第3話 若竹煮(わかたけに)のあとさき
ガラガラと引き戸を開ける音が、静かな店内に響いた。
「いらっしゃいませ……あら、木下さん。こんばんは」
草色の着物に白い割烹着姿の静華が、穏やかな笑顔で迎える。
入ってきたのは、角刈りの白髪に頑固そうな眉を寄せた男――木下勝雄(68歳)だった。長年、建築現場で大工の棟梁として腕を振るってきた男だが、半年前の定年退職を機に現場を離れていた。
「……おう。一人だ、空いてるか」
木下はぶっきらぼうに言いながら、カウンターの端の席にドカリと腰を下ろした。
「ええ、どうぞ。お飲み物はいつもの熱燗でよろしいですか?」
「ああ、頼む」
木下は『出汁割烹 しずか』の近所に住む常連の一人だ。しかし、退職してからは顔を出す頻度が増える一方で、酒の量も増え、どこかイライラとした雰囲気を醸し出すことが多くなっていた。
静華は手際よく徳利を湯煎にかけ、小さなお盆にのせて差し出した。
「お疲れ様でございます。今夜は特に冷えますから、しっかり温まってくださいね」
木下は猪口に酒を注ぎ、くっと一息に煽る。
「……ハァ。昼間に街を歩いててもよ、誰も俺のことなんか見ちゃいねえ。昔は現場に行けば『棟梁、棟梁』って若いのが群がってきたもんだがな。今じゃただの『粗大ゴミ』扱いだ」
寂しさを隠すように、木下は吐き捨てるように言った。
三年前に長年連れ添った妻を亡くし、子どもたちも独立。仕事という生きがいまで失った木下は、自分の存在理由を見失っていたのだ。
静華は黙って木下の話に耳を傾けながら、奥から小鍋を取り出した。
「木下さん。ちょうど今朝、知り合いの農家さんから素晴らしい旬の掘りたて筍が届いたんですよ。今夜は美味しいワカメと一緒に『若竹煮』にいたしましょう」
「ほう、若竹煮か。季節だな……だが女将、筍なんてアクが強くて固ぇだろ。俺みたいな年寄りには重いんじゃないか?」
「ふふ、大丈夫ですよ。丁寧にアクを抜いて、出汁でじっくり含め煮にしてありますから」
静華は浅めの鉢に、美しい淡い黄色の筍と、艶やかな緑色の新ワカメを盛り付け、上に木の芽を添えて木下の前に置いた。爽やかな香りがふわりと広がる。
「どうぞ、お熱いうちに」
木下は箸で大きめに切られた筍を持ち上げた。出汁を吸い込んで重みがある。口に運ぶと、歯ごたえは心地よくシャキッとしながらも、角がなく、驚くほど柔らかく噛み切れた。そして、噛むほどに鰹と昆布の上品な出汁と、筍特有の鮮烈な風味が口いっぱいに広がっていく。
「……うむ。柔らかいな。なのに、ちゃんと歯ごたえが残ってる。アクも全然ねぇ」
「ありがとうございます。筍はね、掘りたてのアクが強い時期に、ちゃんと米ぬかで時間をかけて茹でて、あく抜きをしてあげないといけないんです。手間を省くと、苦くて食べられなくなってしまう」
静華は微笑みながら、木下の猪口にそっと熱燗を注いだ。
「人も、同じかもしれませんね」
「ん? 人が、筍と同じだと?」
「ええ。木下さんは長年、大工の棟梁として強い『張り』や『気負い』というアクを纏ながら、第一線で戦ってこられたのでしょう? それは現場を守り、若い方を引っ張っていくために必要なことでした」
静華の透き通るような目が、木下を優しく見つめる。
「でも、現場を退かれた今は、その重い兜を一度脱いで、ご自分をゆっくり休ませてあげる時間……つまり、あく抜きの時間なのかもしれません。アクを抜いたからこそ、出汁の旨味が奥まで染み込んで、こんなに柔らかく味わい深い筍になれるんですから」
「あく抜きの時間……」
木下は手元の若竹煮を見つめた。
己の誇りや過去の栄光に固執し、意地を張り続けていた自分が、どれほど周囲や自分自身を苦しめていたか。退職後の時間は「余生」ではなく、肩の力を抜いて新しい生き方の味を染み込ませるための「仕込みの時間」だったのではないか。
「木下さんの積み重ねてこられた経験や職人の技は、アクを抜いた後でも決して消えません。むしろ、穏やかになった木下さんだからこそ、人に伝えられる温かさがあるはずですよ」
木下は黙って若竹煮をもう一口口に運び、深々と味わった。ワカメの磯の香りと出汁の旨味が、強張っていた胸の奥を温かく解きほぐしていく。
「……女将。お前さんは相変わらず、人使いならぬ『言葉使い』がうめぇな」
木下は照れくさそうに笑い、久しぶりに穏やかな表情で猪口を干した。
「実はな……近所の小学校の日曜工作教室で、木工を教えてくれないかって頼まれてたんだ。『今さら子供相手に何ができる』って断ろうと思ってたんだが……ちょっと引き受けてみるか」
「まあ、素敵ですね! 子どもたちもきっと大喜びしますよ」
静華は嬉しそうに目を細めた。
店を出た木下を見送ると、春の夜風が心地よく頬を撫でた。背筋を少し伸ばして歩き出した木下の後ろ姿は、暖簾をくぐった時よりもずっと小さく、そして力強く見えた。




