第2話 解けない結び目の鯛めし
暖簾をくぐると、ふんわりと香ばしい醤油と生姜の香りが漂っていた。
「いらっしゃいませ」
草色の着物に白い割烹着姿の静華が、いつものように穏やかな微笑みで迎える。
時刻は夜の七時過ぎ。引き戸を開けて入ってきたのは、派手さを抑えたモノトーンのオフィスカジュアルに身を包んだ女性――長谷川美咲(28歳)だった。
「こんばんは、女将さん。……一人、大丈夫ですか」
「ええ、どうぞ。カウンターのお席へ」
美咲は都内の中堅アパレルブランドで店舗デザイナーとして働いている。一見するとスマートで仕事も順調そうに見えるが、その表情にはどこか疲弊した陰があった。
静華は手際よく温かいおしぼりと、薄張りのグラスに注いだ麦茶を出した。
「今夜は少し風が強いですね。まずは冷えたお体を温めてくださいね」
「ありがとうございます……はぁ、落ち着く」
美咲は出された温かいほうじ茶の湯気を吸い込み、深々と息を吐いた。
美咲が悩んでいるのは、結婚とキャリアの選択だった。三年付き合っている彼から「そろそろ結婚して、彼の地元である福岡についてきてほしい」とプロポーズされたのだ。だが、今の仕事はやりがいがあり、ようやく任されるプロジェクトも増えてきた時期。さらに、幼い頃から厳しく自分を育ててくれた母からは「せっかく東京で一人前に働いているのに、仕事を辞めるなんて勿体ない」と猛反対されていた。
彼を取るか、仕事と母の期待を取るか。どちらを選んでも、何かを切り捨てなければならない気がして、美咲の心はがんじがらめになっていた。
「お食事、何にいたしましょう。今夜は身のしっかり締まった綺麗な天然の真鯛が入っておりますよ」
静華がカウンター越しに、美しい桃色の皮目をした鯛の切り身を見せた。
「鯛……いいですね。お刺身ですか?」
「お刺身も良いですが、もしお時間があれば、土鍋で『鯛めし』をお炊きしましょうか。少しお時間をいただきますが」
「鯛めし……! ぜひ、お願いします」
静華は小さく頷くと、手際よく準備を始めた。
鯛の骨から取った香ばしい出汁にお米を浸し、塩焼きにした鯛の身と、細切りにした生姜をのせて土鍋の蓋を閉める。強火で一気に炊き上げ、パチパチと音が変わり始めたら弱火にし、じっくりと蒸らす。
待つ間、静華は美咲の前に『焼き茄子の利休和え』と『蓮根の挟み揚げ』を差し出した。香ばしい胡麻の風味と、蓮根のシャキシャキとした食感が美咲の緊張を解きほぐしていく。
「女将さん。私、最近どうすればいいか分からなくなっていて……」
箸を止め、美咲はポツリポツリと胸の内を明かし始めた。彼からのプロポーズ、キャリアへの未練、そして母との葛藤。
「自分の人生なのに、誰の意見を聞いても誰かを傷つける気がして。まるで固く結ばれた糸の結び目を無理やり引っ張って、余計に解けなくなっているみたいなんです」
話し終えた美咲の表情は、どこか切なげだった。
そのタイミングで、土鍋の蓋からしゅんと白い湯気が吹き出し、香ばしい出汁と鯛の香りが店内に満ちた。
「ちょうど良く炊き上がりましたよ」
静華は木蓋を開けた。立ち上る湯気の向こうに、ふっくらと蒸し上がった鯛の姿が現れる。静華はしゃもじを手に取ると、鯛の大きな骨を鮮やかに取り除き、身をざっくりとほぐしながらご飯と混ぜ合わせ始めた。
「女将さん、そんなに混ぜちゃって形が崩れませんか?」
美咲が思わず尋ねると、静華はふふっと微笑んだ。
「鯛めしはね、身をしっかりほぐしてご飯と一体にすることで、一番美味しくなるんです。最初から綺麗に形を保とうとすると、ご飯に味が染み込まないんですよ」
静華は茶碗に盛り付け、三つ葉を散らして美咲の前に置いた。
「どうぞ、熱いうちに」
一口食べると、出汁を吸い込んだお米の一粒一粒から、鯛の深い旨味と香ばしさが口いっぱいに広がった。生姜の爽やかな風味が後味を締め、噛むほどに優しい甘みが溢れ出す。
「……すごく美味しい。旨味がご飯全体にちゃんと染み込んでいます」
美咲が噛み締めるように言うと、静華は優しく頷いた。
「結び目も、同じかもしれませんね」
「え?」
「解こう解こうと力任せに引っ張ると、糸は硬く固まってしまいます。でも、出汁でお米をふっくら炊き上げるように、一度時間をかけて心をゆるめてあげれば、硬かった結び目も自然とほぐれていくものです」
静華は美咲の目をまっすぐに見つめた。
「彼のお気持ちも、お母様のお気持ちも、美咲さんが仕事を大切にしたいお気持ちも、どれも間違っていません。ただ、今は全員の思いを綺麗に丸く収めようとして、美咲さんご自身の本当の気持ちが見えなくなっておられるだけ。鯛の身をほぐすように、一度ご自身の本音を解き明かしてみても良いのではないでしょうか」
「私の……本当の気持ち……」
美咲は茶碗を抱える手を少し強めた。
自分は本当はどうしたいのか。仕事を辞めたくないのか、それとも彼と一緒にいたいのか。どちらか二者択一で考えるのではなく、二人で新しい暮らしの形を模索することや、リモートでの働き方を会社に相談することだってできるかもしれない。母の期待に応えるためだけに、自分の人生を選んでいたのではないか。
出汁の温かさが身体の隅々まで染み渡り、冷えて固まっていた頭と心が、少しずつ解けていくのが分かった。
「私……彼とちゃんと話し合ってみます。どっちかを捨てるんじゃなくて、ふたりでどう生きていきたいか、糸をゆっくりほぐしてみます」
「ええ、それがよろしいかと。美咲さんなら、きっと素敵な答えを見つけられますよ」
静華は温かな笑みを浮かべ、おかわりを茶碗に装った。
店を出ると、夜風は相変わらず冷たかったが、美咲の足取りは軽やかだった。
解けないと思っていた結び目も、少しずつ手を解けばきっと綺麗な一本の糸に戻る。そう信じて、美咲は携帯電話を取り出し、彼に電話をかけた。




