時代は冬、心は春
『ナゲウツ』は、冬の時代が続いている。
週末、オタクアカウントのタイムラインを眺めては、私は人知れずため息をついていた。
世間が狂喜乱舞しているのは、相変わらず『ウツナゲ』――つまり、野獣のように猛々しい特攻隊長のウツゼが、理性的で物静かな軍医のナゲナイを力ずくで組み伏せるような、そんな安易なリバースものばかりだ。
愚か者めが。
公式の、あの美しくも凄絶な最期を見て、どうしてナゲナイを「受け」にできるのだろう。
ウツゼが命を懸けて守り、その死によって永遠の執着を植え付けられたナゲナイこそが、真の「攻め」であるべきなのに。
画面を閉じ、キッチンに立つ。
ーううん、いいの。ネットの愚民どもがどれだけ解釈違いの泥水を啜り合っていようと、私には関係ない。
私には、手元に「本物」があるのだから。
そろそろだ。
「お母さん、ただいま!」
元気な声とともに、ランドセルを背負ったイナオがリビングに飛び込んできた。
春から小学生になったイナオは、私の教えをよく守り、いつも服を汚さず、髪も綺麗に整えている。その涼しげな目元と、物腰の柔らかさは、日に日に私の理想の『サジオ・ナゲナイ』に近づいていた。
「おかえりなさい、イナオ。今日も楽しかった?」
「うん! あのね、今日ね、クラスのタカシくんが鉛筆なくして困ってたから、僕の予備を貸してあげたんだ」
「わあ、偉いねぇ」
イナオの頭を優しく撫でる。
「困っている人がいたら、進んで助けてあげる。イナオはそういう、とっても優しい男の子だもんね。お母さん、そういうイナオが一番大好きよ」
「うん! 僕、ヒーローだからね!」
イナオは嬉しそうに胸を張る。
可愛いイナオ。
賢くて、かっこいい。
そうよ、あなたは絶対に、目の前で怪我をして倒れている人を見捨てたりしない。いつだって「匙は投げない」男の子なのだから。
学校という箱庭にイナオを放流したとき、最初は少し不安だった。
変な虫が、解釈違いの地雷がイナオに近づきはしないかと。
特に、うちの夫のように、知性もデリカシーもない、ただ性欲と自己保身だけで生きているような存在が級友にいたら、すぐにでも引き離さなくてはならない。
けれど、しばらくして、イナオのクラスに「ある男の子」がいることを知った。
名前は、アキラくん。
いつも服のどこかを泥で汚していて、授業中もじっと座っていられずにすぐ暴れる。
いわゆる問題児で、噂では親が夜まで家にいない、地域でも有名な放置子らしい。
授業参観のとき、私は教室の後ろからそのアキラくんを観察した。
擦り傷だらけの膝。
誰の言うことも聞かないと尖らせた、生意気な口元。
世界中のすべてを睨みつけるような、荒んだ、けれどどこか寂しげな強い瞳。
その瞬間、私の背筋にゾクゾクとした電撃が走った。
「……いた」
「……?どうしました?」
「あ、いえ、なんでもないんです」
ウツゼだ。
――親兄弟を敵の兵士に殺され、天涯孤独の身で、ただ復讐のためだけに命を燃やして戦場を駆ける、若き日の『カタキハ・ウツゼ』。
本物のウツゼの概念が、こんなところに転がっている。
公式のウツゼは孤児だった。誰も彼に、命の尊さなんて教えなかった。だから彼はいつも無茶をして、ボロボロになって、サジオ・ナゲナイの心を激しく揺さぶったのだ。
「ねえ、イナオ」
その日の夜、私はイナオを膝に抱き寄せ、髪を梳かしながら囁いた。
「クラスのアキラくんのことなんだけど。あの子、いつもお洋服が汚れていたり、お怪我をしたりしているでしょう?」
「うん。今日も先生に怒られて、壁を蹴ってたよ」
「可哀想に。あの子ね、お家で優しくしてくれる人がいなくて、とっても寂しいのよ。……まるで、暗い戦場で一人ぼっちで戦っているみたいに」
イナオは小さな首を傾げた。
「戦場?」
「そう。だからね、あの子がどれだけ暴れても、意地を張っても、イナオだけは優しく見守ってあげるのよ。怪我をしていたら、大丈夫?って、お世話をしてあげるの。イナオは、絶対に匙を投げない、優しいヒーローなんだから」
イナオは少し緊張したように、でも、私の期待に応えようと強く頷いた。
「……うん。僕、アキラくんのこと、気にかけるよ」
それからのイナオは、本当に素晴らしいヒーローの片鱗を見せ始めた。
アキラくんがクラスで孤立しそうになると、イナオがそっと隣に行って声をかける。
アキラくんが「うるせえ!」とイナオを突き飛ばしたらしく、イナオの服が汚れて帰ってくることもあった。
普通の母親らしく、苛立ちも募った。けれど、私の中の夢見る部分は、『ナゲウツだ……!』とじっとりとした歓喜の声を上げていた。
ボロボロの特攻隊長に拒絶されながらも、静かに包帯を準備する軍医のナゲナイ。その尊い構図が、今、私の目の前で再現されているのだ。
「お母さん、今日アキラくんが転んで手をすりむいたから、僕、保健室まで連れて行ってあげたんだ。アキラくん、怒ってたけど、最後はちょっとだけありがとうって言った」
報告するイナオの顔は、誇らしげだった。
「すごいわ、イナオ……っ!」
興奮で震える手で、イナオを強く、強く抱きしめる。
「偉い、本当に偉いヒーローね! あんなに荒っぽくて、危なっかしいアキラくんを、イナオだけが救ってあげられるのよ。イナオが、あの子の特別になってあげるの。あの子をずっと、助けて、時に説いてあげるのよ……!」
「うん、うん…!」
私の胸の中で、イナオは嬉しそうに頷いている。
これよ。これなのよ。
ネットの『ウツナゲ』派の無知蒙昧どもに見せてやりたい。
ウツゼのあの凶暴な心を溶かし、手懐け、執着していくのは、この気高くて圧倒的な包容力を持つナゲナイの側なのだと。
私の箱庭の中で、最高の『ナゲウツ』の物語が、今、確かに紡がれ始めていた。




