第4話 雨の夜の鯖(さば)の味噌煮
ポツポツと静かな雨が石畳を濡らし始めた夜、暖簾をくぐって一人の少女が滑り込んできた。
「すみません……濡れちゃって……」
濡れた折りたたみ傘を畳みながら恐縮そうに頭を下げるのは、佐々木葵(20歳)。近所の大学に通う就職活動中の学生だ。以前、大学の先輩に連れてこられて以来、たまにこの店を訪れるようになった。
「いらっしゃいませ。どうぞ、タオルを使ってくださいね」
静華はすぐに乾いた手拭いを差し出し、温かいほうじ茶を淹れた。
葵は湿り気を含んだリクルートスーツの肩をすぼめ、カウンターの端に縮こまるように腰掛けた。面接の帰りに雨に降られ、身も心もすっかり冷え切っているようだった。
「お疲れ様でした。今夜は雨になってしまって大変でしたね」
「いえ……。なんだか、何をやっても上手くいかなくて。今日も最終面接で上手く答えられなくて、もう駄目かもしれません」
葵は温かい湯呑みを両手で包み込みながら、ぽつりと呟いた。
周りの友人が次々と内定を決めていく中、葵だけが連戦連敗。自分には何の価値もないのではないかという焦りと不安で、胸が押し潰されそうになっていた。
「自分なりに必死に勉強して、完璧な回答を用意していくのに、面接官の前だと全部空回りしちゃって……。早く内定をもらって楽になりたいです」
焦燥感を隠せない葵の様子に、静華は優しく頷きながら奥の調理場へ向かった。
「葵さん、今夜はしっかりと味がしみ込んだ『鯖の味噌煮』をご用意しましょうね。お腹を温めて、ゆっくりしていってください」
静華は鍋に酒、みりん、砂糖、そして出汁を合わせ、下処理を終えた鯖の切り身を並べた。最初は強火で泡を立てながら煮詰め、途中で赤味噌と白味噌を合わせた味噌床を溶かし入れる。そして落とし蓋をして、弱火でじっくりと煮込んでいく。
店内には、味噌の香ばしさと生姜の甘辛い香りが立ち込め、雨の日の重たい空気を柔らかく包み込んでいった。
「お待たせいたしました」
運ばれてきたのは、照り豊かな濃い味噌の汁に浸かった、ふっくらとした鯖の煮つけだった。上には細く刻まれた針生姜がたっぷりと添えられている。
「わあ……すごく綺麗な色」
「どうぞ、お熱いうちに召し上がってください」
葵は箸を割り、鯖の身をそっとほぐした。皮目は柔らかく、箸先から脂の乗った白い身がのぞく。一口口に運ぶと、豊かな味噌のコクと出汁の旨味がじわっと口いっぱいに広がった。生姜の爽やかさが後味を締め、噛むほどに甘みが溢れてくる。
「……美味しい。すごく味が染みていて、身がふわふわです」
葵の張っていた緊張が、一口ごとにほぐれていく。
「鯖の味噌煮ってね、短時間で強火で一気に煮詰めようとすると、味噌が焦げついたり、身が硬くなって味が中まで入らないんです」
静華は鍋の後片付けをしながら、穏やかな声で語りかけた。
「最初にしっかり下処理をして生臭みを取り、あとは弱火で落とし蓋をして、時間をかけて煮汁を染み込ませてあげる。そうすると、固くならずに、中までしっかり味が乗るんですよ」
葵は箸を止め、静華の言葉に耳を傾けた。
「葵さんも今、ご自分の『味』をじっくり染み込ませている最中なのではありませんか? 早く答えを出そうと焦って強火で煮詰めようとすると、心が焦げてしまったり、本来の葵さんらしい魅力が相手に伝わらなくなってしまいます」
「私の……味……」
「ええ。葵さんがこれまで積み重ねてきた学びや経験は、決して消えません。焦らなくても、時間をかけて丁寧に向き合っていれば、葵さんという素晴らしい味が、周りの方にも自然と伝わりますよ」
静華の温かな言葉が、雨の音とともに葵の心に優しく染み込んでいった。自分は「早く結果を出すこと」ばかりに気をとられ、自分自身の良さや、相手と丁寧に向き合うことを忘れていたのかもしれない。
「……私、焦りすぎてました。面接官の人に気に入られようと完璧な言葉ばかり探して、自分の本当の気持ちを話せてなかった気がします」
「完璧でなくていいんですよ。葵さんの温かいお人柄が伝われば、きっと理解してくれる場所が見つかります」
葵は大きく深呼吸をし、残りの鯖の味噌煮をご飯とともに大切に味わった。最後の一口を食べ終える頃には、胸の奥の重苦しい塊はすっかり消え去っていた。
お勘定を済ませて店を出ると、雨はすっかり上がり、雲の隙間から小さな星がのぞいていた。
「女将さん、ごちそうさまでした! 私、もう少しじっくり自分と向き合ってみます」
「はい。いつでも温かいお料理を用意して待っておりますね」
前を向いてしっかりと歩き出した葵の背中を、静華は暖簾の隙間から見送った。




