第1話 帰る場所の出汁巻き卵
石畳の狭い小路を折れると、路地の奥にぽつりと灯る小さな木枠の行灯が見える。
『出汁割烹 しずか』。
藍色の暖簾をくぐれば、白木のカウコンテーブルが六席と、奥に小上がりがひとつあるだけのこじんまりとした店だ。店内には、ふわりと鰹と昆布の豊かな出汁の香りが満ちている。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、きりりとした草色の着物に白い割烹着を重ねた女将・相坂静華が、穏やかな笑みを向けた。
時刻は夜の八時を回ったところ。引き戸を開けて入ってきたのは、ネクタイを緩め、疲れを全身にまとった男――松本達也だった。三十代前半、大手IT企業のプロジェクトマネージャーを務めている。
「……あ、すみません。一人なんですけど、入れますか」
「ええ、どうぞ。お好きな席へ」
達也は吸い寄せられるようにカウンターの端の席に腰を下ろした。連日の深夜残業と、チームのトラブル処理。心身ともに限界を迎えていた達也は、いつもの帰り道を一本外れ、吸い込まれるようにこの暖簾をくぐったのだった。
静華は温かいおしぼりと、冷えた小さめのグラスに注いだビールを差し出す。
「お疲れ様でございました」
「……ありがとうございます」
おしぼりで顔を拭いたい衝動を抑え、手を温める。冷えたビールを喉に流し込むと、胃の奥がじんと痺れた。そのまま手元のメニューに目をやるが、活字がすんなりと頭に入ってこない。
それを見破ったかのように、静華が優しく声をかけた。
「今夜は少し肌寒いですからね。温かいお通しからお出ししましょうか」
運ばれてきたのは、小さな小鉢に入った蕪と海老のあんかけだった。出汁のきいた優しい餡が、すきっ腹に染みわたる。一口食べた瞬間、達也の肩の力がふっと抜けた。
「……うまいな。出汁が、すごく優しいです」
「ありがとうございます。利尻昆布と、少しだけ濃いめに引いた鰹節で出汁をとっているんです」
静華は微笑みながら、手際よく包丁を動かす。その手つきには無駄がなく、見ているだけで心が落ち着いていくようだった。
「松本さん、とおっしゃるのですね」
「えっ……あ、はい。名札、見えてましたか」
胸元についている社員証を指さされ、達也は苦笑した。
「失礼いたしました。お忙しいお仕事なんですね。お顔に『少し休みがほしい』と書いてありましたよ」
「ハハ……バレてますか。正直、ここ数ヶ月ずっと仕事に追われていて。自分が何のためにこんなに必死になってるのか、分からなくなる時があるんです」
ポロリとこぼれた本音に、達也自身が驚いた。初対面の店主相手に、自分は何を言っているのだろう。だが、静華の温かな眼差しと、店の空間全体が「何でも話していい」と許してくれているような気がしたのだった。
「そうでしたか。頑張りすぎておられるのですね。……何か、特別に食べたいものはございますか?」
「そうですね……」
達也は少し考え、言った。
「すごく基本的なもので申し訳ないんですが……出汁巻き卵って、できますか? なんだか急に、あたたかい卵焼きが食べたくなって」
「ふふ、一番のおすすめですよ。少々お時間をいただきますね」
静華は卵を割りほぐし、丁寧に漉してから、たっぷりの出汁と薄口醤油、ごく少量の塩を加えた。
銅製の四角い玉子焼き器に油を馴染ませ、じゅう、と心地よい音とともに黄色い液を流し込む。菜箸を器用に使い、ふんわりと巻き上げていく。何度も出汁を足しながら重ねていくその作業は、まるで丁寧な儀式のようだった。
やがて、湯気を立てた黄色く美しい塊が、黒い陶器の皿に盛られて達也の前に出された。添えられた大根おろしには、ほんの少し醤油が落とされている。
「どうぞ。『出汁巻き卵』です」
箸を入れた瞬間、固められた卵の隙間から、じわっと透明な出汁が溢れ出してきた。
一口口に運ぶ。
――温かい。
噛む必要がないほど柔らかく、口の中で解けた出汁がじんわりと広がっていく。甘さは控えめで、昆布と鰹の旨味がストレートに胸に染み込んでくる。
幼い頃、母が作ってくれた、あの温かな卵焼きの記憶が唐突に蘇った。
「……美味しい……すごく、温かいです」
気づけば、達也の目頭が熱くなっていた。ポロリと一粒の涙が頬を伝い、皿の端に落ちた。慌てて手拭いで拭おうとする達也に、静華はそっと新しいおしぼりを差し出し、静かに語りかけた。
「卵焼きって、不思議ですね。強い火で急いで巻こうとすると、破れたり固くなったりしてしまうんです。でも、弱火で少しずつ出汁を含ませながら巻き重ねていくと、ちゃんと形になって、たくさんの旨味を抱え込んでくれます」
静華は静かに達也の目を見た。
「人も同じかもしれませんね。急いで成果を出そうと自分を強火で炙り続けていたら、心が干からびてしまいます。時には弱火にして、美味しい出汁……つまり、ご自分を休ませる時間を含ませてあげないと」
「自分を……休ませる時間……」
「ええ。ひと休みして、しっかり出汁を吸い込んだら、また柔らかくて強い自分になれますから」
静華の言葉は、押し付けがましさが一切なく、すっと達也の傷ついた心に染み込んでいった。
達也は最後の一切れまで大切に味わい、出汁の最後の一滴まで残さず飲み干した。お腹の底から、ぽかぽかと温かいエネルギーが湧いてくるようだった。
「……女将さん。ごちそうさまでした。なんだか、すごく救われました」
「いいえ。顔色が少し良くなって安心いたしました」
お会計を済ませ、暖簾をくぐる直前、達也は振り返った。
「あの、また……来てもいいですか」
「もちろんでございます。いつでも、温かいお料理をご用意してお待ちしておりますね」
静華は深々と頭を下げた。
夜の冷たい風が頬を撫でたが、達也の体はもう寒さを感じていなかった。明日、もう一度だけチームのメンバーと向き合ってみよう。ゆっくりと、丁寧に。
背後でパタンと閉まった木戸の向こうには、今夜も温かな灯りと、人々の心を解きほぐす出汁の香りが満ちていた。




