第1話_旅人さんとの別れ
翌日。朝一番。おかみさんが村警察の警官を連れて帰ってきたとき、相変わらずの手ぶらでその様子を待っていたミコは立ち上がった。出立の合図だ。フランも村の出口まで付き添う約束があるので、おもむろに席を立つ。
「もう行くのかい。ほんとアンタには世話になっちまったねえ。しかも余った宿代は返さなくていいなんて……」おかみさんが出立の準備を見せたミコに名残惜しいように声をかける。珍しい――横から見ていたフランにはそう思えた。
「お金は宿の修理に使ってください。残った分はご自由に」ミコはさっぱりとした顔で答えると、フランと一緒に宿を出た。旅人との別れ――いつもいつでも何遍も、見てきた光景である。出立の時だ。
宿を出て、フランは傘をさす。今日も天気は雨だからだ。でも隣のミコはささない。影帽子のがま口チャックからレインコートというものを取り出して身体の上に着込む。素材が水を弾いてくれるのだという。ちなみに帽子は影なので濡れること自体ないとのこと、らしい……。
「それで、寄り道したい場所ってどこかしら?」ミコが訊いてくる。結局フランは、そのことに関してミコに言質を取らせなかったのだ。昨晩からずーっと。
それでもいい。このときフランは、本心を隠して無邪気に答えた。
「こっちの村の出口付近にわたし専用の物置小屋があります。そこまで着いたら、ちょっと待っていてください。実は昨日約束した案内したい場所もそこなんです」
そう言ってフランは、ミコの手を取り村の出口のひとつへと向かった。助かったのはミコが村を出るならどの出口でもいいと言ってくれたことだ。これは極めて好都合である。目的の物置小屋は本当にアルコ村の出口付近、村の極地にあるからだ。
やがて二人はその出口にまで辿り着いた。そこにあるのは古びたボロボロの物置小屋。その小屋はたったひとつ、ポツンと建っていた。
「ここで待っていてください。お土産をお渡ししたいんです」
「お土産だったの? うん、なら待つわ。急いでないし」
フランはミコが待ってくれていることを確認しながら物置小屋へと入って行き、その奥から、ある物を取り出す。そして物置小屋を飛び出した。ミコはまだいてくれた。
「はい……、ミコさん。これ……どうぞ」
フランが差し出したのは、水の入った、水濡れの、飲料瓶。
フランからそれを受け取ったミコはその中の水をしばし眺めると、ハッと気付いたようにフランに問いかける。
「ひょっとして、これ……」
「はい。村産出の水です。あそこの物置小屋の中に、わたしだけが知ってる秘密の井戸があるんです。あれはわたし専用だから、村人のみんなも知らないし、詮索もしません。もう行ってしまうミコさんに、隠してとっておいた村の名水をぜひとも飲んでほしくて、その……」
「今、飲んでみてもいい?」ミコが濡れた瓶を握りしめながらフランの傘の中に入り込んで訊いてきた。その興味津々といった顔が、とても近く、フランの動悸は早まる。
「はい、どうぞ」フランが快諾すると、ミコは自前の二本の腕でコルク栓を開け、ぐびっと一杯、その水を呷った。そしたら突然、フランの傘から飛び出して、雨の中踊りだしたのだ。
「美味しい……とても美味しいわこのお水。香りや色は全く普通だけど、まるで心を洗って潤してくれるかのような気持ちにさせてくれるのね――。今まで旅の途中で飲んできたどのお水よりも美味しいわ!」
よかった……ミコさん喜んでくれたみたいで。隠し井戸の存在をバラしたのは初めてのことだけど、ミコは口が固そうだし、なにより彼女は信用できる。お友達だから――そう思って行動して正解だった。フランはほっと胸を撫で下ろす。
そのときミコが戻ってきた。影帽子のがま口チャックを開けて残りが入った飲料瓶を帽子の中にしまうと、フランの両手を手に取り、握りしめてくる。
「フラン、ありがとう。目的も果たせて、わたし今すっごい幸せ。ここに来た甲斐があったわね。この思い出は忘れないわ。ほんとに、ほんとにありがとね! 安心して。秘密は絶対口外しないから」
フランがまた近づいたミコの顔に顔を赤らめていると、やがてその手は離れ、ミコの姿も離れ遠くなっていく。そのときフランは初めて気付いた。もう「お別れ」なんだと。
「じゃあね、さようなら!」ミコの声が届いたとき、その想いははっきりと自覚できた。だからフランもめいいっぱい傘を持っていない方の手を振り、その声に応えた。
「さようなら! ミコさんもお元気で!」
ミコの姿が、背中が道の先に消えるまで、フランはずっとそこで見送っていた――。




