第三十話 異世界商人、始めます
初心者の森を抜け、始まりの町へ向かう道を歩きながら、有平奏は何度目か分からないほど自分のステータス画面を確認していた。
別に、数字が変化しているわけではない。
何度確認したところで、表示されているレベルが突然下がるわけでもなければ、ゲーム内で手に入れた装備が勝手に消えるわけでもない。それどころか、ゲームの中で積み重ねた経験値も、取得したスキルも、装備も、アイテムも、そして所持金までもが、まるで最初からそうなることが決められていたかのように、現実のサイエスへと引き継がれている。
それが分かっているにもかかわらず、奏は歩きながら何度も確認してしまう。
何しろ、つい先日までの自分たちはレベル八だったのだ。
それが今では、ゲーム内で徹底的に効率を求めたレベリングによって、まったく別の存在になっている。
しかも、その力が現実のサイエスでも使用できる。
ゲームの中で獲得した装備品も。
モンスターから手に入れた素材も。
クエスト報酬も。
回復薬も。
魔石も。
食料も。
そして、ゲーム内通貨まで。
すべてが引き継がれている。
それを理解すればするほど、奏の中では一つの疑問が膨らんでいった。
いったい、この世界のどこまでがゲームなのだろう。
そして。
いったい、どこからが現実なのだろう。
「……」
奏は歩きながら、ぼんやりと前方を見つめた。
遠くに見える始まりの町の城壁が、少しずつ大きくなっている。
ゲームで見た景色と同じだった。
しかし、同じであっても。
実際に歩いてみれば、まるで違う。
地面の凹凸。
靴底から伝わってくる感触。
風の冷たさ。
木々の匂い。
遠くから聞こえる馬車の音。
そして。
道端に咲いている名も知らない花。
ゲームの中では単なる背景として見ていたものが、今では一つ一つが現実の存在としてそこにある。
それは不思議な感覚だった。
地球で遊んでいたVRゲームが異世界そのものだった。
しかも。
その異世界を作った存在が。
自分たちを召喚した。
そして。
自称神。
あるいは。
邪神。
その存在を倒すために。
自分たちは今。
ゲームを攻略している。
「……考えれば考えるほど、頭がおかしくなりそう」
奏が呟いた。
隣を歩いていた琴子が、ちらりと妹を見る。
「今さらですか?」
「今さらって何」
「私たち、トラックに轢かれそうになって死ぬ寸前に白い空間へ飛ばされて、自称神を名乗る発光体に召喚され、その発光体が作ったVRゲームの世界に転移させられ、そのゲームを地球側でプレイしたら、ゲームのデータが異世界へ反映されて、今度はゲーム内のアイテムを持って異世界へ戻ってきているんですよ?」
「……」
「これだけ意味不明な状況を経験しておいて、今さら頭がおかしくなりそうと言われましても」
「……確かに」
奏は素直に頷いた。
琴子は満足そうに頷く。
姉として。
そして。
妹の保護者として。
奏が妙な方向へ暴走しないように監視しているつもりなのだろう。
ただし。
その本人も。
かなり危険な方向へ思考が傾いていることを。
奏は知っていた。
「琴子」
「何です?」
「一つ聞きたいんだけど」
「はい」
「今、何を考えてる?」
「……」
琴子の足が止まった。
奏も足を止める。
森を抜けた先。
街道の向こうには始まりの町の巨大な城壁が見えている。
そこへ向かう途中。
二人の間に。
微妙な沈黙が落ちた。
「……何も考えていませんよ」
「嘘だ」
「嘘ではありません」
「顔が悪い」
「奏」
「はい」
「私の顔を見て、それを言える度胸は大したものですね」
「姉ちゃんだから」
「……」
「妹に対して取り繕っても意味ないでしょ」
「……そうですね」
琴子は諦めたようにため息を吐いた。
そして。
少しだけ視線を逸らす。
「……商売のことを考えていました」
「やっぱり」
「何が悪いんです?」
「いや、別に悪くないけど」
「では、問題ないですね」
「何を売るの?」
「まずはポーションです」
「薬?」
「ええ」
琴子はそう言って、自分のアイテムボックスから一本の赤い瓶を取り出した。
透明なガラス瓶の中には、鮮やかな赤色の液体が入っている。
ゲーム内では何度も見たアイテムだった。
しかし。
今こうして現実の世界で見ると。
やはり異様な存在感がある。
「これ」
奏が瓶を覗き込む。
「本物なんだよね」
「ええ」
「ゲームのアイテムなのに」
「サイエスでは本物です」
「飲める?」
「もちろん」
「味は?」
「ゲームでは表示されていません」
「じゃあ、飲んでみる?」
「嫌です」
「なんで?」
「奏」
「うん」
「あなたは料理をするとき、味見をせずに人に食べさせますか?」
「……」
「そういうことです」
「なるほど」
奏は納得した。
しかし。
その直後。
「じゃあ、私が飲む」
「待ちなさい」
「え?」
「あなたが飲む必要はありません」
「でも、どんな効果か分からないよ」
「だからこそ、慎重に調べるんです」
「どうやって?」
「まずは鑑定」
「あ」
奏は間の抜けた声を出した。
ゲームには鑑定というシステムがある。
そして。
サイエスにも鑑定スキルを持つ者は存在する。
つまり。
「鑑定できる人を探す?」
「そうです」
「その人に見せる」
「はい」
「効果を確認する」
「はい」
「ついでに買い取ってもらう」
「そうです」
「完璧じゃん」
「そうでしょう?」
琴子は満足そうに微笑んだ。
そして。
奏は思った。
やはり。
琴子に商売を任せるのは正解なのだろう。
奏自身は。
どうしても。
戦闘や武器の方へ思考が向いてしまう。
新しい武器を作る。
改造する。
性能を上げる。
戦術を考える。
敵を倒す。
それは楽しい。
しかし。
戦うためには。
準備が必要だ。
そして。
その準備を担当するのが。
琴子なのだろう。
「じゃあ、私は武器を見てくる」
「待ちなさい」
「何で?」
「先に商売です」
「武器は?」
「後です」
「……」
「奏」
「はい」
「あなた、絶対に武器屋へ行ったら何か買うでしょう」
「買わないよ」
「本当ですか?」
「……」
「その沈黙は何です?」
「……買うかもしれない」
「やっぱり」
琴子は深々とため息を吐いた。
そして。
始まりの町の門を見上げる。
巨大な城壁。
ゲームでは何度も見た場所。
しかし。
現実のサイエスでは。
その城壁の上に。
兵士が立っている。
武器を持って。
周囲を警戒している。
そして。
門の前には。
商人。
冒険者。
旅人。
農民。
様々な人間が並んでいた。
その光景を見ながら。
琴子は静かに言った。
「まずは、情報収集です」
「うん」
「この世界の物価」
「うん」
「貨幣価値」
「うん」
「冒険者ギルド」
「うん」
「商業ギルド」
「うん」
「鑑定士」
「うん」
「そして」
琴子が。
赤いポーションを見つめる。
「この世界でのポーションの価値」
「……」
「そこを確認します」
「了解」
二人は。
始まりの町へ入った。
門を潜った瞬間。
奏は。
思わず足を止めた。
「……すごい」
ゲーム内では。
何度も見た光景だった。
しかし。
現実は。
圧倒的だった。
人がいる。
商人がいる。
馬車が走っている。
露店が並んでいる。
香辛料の匂い。
焼いた肉の匂い。
パンの匂い。
そして。
冒険者たちの汗と土の匂い。
ゲームでは再現されていなかった。
あるいは。
再現されていても。
奏たちは意識していなかった。
しかし。
現実のサイエスでは。
すべてが。
そこにある。
「……」
奏は。
しばらく黙っていた。
その横顔を見て。
琴子は。
少しだけ表情を柔らかくした。
「奏」
「……なに?」
「嬉しいんですか?」
「うん」
奏は。
素直に答えた。
「ゲームの世界を歩いてるみたい」
「ゲームの世界ですよ」
「でも、ゲームじゃない」
「そうですね」
「だから面白い」
「……」
「ゲームで見たものが、全部本物なんだよ」
奏の目が。
子供のように輝いている。
琴子は。
そんな妹を見て。
小さく笑った。
奏は。
昔からそうだった。
興味を持ったものには。
とことん夢中になる。
ミリタリー。
歴史。
戦術。
電子工学。
改造。
料理。
どれも。
一度興味を持てば。
寝る間も惜しんで調べる。
そんな妹だからこそ。
琴子は。
今回の異世界召喚についても。
少しだけ安心していた。
もちろん。
危険はある。
邪神という存在もいる。
命を狙われる可能性もある。
それでも。
奏は。
自分が興味を持った世界で。
生きていける。
そんな気がした。
「……琴子」
「何です?」
「この世界」
「はい」
「面白そうだね」
「ええ」
「だったら」
「はい」
「邪神を倒した後も」
「……」
奏は。
町の向こうを見た。
「この世界を見て回ろうよ」
琴子は。
少しだけ目を見開いた。
「……」
「ダメ?」
「……いえ」
琴子は。
ゆっくりと笑った。
「いいと思いますよ」
「本当?」
「ええ」
「じゃあ」
「ただし」
「……」
「邪神を倒してからです」
「分かってるよ」
奏は笑った。
そして。
二人は歩き出した。
まず向かったのは。
冒険者ギルドだった。
ゲームでは。
クエストを受注する場所。
そして。
冒険者たちが集まる場所。
しかし。
現実のサイエスでは。
もっと重要な役割を持っている。
冒険者の登録。
依頼の管理。
魔物の討伐報告。
素材の買取。
情報の収集。
そして。
身分証明。
つまり。
異世界で生きていくための。
最初の窓口だ。
「……」
ギルドの扉を開く。
中は。
想像していたよりも広かった。
木製のテーブル。
椅子。
壁に貼られた依頼書。
受付カウンター。
そして。
冒険者たち。
武器を持った者。
鎧を着た者。
魔法使いらしき者。
獣人らしき者。
様々な人間がいる。
奏は。
思わず。
口元を緩めた。
「……」
「奏」
「何?」
「顔」
「何?」
「笑っていますよ」
「だって」
「はい」
「ゲームそのまま」
「……」
琴子は。
そんな奏を見て。
小さくため息を吐いた。
「では」
「うん」
「まずは登録しましょう」
「え?」
「冒険者登録です」
「私たち」
「はい」
「もう登録してるよ?」
「……」
「ゲームで」
「……」
「だから」
「奏」
「はい」
「ゲームの冒険者登録と」
「……」
「現実の冒険者登録は」
「……」
「別物です」
「……」
「分かりましたか?」
「……はい」
こうして。
有平双子は。
始まりの町の冒険者ギルドで。
改めて冒険者登録をすることになった。
そして。
それが。
後に。
サイエス全土を巻き込む。
大きな騒動の。
最初の一歩になるとは。
この時の二人は。
まだ知らなかった。
なぜなら。
受付嬢に。
鑑定を頼んだ瞬間。
奏と琴子のステータスを見た彼女が。
完全に。
固まってしまったからである。
「……え?」
受付嬢の声が。
ギルド内に響いた。
「……」
「……」
「……」
奏と琴子は。
黙っている。
受付嬢の視線が。
二人の間を何度も往復する。
「……あの」
「はい」
「失礼ですが」
「はい」
「お二人は」
「はい」
「本当に」
「……」
「レベル一の新人冒険者ですか?」
奏と琴子は。
顔を見合わせた。
「……」
「……」
「琴子」
「何です?」
「どうする?」
「どうするも何も」
琴子は。
にっこりと笑った。
「誤魔化しましょう」
「だよね」
しかし。
次の瞬間。
受付嬢が。
さらに驚く。
「それだけではありません!」
「……」
「この装備!」
「……」
「このスキル!」
「……」
「そして!」
受付嬢が。
震える声で叫んだ。
「このアイテムボックスの容量は一体何なんですか!?」
奏と琴子は。
同時に。
思った。
しまった。
どうやら。
ゲームのデータを。
そのまま持ち込むという行為は。
想像以上に。
目立つらしい。
琴子が。
奏へ顔を寄せる。
「奏」
「うん」
「作戦変更です」
「何?」
「ポーションを売る前に」
「うん」
「まず」
琴子は。
受付嬢の向こうに見える。
ギルドの奥を見た。
「私たちの正体を」
「……」
「どう誤魔化すか考えましょう」
奏は。
真剣に頷いた。
「……了解」
こうして。
双子の異世界商売計画は。
開始早々。
大きく躓くことになった。
しかし。
この程度の問題で。
有平琴子が。
諦めるはずもない。
むしろ。
彼女にとっては。
ここからが。
本番だった。
なぜなら。
彼女は。
金融会社に勤め。
副業で商品を作り。
販売し。
数字を扱い。
利益を計算することを。
心の底から楽しんでいた女である。
そして。
今。
彼女の目の前には。
地球とは異なる。
巨大な市場が存在している。
しかも。
そこへ。
ゲーム世界のアイテムを持ち込める。
ならば。
やることは。
一つしかない。
「……奏」
「なに?」
琴子は。
ゆっくり。
笑った。
「異世界貿易を」
「……」
「始めましょう」
その瞬間。
奏は。
確信した。
邪神にとって。
最大の脅威になるのは。
もしかすると。
自分の【縁切り∞】ではないのかもしれない。
ゲームを攻略する奏でも。
強力な装備を作る奏でもない。
大量の物資をアイテムボックスに詰め込み。
異世界の経済を理解し。
利益を生み出し。
人脈を広げ。
資金を集め。
そして。
笑顔で商売を始めようとしている。
この姉。
有平琴子。
その存在こそが。
邪神にとって。
最も恐ろしい敵になるのではないかと。
奏は。
ほんの少しだけ。
そんなことを思った。
そして。
その予感は。
後に。
見事なまでに。
的中することになるのだった。




