推しの親
推しの担当カラーのスマホから、私の愛する攻め、サジオ・ナゲナイが産声を上げる。
数年ぶりの二次創作だけれど、眠っていた私の夢を見る回路が息を吹き返していく。
サジオ・ナゲナイ。
穏和で紳士で真摯な私の愛する推し軍医キャラだ。
涼やかな目元には泣きぼくろ、眼鏡の奥で常に人を心配している優しさ。
スマートで器用な指先、冷徹なようでいて、その実、どんな危機にあろうと匙を投げず、味方を死から引き戻す熱い声音。
私の脳内で完璧な黄金比を保つ彼は、今、紙の上で愛しい受け、カタキハ・ウツゼの荒れた髪を優しく梳いている。
ウツゼがまた仇を討つ為に無茶をしたからだ。
戦闘狂のウツゼを一番心配し、手当しているのはナゲナイであると言っても過言ではないだろう。
それこそヒロインよりも。
だって二人は原作で、激戦区の最前線でも一緒に行動しているのだ。そう、最後の時でさえーーー
ぺとり。
私の集中の糸を勝手に千切ったのは、忍び寄ってきた不埒な手と、酒臭い饐えた吐息。
「ねえ、まだやってんの。……眠くないならさぁ、ちょっとくらいいいだろ?
溜まってんだよ」
背後から首筋に、べったりとした脂ぎった額が押し付けられる。結婚して数年経過する夫だった。
その手は私のパジャマの裾から、遠慮もデリカシーもなく潜り込んでくる。気持ち悪い。
先程まで夢中になって描いていた妄想ノートを裏返して隠す。
こいつの嫌な気配から聖域を守る為に。
「……後で行くから。イナオ、起きちゃうよ」
スマホを弄りながらも腕の中に守っていた我が子は、少し前まで夜泣きが酷かった。
「えー、大丈夫だって。コイツ最近は寝たら起きないし。ほら」
きもい。
脳裏を過ったその単語を、辛うじて飲み込む。
かつては、この男との生活の中に確かに「きらめき」があった。恋をしていた頃の、あるいは結婚したての頃の、お互いを思いやるやり取り。
それを私は、自分の大好きな漫画である『黄昏戦線』二次創作の推しカプ、『ナゲウツ』の日常に、転化して描いてさえいた。
この男はナゲナイと同じ医師で、だからこそ憧れ、目が少し曇っていたのもあるのかもしれない。
生活は容赦なく私の目の曇りと男のメッキを摩耗させ、この男の醜悪さを剥き出しにしていった。
夜泣きするイナオを無視してイビキをかいていたその口で、今、私の身体を求めている。この男の放つすべての言動が、私の聖域に対する『解釈違い』だった。
翌日、私は夫のあの湿った執着を、あえて『ナゲナイが病んで、ウツゼを監禁する話』として昇華しようと試みた。
けれど、書き始めてすぐに激しい吐き気がした。
ちがう。ちがう。ちがう。きもいきもいきもい。
私の大事な推しの執着は、こんな、ただの身勝手な性欲と似てなんかない。もっと高潔で、純粋で、ガラス細工のように美しい狂気のはずだ。
私は書きかけのデータを、容赦なくゴミ箱に叩き込んだ。
行き場をなくした情熱の矛先を、なおもスマホで幽鬼のように求める。気づけば私は、某掲示板の「ヤンデレ化二次創作アンチスレ」に入り浸っていた。
『公式のナゲナイはこんな下品なこと言わない』
『ただのストーカーと執着攻めを一緒にするな』
画面に並ぶ匿名たちの言葉に、激しく首を振る。そうだ。みんな分かっていない。本当の、本物の愛を分かっているのは、世界で私だけだ。
「……おかあさん?」
イナオが、眠そうな目をこすりながら顔を上げてきた。
昼寝中だった。
起こしちゃったか。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「んーん。……おかあさん、だいすき」
イナオは優しく笑って、私の腕に頭を擦り付けた。
ふと、イナオを見下ろす。
優しい顔立ち。汚れのないまっすぐな瞳。人を想いかける温かい声。
その瞬間、私の頭の中で、パズルのピースが、恐ろしいほどの速度で噛み合っていく音がした。
ーーー夫はもうダメだ。あれは修復不可能な、ただの残骸、がらくただ。
けれど、目の前にいるこの子は?
この、まだ何の色にも染まっていない、純粋で、私を世界で一番愛しているこの男の子は。
ーああ、そうか。
視界が、パッと目の前が開けるように明るくなった。
まるで、真っ白な、最高級の新しい原稿用紙を差し出されたかのような高揚感。
「ありがとう、お母さんも大好き」
イナオを抱きしめる。その小さな背中を愛おしく撫でながら、私の脳内では、すでに、『作品』のプロットが、一文字目から書き換えられようとしていた。
この子を、私の理想の『ナゲナイ』に育てよう。
絶対に、あの男のような汚い生き物にはさせない。
スマートで、優しく、美しく気高い、完璧な男に、私が創り上げるのだ。




