僕はまだ英雄になれない
お母さんの部屋の机には、秘密の引き出しがある。
お母さんがご飯の支度をしてる時、こっそり中を覗いたことがある。そこには、お母さんが描いた、かっこいいお兄ちゃんの絵がたくさん入っていた。
お兄ちゃんの名前は、「ナゲナイ」だと思う。
お兄ちゃんの絵の横に、ナゲナイかっこいい♡って書いてあったから。
ナゲナイは、お医者さんの服を着ていて、いつも優しく微笑んでいる。
お母さんはたまに「ナゲナイみたいに」と言っては取り消す。
多分、強くて優しくてかっこいいお医者さんなんだと思う。
お母さんの部屋の本棚は、上の方は手が届かなかった。だから下の段の、大きくて分厚くてカクカクした、色とりどりの本を取って読んだ。
文字はうまく読めないから、絵だけ楽しんでたら、サジオお兄ちゃんの絵が出てきた。
横に四角い枠に囲まれた名前が出てる。「サジオ・ナゲナイ」がナゲナイお兄ちゃんの名前みたいだった。
ナゲナイお兄ちゃんは、いつも怪我ばかりして帰ってくる「カタキハウツゼお兄ちゃん」のことを、すごく心配して、優しく手当てをしてあげるみたいだった。
お母さんは、きっと、ナゲナイお兄ちゃんみたいになってほしいって僕に言いたいんだと思った。
正直言って、こういうふうにしてほしいっていうお手本があるのは助かった。
だから僕は、その大きな本を、お母さんが居ない時にいくつも読んだ。
話の流れは繋がってないみたいだったけど、毎回、ナゲナイお兄ちゃんが出てくるシーンがあった。
ナゲナイお兄ちゃんはいつも誰かの為に頑張ってた。
僕がナゲナイお兄ちゃんに、お母さんのヒーローになれば、きっと、もっと褒めてもらえる。そう思って、僕は強く、優しく、面倒見がいい、サジオお兄ちゃんのように振る舞った。
お母さんにも、保育園の先生にも褒められて、僕はとても嬉しかった。
お父さんだけ、たまに、気持ちの読み取れない顔をしていた。
保育園の卒園制作の日。
白い大きな画用紙を渡されて、僕は迷わず、白衣を着たナゲナイお兄ちゃんの絵を描いた。髪の毛の色も、お母さんの絵と同じように丁寧に塗った。
「イナオくん、これなぁに?」
先生がニコニコしながら覗き込んできた。
「しょうらいのゆめ。大きくなったら、サジオナゲナイになるの」
「匙を投げない……? お名前?」
「うん。お医者さん。すっごく腕がよくて、優しくて、かっこいいヒーローなんだよ」
先生は少し不思議そうな顔をして、でも、すぐににっこり笑った。
「そっか、お医者さんかあ! お父さんと同じだもんね」
と言って、僕の手を引いて『いしゃ』って文字を一緒に書いてくれた。
違うんだけどな。
お父さんもお医者さんだけど、サジオお兄ちゃんとは全然違う。
お父さんは、お家にいるときはいつもお酒を飲んでゴロゴロしているし、足は臭いし、夜にお母さんが嫌がっているのにベタベタ触ろうとして、お母さんに怒られている。
ナゲナイお兄ちゃんは、そんなこと絶対にしない。もっと綺麗で、優しくて、いつでもケガした人のことを考えているんだ。
お迎えの時間になって、お母さんが教室にやってきた。
僕は嬉しくなって、お母さんの手を引っ張って僕の絵の前まで連れて行った。
「お母さん、見て! ぼくね、大きくなったらナゲナイになる!」
お母さんを喜ばせたくて、大好きな笑顔が見たくて、大きな声で言った。
でも、お母さんの顔を見た瞬間、僕は冷たいお水をかけられたみたいに固まってしまった。
お母さんの顔から、いっきに血の気が引いていた。目が見開かれて、唇が細く震えている。
「え……っ!あ……っ、こ、これは…その……」
お母さんは僕の手を、痛いくらいにぎゅっと握った。
「イナオ、あのね、ナゲナイをナゲナイとして描いちゃダメなの。……変な人って思われちゃうよ」
お母さんの声は小さくて、泣きそうだった。
僕は悲しくなって、胸がキュッとした。お母さんを悲しませちゃった。お母さんのヒーローになりたかったのに。
「お母さん……?」
「……イナオ。あなたは、お医者さんになりたいのよね?」
お母さんはしゃがみこんで、僕の肩を両手で包んだ。その目は、僕の顔を見ているのに、僕の後ろにある何か遠いものを見ているみたいだった。
「お医者さんになって……怪我をした人を、優しくお世話してあげる、かっこいい人になるのよね?」
「……うん。お母さんの、ひーろーになる」
「そうよ。だったら、ここにナゲナイって書いちゃだめ。ただの『お医者さん』って書きなさい。お父さんと同じ、お医者さんに」
お母さんは僕の頭を撫でてくれた。でも、その声はちっともお父さんのことを褒めていなかった。
「同じお医者さんでも……あの人みたいになっちゃダメよ。あなたはもっと、お仕事ができて、優しくて、身だしなみも綺麗で……皆に優しいけど、危なっかしい人を、一番に心配してくれるお医者さんになるの」
よく分からなかったけれど、お母さんがそう言うなら、それが正解なんだと思った。
「イナオくん、お父さんみたいなお医者さんになりたいんだよね。どうして?」
次の日。先生がまた、僕の顔を覗き込んできた。
僕はお母さんの顔を思い浮かべた
僕はお父さんみたいになりたいわけじゃない。
お母さんの引き出しと本棚の中にいる、あの優しくて完璧なナゲナイお兄ちゃんになりたいんだ。
でも、その名前を言ったら、お母さんはまた泣きそうな顔をしてしまうだろうから、僕は、少しだけ悩んで、口を開いた。
「……かっこいい、から」
それしか言えなかった。
「せかいでいちばん、かっこいい、ひとをたすける、ひーろーだから」
あの人みたいになることで、愛されたいから。
なんて、言えなかった。




