でも伝承楽団が芸術したあとの残り滓を感じたから、相当の事情があるって直感したの。あの伝承楽団が『芸術』を残すなんて、相当なことなのよ? あいつら流浪の民だから、会うこと自体難しいの。しかも他者のサーチには絶対引っかからない、会えただけで自慢できるレア集団なのよ。わたしも会えたのは一度だけだし」
ほえ〜――キティはあの女性芸術家たちがそんなにも稀少な存在だったのかと、今になって思い知るが、その価値を知ったところで悶々したりしないし、他人に自慢することもない。だってあったとき初めて聞いた「伝承楽団」の名、きっと町の人に説明してもわからないだろうと思ったから。あの人たちには母様の死体の腐敗を停めてくれた感謝しかない――キティはミコとの会話を続ける。
「そうだったんですか。すごかったんですよ、伝承楽団の方々。もう腐敗が始まりかけていた母様の死体に死化粧を施して父様に死を受け入れさせてしまうほどの芸術品に変えてしまったんです」
「やっぱりそういうことだったのね。死化粧に使う絵の具や化粧品の匂いがしたからそんなことだろうとは思っていたけど……さぞかし辛かったでしょうね、キティ」
そう告げるとミコは素早くパンをひと千切りしてキティの口に突っ込むと、その手をキティの頭に回し、隣に座っていたキティの頭を自分の胸に引寄せ抱きしめた。突然パンを押し込められ、詞を発せなくなったキティはもがもがと動こうとすることで事態の打開を図ったが、ミコはそんなキティを胸と腕でぎゅっと抱きしめ、「辛かったでしょう」との詞を発して抱きしめ続けたのだ。その瞬間キティはミコが同情だけじゃない、母という大きな存在を失った悲しみやなんでという気持ちも理解して受け止めてくれていることに気付いた。ミコがキティの頭を抱きしめる腕の力は強く、でも支えになっている胸の方は小刻みに震えていた。そして微かに聞こえた「……うっ、うっ」という嗚咽。ミコは我が事のようにベアトリクス――キティの母の死を悼み、それを目の当たりにしたキティを力強く、でも精一杯の優しさで包み込んでくれていたのだ。とく……とくとミコの鼓動がキティの耳に入り、染み渡っていく。同情でも慰めでもない。キティの思いに共感したミコがしていること――それにつけるべき詞などなく、動機なんてないのだろう。だがミコの溢れんばかりの暖かい想いがあらゆる感覚を通してキティに伝わってくる。いつの間にか銜えさせられたパンは飲み込んでしまっていたキティ。口の中に空気が通り、声を出せるようになったとき、キティの心の箍が外れた。自分もミコの背中に両腕を回しきつく手を結びミコから決して離れないように抱きついて、抱きついて……泣き出した。
「ねえさまぁ〜、うっ、ううう〜。母様が、かあさまが〜」
「うん、そうねキティ。あなたのお母様は死んじゃった。信じられなかったでしょうね、辛かったでしょうね。わたしにはこんなことしかできないけど、あなたの涙は全部わたしが受け止めるから」
「姉様〜!」
キティは泣いた。子供だけに子供らしく、子供のようにわんわん泣いた。抱えられている頭を自分からミコの胸に押し付け、涙を流して慟哭する。自分を抱きしめ包んでくれるミコの身体を離すまいと、必死に縋り付きながら。
あの日、医者が去った後玄関口でもキティは泣き、兄に慰められたけど、本当に兄に求めていたのはそういうことではなかった。そう、キティは今ミコにしてもらっているように自分の悲しみも涙も泣き声も全部受け止めてほしかったのだ。その点をミコはよくわかっていたのだろう。最初の嗚咽を最後に、じっと黙って泣き喚くキティをただただ必死に、離さないように抱きしめていた。キティはミコの行為が本当に嬉しくて、だから全力でその胸に甘えた。胸の奥から聞こえるミコの心臓の鼓動が、悲嘆に暮れていたキティの身体と心にささやかな安らぎをもたらしてくれる。それが薬かはたまた癒しなのかは8歳のキティにはわからなかったが、ともかく、ミコのおかげで心に溜め込んでいたやり場のない気持ちを解放することができた。泣き続けるのも疲れるもの。時間が過ぎ、心が落ち着いてきたキティは今までミコの胸にしか向けていたなかった目を頭ごと上げて、ミコの顔を見上げ目と目を会わせる。ミコもキティの意図を察したようで簡潔なフレーズで訊いてきた。
「もういいの?」柔らかに被せるようにかけられる詞。暖かすぎる詞だった。
「うん。もう大丈夫です、ミコ姉様」
キティは気丈に答えたが、その声はちょっと震えていた。実際、まだまだ甘えていたい気持ちが心の奥底にある。でもそれじゃ、母様に縋ってわたしたちを省みなくなった今の父様と同じになっちゃう――キティは持ち前の冷静な視点で自分を、家族の現状を見返してミコの抱擁から離れる決心をしたのだ。離れる最中、名残惜しさを醸し出しながらも、キティはミコの腕から抜け出し、元の位置へと戻っていった。一部始終を見届けたミコはまたパンを一切れとって、それを千切って半分ずつ、キティと分け合って食べる。キティもそれに応えるように、涙の痕も拭わずに「えへへ」と泣いた後の笑顔を魅せて渡されたパンを頬張った。これが最後の食事になるだろう――その確信がキティにはあった。
というより、キティがこれを最後にしてしまえばいいだけの話なのだ。先の確信とは確信犯として行動するキティ自身の意思へのものだったのだ。
「おいしい……」ジャムもなんのトッピングもないパンを噛みながら、キティは焼きたてもちもちとしたミコのパンの食感を最後と噛みしめ食していた。なにもつけてはいないけど、ミコの胸の中で泣きまくって気持ちがスッキリしたせいか、今まで食したどのパンのパターンよりその味は食べ応えがあるものだった。最後のパン……キティはよくよく噛みしめ味わって、そのパンを胃に放り込んだ。そしてミコの方に振り向き、目を瞑って両手を合わせ、感謝の詞を贈る。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
「?」キティは自分の「ごちそうさまでした」に全く同時に重なるようにミコの「ごちそうさまでした」を聞いた。あっ……目を開けてみると、ミコもまた同じタイミングで食べ終わっており、キティの方を向いて食事の終了を告げる挨拶である「ごちそうさまでした」を合掌し、目を瞑って呟いていたのだ。そしてどうやらミコも気付いたらしい、おそるおそる瞼をゆっくりぴくぴくと震わせながら開けると、真正面に全く同じ所作をしているキティの姿を認識したようだった。互いを見つめ合う二人。硬直し固まった二人。どこからともなく、やっぱり同時に微笑み笑い出す二人。ここまで息がピッタリの自分たちがおかしくなってしまったのだ。こうしてキティの空腹危機とミコの登場から始まった波瀾万丈の食事は終わった。
食事が終わってひと呼吸置いた二人は、またしても全く同時に「あの」と会話を切り出そうとした声をハモらせた。ここまでくると以心伝心を通り越して一心同体の間柄と自慢したくなっちゃうキティだったが、さすがに会話をする順番で重なったのはバツが悪い。
しかしキティは町一番の名家ノイマン家の令嬢。こういう場合は自分からおもてなしするのが礼儀作法と知っている。なので、詞に詰ってしまったミコを本気で労うべく、おもてなしの心を伝える。
「ミコ姉様、わたしたちはもう一線を越えた仲。禁断の仲とも言える間柄になりましたわ。だから会話の切り出しもごちそうさまも全て同時になってしまったのです。わたしと姉様は『リンク』してしまったのです。それでもここはわたしから話をさせていただけませんか。まずは我が家がこうなり姉様に多大な心配をおかけした経緯、キティの口から話させてくださいませ。舌っ足らずで詞足らずなわたしの説明など姉様の観察力には到底及ばないとわかっています。しかしここで起きたこと、見たこと聞いたこと感じたことをわたしはお伝えしたいのです。ですからどうか、わたしに先を譲っていただけないでしょうか」
神妙に頭を下げるキティ。一連の動作は洗練され、詞は輝きにも似た幻想を魅せていた。そしてそれを無下にするほど、ミコという人間は無粋ではないようだ。柔らかく、暖かい手で下を向いていたキティの頭を丁寧に撫でると、「わかったわ、キティ。小さなレディの御提案、謹んで受けさせてもらいますわ」と了承の返事をくれたのだった。礼儀と誠意が通じる――そんな簡単なことがとても心地よかった。
ミコの同意のもと、キティはおもてなしを始めた。ことの始まり。母様の死。伝承楽団との邂逅。伝承楽団が施した処置。父様がその死を認め棺に贈ろうとリバムークに目を付け、ものの見事に打ちのめされた暗転の兆し、そしてキティが予測した通り、母様の死体に縋る父様、そんな父様を元に戻そうと子供ながらに愚直なまでに奮闘するが、肝心のネジが外れている、思考の歯車がズレている兄様、そんな二人に愛想をつかして自分は自失のベッドに寝転んで、飢えに耐えていたことを――包み隠さず、身振り手振りに適度な休憩も交えながら、1から24まで全部語った。語り終わった後の心が抱いた感想は、『よく生きてたわ、わたし』という、自分の運への感心だった。今日ミコにこうして出会えなかったら、そもそもパンを作ってもらえなかったら、明日には瞼を閉じたまま、永遠に眠っていただろうから。
さてさて自分の話が終わるとそれが如何な出来だったのか気になるのがそれなりの家の子供の年頃特有の習性である。一切合切を喋り終わったキティはミコの顔色を伺う。すると……。
なぜか「あー」と目を瞑って身体ごと仰け反っているミコの珍妙なリアクションを目撃した。両手は前に突き出して「もうやめてー」と訴えてる。確かに聞くに耐えない話だろうけど、そんなにミコにとっては毒だったのだろうか?――キティの心に不安がよぎる。
「どきどきはらはら……終わった? キティ」戦々恐々――ひどく緊張した声色でミコは目をうっすらと開けながら訊いてくる。それがキティのおもてなしに対するミコの第一声だった。キティが「はい、終わりましたわ姉様」と答えるとミコはようやく張りつめた緊張の糸をほぐし、あの意外な(実をいうとキティはちょっと面白いとも思っていた)ポーズをやめて、胸に手をあてひと呼吸した。
ようやく安心した――って御様子。見本お手本そのものだった。
「どうしたんです、姉様? わたしが話している最中、ずーっと挙動不審になっちゃって」
キティの率直な感想。幼さゆえに、無邪気がゆえに残酷だったかもしれないその詞を受け取ったミコは、「いやね……」と手をヒラヒラさせてまで前置きして返事を返し始めた。
「わたしがここに来たのって、ほら……空から桜の花びらと一緒に落ちてきたでしょう?」
「あーそういえば! そうでしたわ」
「あれ桜島に一本しかない桜の心樹が魔法でわたしのために作ってくれた花道だったのよ。空に架かったね。このリバムーク・プロトタイプの種を植えるにふさわしい場所を導いてくれるって言われて昼夜空を歩くことえーと……10日か半月か、それでここ(目的地)に来て花道は御役御免で崩壊し、キティとわたしの出会いのあのシーンに繋がるの。だからなんかさー、ものすごい整合性っていうか、運命の悪戯というか、現実のご都合主義がわたしへの当てつけをかましたのかってくらいに聞こえちゃったのよ。実をいうとわたし、ガデニア盛花祭でのリバムークの競売の現場にもいたし……寝てたけど」
「な……なん、ですと……」ミコの返事を聞いて、今度はキティが固まった。全身小刻みに震えながらではあるが、目立った行動は封じられる。行動と硬直における質と量の等式に従って。ミコの返事を聞いて、その内容に心臓が停まりそうになりそうで。でもいつもより早く脈打ってもいそうなのだ。キティはそれほどの衝撃をミコの返答から受けていた。
「リバムーク……プロトタイプって」
「新種の花が完成するまでの開発過程で生まれた『要求品質を満たせず失敗作と見なされた花達』のこと。つまりはリバムークの数世代前の親戚だと考えて貰えればいいわ。ほら、この箱この袋にある」
ミコはそう言って影帽子のがま口チャックを開けると黒い舌に載せてひとつの黒い箱を取り出した。上下に波打つ黒い舌が先っぽに乗っけているのは同じく黒い箱、ミコがその箱を手に取ると、黒い舌はちゅるんと引っ込む。キティはそれを見て驚かずにはいられなかったが、同時に平静を心掛けてもいた。このミコ=R=フローレセンスという人物に関しては、きっとやることなすことみせること全部びっくりさせられるのだろうから。それくらい大量の「引き出し」を持っているだろうということは、ミコが大事そうにしている影帽子を見ていてなんとなく感じていたキティである。
さてミコは黒い舌に手元まで運ばせた黒い箱を膝枕に寝かせて蓋を丁寧に撫でる。さすがにその箱、唾液塗れなんてことはなく、誇りひとつついてないような黒の神々しさを放っている。そしてミコがその蓋を開けると、中には花一束覆えそうな折り方をされた上質な絹の布と二重に薬包紙で包まれつつもなおそのふくらみ、隠しきれない青の色合いでもってその存在感を称えた種子と思しきものを包んだ薬包紙袋。ふたつの包みものが目に入ってきた。
「これが……リバムーク・プロトタイプですか、姉様」
「そう、瑠璃色の種が19個にこっちの絹の布には人工授粉に使った親花たるリバムーク・プロトタイプと種付けに使った万能受精花キャッシャーを包んでいたの。ほら」
そういってミコが膝の上で布と薬包紙の袋を丁寧に、閉じた蕾の花びらをめくるように開いていく。すると確かに、絹の布には結果を残して本懐を遂げた2種類の親花の姿が、薬包紙の折曲げられた谷間の底には重力に従い溜まって小さな山を作っている少量の結果こと種の山が、それぞれ姿を現したのだ。親花の状態の良さにも関心を寄せたキティだったが、やはりなにより食指を動かされたのは、青色の宝石・ラピスラズリのような深く純度の高い青を身に纏ったリバムーク・プロトタイプの種達の方だった。先程ミコが偶然とか現実のご都合主義とかについて語っていたが、キティもこの現実には「機会仕掛けの神」の存在を疑ってしまう。こんなにも一気に都合よく、物事は展開するものなのか……。
ミコの返事は中途半端だったが、一連の所作も合わせてキティはミコの目的に察しがついた。なので、ここで会話を切り上げ、行動に移ることを提案した。
「姉様、兄様を探しましょう。兄様は先程話した通り父様に然るべき花を贈れば善いと思ってます。通りすがりの詐欺師に騙されて渡された花じゃ案の定だったけど……姉様の持っているリバムーク・プロトタイプなら、きっと。姉様もそのつもりなのでしょう?」
訊くまでもないことだが、敢えて口に出す社交辞令。詞のボールを投げられたミコは満面の笑みで受け取り、ボールを投げ返してくる。
「もちろんよ。わたしはものわかりの良さが美点かつ欠点でね。その手のエピソードには事欠かないわよ。キティ、わたしがここに来たのはきっとあなたとアイズの兄妹にこの種を託すためだった――今はっきりとそう言える。だからねキティ、遠慮なんかしないでもっともっとわたしを引っぱって、引きずり回して、翻弄して。それこそ長い旅路の中、今のわたしが求めていたものよ。間違いないわ!」
ミコの暖かく強い想いのこもった返事に家族問題を諦めきっていたキティの心にも火が灯る。不貞寝で枯れかけていた身体と心。身体はミコのパンで満たされ、心もまたミコの詞で熱く迸る。そこまできてキティはようやく「ある事実」に気付く。
それは、自分がもう何日も同じ寝間着を着用して不貞寝している間に汗をかき、汗臭くなっていることだった――。
その事実に気付いたキティは顔面蒼白青ざめて、内心激しく自分を責め立てた。仮にもノイマン家のレディがあられもない姿を他人に晒してしまうとは……然るべき階級の家の礼儀作法でも『厳禁』に値する項目、『然るべき家の者は、決して初対面の人間に不快を与えるような姿を見せる事なかれ』に抵触してしまった。数日寝続けた間にかいた汗で透けてしまった白の寝間着に、その汗が発する不快臭が極めつけだった。こんなにもみっともない格好でよくミコに甘えられたな泣きつけたなとキティはお嬢様特有の悶絶タイムに突入する。両手で頭を抱え振り回し、「あ〜ぎ〜ゔ〜」と唸り声を上げる。それをミコの目の前でしていることが、ますます自分を(自分で)貶めているとこに気付かないのが、まだ8歳のキティの限界であり、同時に愛すべき子供らしさでもあった。
それをわかっていたのだろう。ミコは突然取り乱したキティを手元に抱き寄せる。キティは「姉様ダメ! 今のわたしは」と抵抗しようとするが、ミコは即座に「姉様なら身内、家族特例じゃなくて、キティ?」とキティに返す。その詞を聞いて、キティのじたばたはピタリと止んだ。ミコの指摘を受けて思い返し、考える。
(わたしは生命を救ってくれたこの方を姉様と呼んだ。それは最大級の尊称を贈ると同時に姉様を家族同然として見たかったからってこと?)
思い当たれば……フシもある。
「じゃあ姉様はわたしにとって実質家族みたいなものだから礼儀作法の『厳禁』には当たらないということですか?」
「そういうこと」
「いい案ですけど……こじつけですね」
ミコの提案に傾きつつもそれをこじつけと正鵠を射た発言も忘れないキティ。抱きしめているミコは抱きとめたまま、しばらく黙る。それは自分が選択することよ――ミコの声無き声がキティには聞こえたような気がした。沈黙の閑話休題、キティは決めた。
こじつけを用いる女狐になることで、自分を許す、すなわち甘やかすことを――。
そうと決めたらスタートダッシュ。キティの行動は速かった。
「そうです。姉様は家族も同然なのですから、みっともないとこを見せたっていいのです。では姉様、兄様のところへ行く前にわたしの着替えを手伝ってほしいのです」
「ええ、わたしの可愛いキティ。家族同然の子の着替えを手伝うのは人類の使命。謹んで承らせてもらうわ。着替えの下着と服、あと汗を拭くタオルがあるのは……あのワードローブの中かしら?」
「うん。姉様お願い、取ってきて。中は自由に見ていいし、下着も服も姉様の見立てで構わないから。わたし、ずっと寝てたせいか、ちょっと身体が……」
「わかるわよ。わたしも経験してるもの。身体が寝ちゃったり痺れたりして動かなくなること、あるよね。じゃあ、行ってきます」
先程までとは打って変わり、キティは自分に甘くなり、ミコにも露骨に甘え出した。その変貌ぶりを他人が見たら「女狐」と納得するのだろうが、ミコは嫌な顔ひとつせず、部屋の反対側にあるワードローブ――洋服箪笥へと赴き、キティの服装一式を見繕いだした。
間もなくミコは両手に服と下着とタオルをまるで仕立屋の店員のように綺麗に折り畳んで重ね、キティの待つベッドへと帰ってきた。一番下の腕にガーデニングドレス、真ん中に大きなタオルが2枚、そして一番上には、少女を少女たらしめる白い絹と紫の糸による小さな下着一式を重ね、そして抱えて。
キティに恥ずかしいなどという気持ちはもうない。あのこじつけ論理に身を任せたことで心が軽くなったから――違う。あのこじつけがきっかけでミコという女性をより近くに、より親しく、より心許せる『姉様』へと昇華させられたからだ。もう厳禁の罰も怖いとは思わない。そんなものこっちから吹っ飛ばしてやるとキティは意気込む。そしてミコがキティの隣のベッドの上に持って来たもの一式を置き、食べるときにも使っていた椅子に座り、向きを変えてキティの真正面に構える。そして平然とこう宣うのだ。
「じゃ、脱がすの手伝うわね、キティ」
「うん姉様。やさしくしてね。わたしは後ろ髪まとめとくから」
そう言ってキティは目を瞑って肩にかかる長さのオレンジ色の髪の毛を纏めると、ミコはキティの着ている寝間着のズボン部分に手を掛けて慣れた手つきで脱がしだす。寝間着を掴んだ手は太腿からお尻を通過し、上半身へと向かうにつれて露になっていくキティの素肌。そしてミコの手が上半身をなぞるように持ち上げられていくと、髪を纏めていたキティの両腕もまた持ち上がり、首と肩の高さで脱げてないのはネックラインと両腕の袖だけ。小さな鎖骨に心臓に直に触れられそうな胸と、上半身もほぼ全てが丸見えになっていた。
そして、そこで脱がせているミコがキティに声をかける。
「はいキティ、これからネックラインと袖を脱がすから、髪の毛、ちゃんと頭にくっつけといてね」
「うん、姉様……」キティは静かに頷き手で掴んだ後ろ髪を逆立たせ、がっちり頭に固定する。ミコはその隙を逃さす素早く、でも細心の注意を払って寝間着を引っぱった。そしてとうとうキティが着ていた寝間着はキティの身体からすっぽり脱げ取れ、ミコの手元にはらりと落ちた。懸念していた後ろの長髪も脱がすときにネックラインを当てて上へと梳くように動かすことで一本の抜け毛被害も被ることなく綺麗に脱がせることができた。
残るはパンツ一枚だけ。ミコは裏返った寝間着を表に戻してわざわざブティック畳みにして床に置くと、怪しさ半分優しさ半分の手つきでそのまま座っているキティの腰に指をかけ、するするっとパンツを足先へと脱がして運び、そして『時間』をかけて足先からパンツを取り上げた。上(寝間着)も下も、一連の動作には澱みが無く、非常に洗練された動きで取ってみせたミコ。その手つきの鮮やかさに全裸となったキティは恥ずかしがるよりも前に、「姉様素敵……」と感心するのであった。
「これも女の嗜みね。じゃあ拭いてあげるから、もうちょっと近寄って」
「はい」
ベッドのシーツの上でキティがしゃがんだ体勢のまま、両手を前に突き自分の身体をずずずっと押し出しミコに近寄る。タオルを手にするミコとの距離は、もうお互いの吐息、心音が聞こえそうなまでに近付いていた。またその胸に甘えたい衝動を懸命に抑えるキティ。もう意識は熱さで朦朧としていた。少女はその熱さの本当の出所も知らぬまま、汗に覆われた裸体を晒す。そこにミコがタオルを当てた。上から下へ――最初に汗を拭ったのは顔と首周り。ぷにっとしてもちもち柔らかい少女の肌を傷つけないよう、触れるか触れないかとは言い過ぎだが、タオルを押し付ける感触を極力避け、被せるように、包み込むように顔と首周りを覆ってから、一気刹那に汗を拭う。やらせている側のキティからして見ると最初こそ非常に手抜きに見えたのだが、ミコの被せ方は絶妙で、タオルを押し付けるのではなく必要十分なだけ触れさせることで見事に額や鼻、頬や首もとの汗を拭い取っていた。とはいえそれもここまで、皮膚が繊細な部位だけの話。残り首から下の部位を拭くにあたって、ミコはタオルを片手持ちに変えた。それは片手でキティの身体に触れて支えるという意思表示。キティは抵抗なんてしない。だって気持ちがいいから。
ミコの左手が先にタオルで拭いていたキティの右肩に添えられる。それを起点としてミコは椅子から立ち上がってキティの腕、肩、背中、胸を拭き始めた。虚ろな瞳、熱い吐息、零れる嬌声。蕩けるような濃密な時間が、キティとミコの間で織り交ぜられていく。
「はい、上半身終了。それじゃ下拭くから、ちょっと横になって」
ミコの詞に逆らうこともせず、シーツを波立たせて片手を枕に、ごろり横になるキティ。半身に寝転んでまずこっちに身体の前を向けてきた少女の甘酸っぱい肢体を、ミコは丁寧に拭き取っていく。まずタオルを左手持ちに変え、右手で右半身を持ち上げこちらに向けているキティの腰を支えてから、腿から足首まで、表裏と右足を舐めるように拭いていく。外側が拭き終わるとミコはまたタオルの持ち手を移し、左手でキティの右足首を持ち上げて股下からの右足内側にもタオルを滑らかに滑らせる。作業途中キティの甘い嬌声が何度も発せられた。それは幼い少女が感じる、秘められた女性の可能性をミコに掘り当てられたことへの反射だろう。ミコはそんなキティの反応に「それでいいのよ」と囁くと、今度は寝返るよう指示して自分の正面にキティの背を向けさせた。ミコの姿が見えなくなったキティはすぐにミコがまた半身になって上に変わった残る左足を拭いてくれるものと思っていたが、ミコはまずキティの背中を指でなぞったのだ。タオルではない、ミコ自身の指で。触られた途端キティの身体はビクッと波打ち背中を丸めて縮こまる。それはまるで臆病な子猫みたいで、ミコの心に響いたらしい。「きゃあ〜! 可愛すぎる〜ぅ」とキティに負けず劣らずの嬌声を発したのだ。それは、キティがはじめて見たミコの「女の部分」だった。膝も折曲げ丸まりながら感情と思考が行ったり来たりを繰り返していたキティだったが、やがて左足に感じる、タオルの感触。ミコは丸まったキティに文句もつけずにキティの「ありのまま・そのまま」を受け入れ許容してタオル拭きを再開したのだ。なんでそこまでしてくれるのか――疑問に思ったキティは背中越しにミコに訊いた。
「姉様、どうして背筋伸ばせとか、足伸ばせとか言わないんですか? わたし、姉様に要らぬ苦労をさせているのに……なんだか、申し訳ない気持ちになっちゃいます」
それは嘘偽り無い、飾らない詞による本音だった。まあミコに苦労をかけている申し訳なさは自分のみっともなさに通じることを、キティはなんとなく感じ取っていた。だから喋った途端、胸がきゅーって痛くなった。全ては自業自得なのだろうか?
けれどもそれは違った。否、ミコによって否定された。ミコは朗らかな声で、明らかに上機嫌なのがわかる口調でキティにやさしく語りかける。
「苦労なんて。キティ、縮こまらせた原因はわたしにあるんだし、可愛いあなたの取った行動は今まで見なかった新鮮なもので、わたしの心をときめかせたのよ? だから苦労も忘れちゃった。折れ曲がった左足を持ち上げて汗を拭き取る――なんてこともない。苦労なんて当てはまらないわ。だってキティはわたしの愛しい妹分で、わたしはキティの『姉様』なのだから。あなたの全てを愛おしく感じる時点でわたしは惚れた。負けたのよ。でもそれは――愛情は苦労も損も楽しさ嬉しさに変えてしまえる魔法のスイッチなんだな〜♪ キティ、あなたがこういう状況なんかを後ろめたく思うことも自由だし、それは人なら当たり前に持っている機能。でもね、この人生を満喫したいんならそれをきっかけにして、チャンスにして、燃料にしてより素敵なあなたへと進むことに使わなきゃ。後ろめたく思うことは決して悪いことじゃないわ。何事もそう、善行か悪行か――その方向を最終的に決めるのはあなたの考え方であり心持ち。忘れないで。どんな絶望の中にいても、諦めなければ進もうと思える道はあなたの前に見えてくるから」
ミコの詞が姉たる者が妹へ教えている教訓の類であることは聞いていたキティもすぐにわかった。石板に文字として刻み込みたい。日記に赤インクのペンで残しておきたい。そんな衝動に駆られるが、汗を拭いてもらっている立場では叶わぬ夢である。要は心に刻んで記憶から忘れなければいいのだが、ミコの喋り方は透き通った冬の空気みたいでやはりまったく澱みが無く、それだけに覚えておけるかどうかキティを激しく動揺させるのだ。
心地良さに酔ってしまいそうで、大事なことを忘れはしまいかと――。
その心配が詞に出た。無意識の内に、気付けばキティはミコに訊いていたのだ。
「姉様、ありがとう。すごく気が楽になったわ。あと勇気も貰ったわ。姉様の教えとしてずっと覚えておきたいけど……忘れちゃったりしないかしら?」
正直な告白。それこそが今キティの進んだ“道”だった。背中の向こうのミコはまず「大丈夫よ」と返してからこう続けた。
「幼気で純粋無垢な女の子相手だもの、わたしだって手は抜かないわ。今喋ったこと、キティの心だけじゃなく、身体にも語り聞かせたから大丈夫。相互補完とでもいえばいいかしら? 記憶が薄れたら身体が行動で思いださせてくれるはずだし、どう動いたらわからなくなったときこそ心がこの記憶を呼び覚ましてくれるはずよ。わたし、ミコちゃんが修めているのは影の秘術だけじゃないんだから」
「姉様……」
「はい。足首以外全部拭き終わったわ。キティ、起き上がってこっち向いて。右と左の足はあなたの見ている前でやりたいの」
「うん、わかった」
見事に話を変えられた――その気持ちがキティになかったわけではない。もっとちょっと話していたかったが、会話の中でミコの真意みたいなもの――『ここから先はあなたが自分で学んでいきなさい。あなたはわたしのお人形じゃないんだから』――なんて感じのメッセージを感じ取ったから。空気の読めるレディにならなきゃ――キティはミコに言われた通り大人しく起き上がりちょっと位置をずらしてシーツの上に座り、ちょうど伸ばした足がミコの作業する位置に来るように座った。さっき足を折曲げて困らせたことへのお詫びのつもり――ミコにはちゃんと伝わっていた。彼女はこんな詞で褒めてくれた。
「ナイスポジションよキティ。距離感完璧じゃない。どうやらあなたは空間把握の才能に秀でたところがあるみたいね」
望外の褒め詞を頂いたキティは足を伸ばしたままゆで上がってしまう。また余計な汗を出してしまう危険性があったが、それよりも速く、だけどゆっくり丁寧にミコはキティの両足を拭いた。足の甲に足の裏、指の間に至るまで入念にタオルで拭いてくれた。「ハイ終わり」ミコの一声でキティが汗を出す前に我に帰り、足元を除いてみると……ピカピカのツヤツヤだった。汗臭さも足に特有の不快臭も見事に取り除かれており、靴下を穿くのを躊躇いたくなるくらいだから相当だろう。まさに神業。いや……愛のなせる業だ。
キティは膝を曲げ綺麗になった足をうっとりと見つめる。それだけでも絵になるのだが、先に予定がある以上、いつまでもそうしているわけにもいかない。キティはミコから渡された下着第一弾として、床に足をつけられるように靴下を受け取り、それを「……んっしょ」と掛け声入れながら両足に穿いた。別にスリッパもあるし、まずはパンツからでもとは……一切全く思わない。ミコの用意してくれた衣装はガーデニングドレスと確認できた時点で、外に連れ出されるのはわかっていたから。それに、部屋用のスリッパにも少なからず匂いはあるもの。素肌に匂いがつくのを防ぐ意味合いでも、靴下を下着第一弾に選択したのは、ミコとキティ、二人の女性にとっては当然の選択だったのだ。どうせ汚れるとわかっていながら――だからこそキティは全裸の肢体にあえて靴下を選ぶのだ。
それが済んだあとは早かった。黄色の糸の刺繍にフリル付きのパンツ、ダブルストラップに小さなリボンがあてがわれたキャミソールを疾風の如く迅速に、だけど細波のようにしっとり優雅に着終わり、キティは下着の全てを装着。さらにミコの用意したインナーウェアを着込んだ後、とっておきとミコが持って来たミルクブラウンに赤のガーデニングドレスを着用した。その際ミコが立ち上がってキティの後ろに回り、キティの後ろ髪をまとめていてくれた心遣いがキティには涙が出るほど嬉しかった。
そして全てを装って、キティは見るも可愛いお嬢様へと変身したのだ。
「どうですか姉様? これがノイマン家の一人娘、キティ=ノイマンの園芸鑑賞用礼装姿でしてよ」キティが完全装備姿をミコに見てもらおうとくるりとその場で一回転。
「天晴れ!」ミコは瞬時に影帽子のがま口チャックを開けて黒い腕・手にから普通の扇子を持たせてそのまま黒い手でパッと扇子を開き、黒い影の手と自らの口でもってそう賛美した。息つく間もなく発せられたミコの賞賛はこちらが天晴れと言いたくなるほど気持ち良く、心晴れ渡り軽くなり、風か吹き抜ける爽快感をキティにもたらす。もういくつめになるのかもわからないミコからの「贈り物」を受け取ってすぐに胸がいっぱいになるまだまだ軽いキティではあったが、食べさせてもらって、身体を拭いてもらって、着替えを用意してもらってまでと至れり尽くせり尽くさせてしまった。ここは少女のノイマン家。キティはミコへの恩返しも兼ねて自分から動くことを自らに課した。ミコに手を伸ばし、落ち着いた口調で誘いの詞をかけるのだ。
「では姉様、アイズ兄様のお部屋に案内しますね。さあ、お手を……」
「ええ、キティ。どうかわたしを導いてね」
8歳の少女相手に縋る、傍から見たら道化師の可笑しさと勘違いされそうな仰々しさを真顔で魅せて、ミコはキティに手を重ねた。
重なり合う肌。絡まる指。そして繋がれる、二人の手。
ミコは目敏くもう片方の空いた手でまだパンが残っていたカゴを手に持ち、手土産に。
キティも外出用の靴を履く。準備は全て整った。
キティが先んじて部屋のドアへと進み出し、ミコと繋いだ手でミコを引っぱり先導する。
ミコは逆らうこともせず、「るんるるん♪」と楽しそうについてくる。背中に感じるミコの視線がとても暖かく、力強く、まるで追い風のように感じられた。
キティはそんな心地良さを動力に、部屋のドアを開け、ミコと一緒に屋敷廊下へ消えていった……。




