第五話「ユリアとエマ」
――黒の騎士団、総団長ユリアの執務室。
「ふぅ、ようやく一段落だ」
午前は自分と仲間の訓練、午後は書類仕事と多忙な時間を過ごし。
ユリアはようやく椅子の背もたれに深く身体を預けた。
黒の騎士団の総団長。
その肩書きは華やかに聞こえるかもしれないが、実際は実務の塊である。
部隊編成。補給計画。訓練報告。国境警備。予算確認。新人教育。各地から届く報告書。
しかも最近は、例の『国民との交流計画』まで加わっている。
まぁ、それはユリア自身の希望で始めた話であるが。
「しかし…」
ユリアは机の上に置かれた新聞へ視線をやった。
そこには相変わらず。
『戦場の悪魔、孤児院で子どもたちと交流』
『騎士団総団長、意外な素顔』
などと書かれている。
「徐々にだけど、確実にボクたちのイメージは変わってる……気がする」
少し嬉しそうに笑う。
「……ボクだけ妙な方向へ変わっている気がしてならないけど」
最近では基地内ですれ違う新人から、
『総団長、今日もリンゴジュースですか?』
などと聞かれる始末である。
「…まあ、怖がられるよりはいいかな」
その時。コンコン。
規則正しいノックの音。
「入っていいよ」
扉が開くと、サファイアが一礼をして入ってきた。
「お疲れ様、ユリア」
「サファイア」
いつものように涼やかな表情でねぎらうサファイア。
そして、その手には一枚の便箋。
「サファイア、その手紙は?」
「君宛だ」
「え、ボクに?」
サファイアは悠然と歩み寄り、丁寧に便箋を差し出す。
「以前訪問した、マーシャルハウスの職員からだ」
ユリアは、少し姿勢を正す。
「あの孤児院から……」
「君にだけ読んでほしいとのことだった。だから私は中身を見ていない」
「そうか、ありがとう」
ユリアは丁寧に封を切る。
そして、ゆっくりと便箋を開いた。
『親愛なる黒の騎士団総団長、ユリア・エクレシア様』
『先日はマーシャルハウスへお越しいただき、ありがとうございました』
『あなた様とお話をしてくださったあの子――ミリアというのですが、彼女はあの日以来、たいそう明るくなりました』
「……ふふ」
思わず、ユリアの口角が上がる。
サファイアもそれに気づいたようだ。
「何か良いことでも?」
「あの子……ミリアっていうんだって」
「ああ、最初に君へ話しかけた少女か」
「うん、明るくなったらしいんだ」
ユリアの顔には、心底安心したような笑みが浮かぶ。
しかし、続きを読むにつれて…その表情が少しずつ変わった。
『そんなユリア様に、一つお願いがございます』
『私たちの孤児院には、それぞれ様々な事情を抱えながら、それでも懸命に日々を過ごしている子どもたちが大勢おります』
『その中で、一人』
『どうしても気にかかっている子がおります』
ユリアの目が止まる。
『その子は五年ほど前から当院で生活しており、私たちとの付き合いも決して短くありません』
『けれど、今もほとんど心を開いてくれません』
『いつもどこか怯えたような目をしながら、誰かが近づけば強い言葉で突き放してしまうのです』
『もちろん、私たちは彼女が悪い子だとは思っていません』
『むしろ、その強い言葉の奥に、大きな傷と恐怖があることを皆理解しております』
『しかし、誰も近づけないようにすることで自分自身まで孤独になっていく姿を見ることは、私たちにとっても辛いものがあります』
そして、最後には切実な一文が添えられていた。
『どうかユリア様』
『その子――エマと、一度お話をしていただけませんでしょうか』
「…………」
長い沈黙の後、ユリアは便箋を閉じた。
「サファイア……」
「言わなくていい」
「え?」
サファイアは、ほんの少し優しく笑った。
普段は滅多に見せない柔らかな表情。
「近いうちに、会いに行ってあげてくれ」
「しかし…」
ユリアは自分の机を見る。
積み上がった書類は容赦なくそびえる。
「処理しなければいけない仕事がまだかなり残っているんだ」
「それなら私が引き継ごう」
「え!」
「今日中に必要なものは私でも処理できる。軍務関係なら、なおさら得意分野だ」
「でも、サファイアだって忙しいだろうに…」
「ユリア」
サファイアは決して口調は荒げないが、しかしはっきりと言った。
「助けを必要としている民に、手を差し伸べることを躊躇わないでほしい」
「それが君だからこそできることなら、なおさらだ」
ユリアは驚き目を丸くする。
サファイアは、真っすぐにユリアを見つめている。
そして…
「……ありがとう、サファイア」
小さく。
しかし確かに笑った。
――そして、数日後。
再びマーシャルハウスにユリアは訪れる。
「……あ!ユリア様!」
職員の一人が、正門から入ってきたユリアに気づいて、駆け寄ってくる。
「本当に来てくださったんですね…!ありがとうございます!」
「うん」
ユリアは少し困ったように笑う。
「ボクにどこまでできるか分からないけど…」
「できる限りのことは――」
ヒュッ。
「……ん?」
コツン。
小さな石が、ユリアの額へ当たった。
「……」
職員、呆然として固まる。
「ゆ、ユリア様!?」
「大丈夫」
大慌てで駆け寄ろうとする職員を、ユリアは片手で制した。
そして、石が飛んできた方向を見る。
大きな木、その太い枝の上。
一人の少女が座っていた。
年齢は十二、三歳ほど。
赤い髪、それは丁寧に編まれた三つ編み。
しかし、その顔つきは年齢以上に…
鋭く、そして強く…そしてどこか、常に誰かを警戒しているような…
そんな目で、ユリア達を睨みつけていた。
「ふん!」
少女は不敵に笑う。
「アタシを説得しようとしたって無駄よ!デカ女!」
べーっ!と、舌を出すエマ。
職員、みるみるうちに、顔が青ざめる。
「エマ!!」
「なんてことを!今すぐ謝りなさい!」
「はぁ?」
エマの表情が、一瞬で険しくなる。
「指図しないでよ!」
「エマ…!」
「あんたも!そこのデカ女も!」
吐き捨てるように。
「薄汚い大人のくせに!!」
職員、思わず言葉を失いうつむく。
しかし、当のユリアは何も言わなかった。
ただ、エマを見ている。
そして、一歩を踏み出す。
ザッ。
「……」
もう一歩。
ザッ。
エマ、その挑発的な笑みが消える。
「……なによ」
ユリアは構わずに進む。
「来ないで」
進む。
「来るなって言ってんでしょ!」
エマの声が大きくなる。
「そうやってすぐ怒って……!」
エマは少しだけ、身体を引く。
「アタシをぶつつもりでしょ!」
「……」
「この乱暴デカ女!!」
ユリア、エマの居るその木の下まで来る。
エマは、完全に身構えている。
肩が上がり、拳は強く握られている。呼吸も少し浅い。
ユリアはそれを見ながら、そしてゆっくりと、手を上げる。
エマは怯えるように肩を震わせて目を閉じる。
しかし…何も起きない。
「……?」
恐る恐る、目を開く。
そこには、ただ、ユリアから差し出された手があった。
「…………」
エマは、その意味が分からなかった。
「なに……それ」
ユリア。少しだけ微笑みながら。
「降りない?」
「…は?」
「そこ、けっこう高いみたいだよ?」
「べ、別に平気よ!」
「そうか」
ユリアは、それでも差し出した手を引っ込めない。
「でも、もし降りるなら、手を貸すよ」
「……」
エマはただじっと、その手を見る。
「……怒ってないの?」
「何を?」
「さっきの…石」
「ああ」
ユリアは、少しだけ自分の額に触れる。
「ちょっと、痛かったかな」
「……」
「でも怒ってない」
エマはそれを聞いて、眉をひそめる。
「嘘よ…」
「本当さ」
「大人はみんな嘘つくもん…」
「ああ、そういう大人もいるな」
ユリアは、真っすぐ目をそらさずに答える。
エマは一瞬、言葉に詰まる。
「じゃあ……」
「……」
「アンタは、なんで怒らないのよ」
ユリア、それを聞いて少し考える。
「怒るより」
再び、エマを見る。
「君がどうして石を投げたのか…それが気になるから」
「…………」
エマ、再び顔が強張る。
「し、知らない」
「そっか」
「……」
しばらくの間、沈黙が流れる。
「なら、今は言わなくていいよ」
エマは、目を丸くする。
「……は?」
「話したくないことを無理に聞く気はない」
「……」
ユリア、言い終えると再び、手を差し出している。
「ただ…」
「君が木から落ちそうになったら危ないからさ」
「降りるなら手は貸すよ」
エマは、今度はじっと…その手を見る。
それからユリアの顔。そしてまた手。
何か、考えているように。
「……」
少しだけ、身体が動く。
しかし、その瞬間。
「…!」
「触らないで!」
エマ、ユリアを再び睨みつける。
ユリアは、何も言わない。
「ほら!」
エマ、声を荒げる。
「怒れば!?」
「……」
「生意気だって!恩知らずだって!」
「殴ればいいじゃない!!」
職員は、悲しそうにその様子を見つめている。
「エマ……」
「黙って!!」
エマは息が荒い。肩が震えているのが分かる。
「どうせ……」
口元も、少し震えている。
「どうせ大人なんて、みんな同じなんだから……!」
その言葉を聞いて、ユリアの表情が。
ほんの少しだけ、変わった。
「…エマ」
「なによ!」
「一つだけいいかな」
「……」
「ボクも昔」
「大人が嫌いだったよ」
「……え」
エマ、そして職員も。総じて驚く。
ユリアは少しだけ、木にもたれかかる。
「ボクは、戦争難民だったんだ」
「……」
「家族のことは、ほとんど覚えてなくて」
「気づいた時には…この国で一人きりだった」
エマ、うつむいて…黙って聞いている。
「その後も、色んな場所を転々とした」
「親切な人もいたけど…酷い人もいた」
「優しくするふりをして、自分の都合のいいように扱おうとする人もいた」
エマの目が、少し揺れている。
ユリアも、その頃を思い出しているのか、同じく目が震えている。
「だからね…誰かが優しくしてくると」
「何か裏があるんじゃないかと思った」
「…………」
「親切にされればされるほど…むしろ怖くなった」
エマ、小さく。絞り出すようにつぶやく。
「……嘘よ」
「嘘じゃないさ」
「だってあんた……」
ようやく、顔を上げてユリアを見る。
「そんなに大きくて…強いじゃない」
ユリア、困ったように少し笑う。
「昔から強かったわけじゃないよ」
「……」
「怖いものも沢山あったし…」
真っすぐエマを見ながら。
「今だってある」
エマはその言葉が気になり、少し身を乗り出す。
「何が…怖いの?」
ユリアは、少し考える。
「大切な人が傷つくこと…」
「それを、守れないこと」
「そして…」
少しだけ、寂しそうに。
「また、一人になること」
エマ、その言葉を聞いて目が潤む。
優しい風が木の葉を揺らす。
しばらく、誰も何も言わない。
そして…
「……アタシは」
「アタシは……」
唇を噛む。何かを、押し殺すように。
「やっぱり言わない」
ユリアは、それを聞いて深く頷く。
「うん、分かった」
エマは、不思議そうに見つめる。
「…それだけ?聞かないの?」
「ああ、無理に聞かないよ」
「……変な大人ね、アンタ」
困ったように、また笑うユリア。
「はは、よく言われるんだ」
「デカいし」
ジトっとした目で。
「おいおい…それは関係ないだろ」
「目つき怖いし」
「あー…うん、それもよく言われる」
「リンゴジュース、好きだし」
ユリア、思わず固まる。
エマ、してやったりとほんの少し、口元を上げる。
「知ってるのか!?」
「ふふ~ん、みんな知ってるわよ」
ユリア、やれやれとため息をつきながら。
「はぁ…もっとこう、意外と優しいとか、そういうとこを広めて欲しいのになぁ」
「……アハハ、変なの!」
エマが笑った。
本当に、楽しそうに。
職員は驚いて、思わず目を潤ませている。
ユリアはそのことについては、何も言わない。
ただ、もう一度、またその手を差し出した。
「で、降りる?」
エマもまた、その手を見る。
「……」
少し長く考えている…そして。
「……落とさない?」
ユリアは、笑顔になって。
「落とさないさ」
「絶対?」
「ああ、絶対だ」
「……」
エマはゆっくりと、手を伸ばす。
指先が触れ、その瞬間、少しだけ身体が震えた。
ユリアは、強く握らない。
ただ、逃げようと思えばすぐ離せるくらい。
優しく支える程度に触れるだけだった。
「……」
エマは、少しずつ、それを頼りながら木から降りる。
地面まであと少しのところ、ユリアは腰へ手を添えて…
そっと、エマを地面へ降ろした。
「はい」
「…………」
エマはすぐ後ろに下がり、ユリアから距離を取る。
「……」
ユリアは、追うようなことはしない。
二人の間には、微妙な距離感がある。
「……アンタさ」
「ん?」
「また来るの?」
ユリアは、その言葉を聞いて目を見開く。
「…来てもいいならね」
エマはその言葉を聞いて、すぐ顔を逸らす。
「別に、来たきゃ来れば」
ユリアは笑いながら。
「じゃあ、また来るよ」
「勝手にすれば…」
そう言ってエマは、その場から歩いて去っていく。
しかし、ある程度まで進んだところで。
ピタッと立ち止まり、そのまま振り返らず。
「……石」
「…ん?」
「さっきの石」
「……悪かったわよ」
そしてそのまま、走っていった。
「……」
ユリアはしばらくの間、小さくなっていくその背中を見守る。
「ユリア様……!」
職員、声を震わせながら駆け寄ってきた。
「あの子が……ああして謝ったの、初めてかもしれません…!」
「そうなの?」
「はい……」
職員の頬に、一筋の涙が伝う。
「……本当に、ありがとうございます」
ユリアは、エマが消えた方向を見る。
「いや、ボクは何もしてないよ」
「ただ、少し話をしただけだ」
――その日の夕方。
マーシャルハウスのエマの自室。
そして、その机の上に古い紙を広げている。
小さな鉛筆を手に持ち、エマは一人で何かを書いていた。
『デカ女』
「……」
一度それを消しゴムで消す。
『ユリア』
『次に来たら』
『リンゴジュース以外に何が好きなのか、聞く』
「………ふん」
紙をひらっと、裏返す。
「……くだらない」
しかし、その顔は。
ほんの少しだけ、穏やかだった。
黒の騎士団総団長、ユリア・エクレシア。
数えきれないほどの敵を退け。
幾度となく国家を救った彼女。
だが、この日。
彼女が手を差し伸べ、救おうとしていたのは。
たった一人の、傷ついた少女だった。
【プチ後日談】
一方、ユリアに業務を任されたサファイアは、想像を超えた激務を味わっていた。
「サファイア団長、次の会議の時間です。その後は午後の総合訓練、その後は定期面談…」
サ「ユリア…君はやはり…凄いな……」




