↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
出汁割烹 しずか  作者: 旭


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/5

第1話 帰る場所の出汁巻き卵

石畳の狭い小路を折れると、路地の奥にぽつりと灯る小さな木枠の行灯(あんどん)が見える。

『出汁割烹 しずか』。

藍色の暖簾(のれん)をくぐれば、白木のカウコンテーブルが六席と、奥に小上がりがひとつあるだけのこじんまりとした店だ。店内には、ふわりと鰹と昆布の豊かな出汁の香りが満ちている。

「いらっしゃいませ」

カウンターの向こうから、きりりとした草色の着物に白い割烹着を重ねた女将・相坂静華(あいさか しずか)が、穏やかな笑みを向けた。

時刻は夜の八時を回ったところ。引き戸を開けて入ってきたのは、ネクタイを緩め、疲れを全身にまとった男――松本達也だった。三十代前半、大手IT企業のプロジェクトマネージャーを務めている。

「……あ、すみません。一人なんですけど、入れますか」

「ええ、どうぞ。お好きな席へ」

達也は吸い寄せられるようにカウンターの端の席に腰を下ろした。連日の深夜残業と、チームのトラブル処理。心身ともに限界を迎えていた達也は、いつもの帰り道を一本外れ、吸い込まれるようにこの暖簾をくぐったのだった。

静華は温かいおしぼりと、冷えた小さめのグラスに注いだビールを差し出す。

「お疲れ様でございました」

「……ありがとうございます」

おしぼりで顔を拭いたい衝動を抑え、手を温める。冷えたビールを喉に流し込むと、胃の奥がじんと痺れた。そのまま手元のメニューに目をやるが、活字がすんなりと頭に入ってこない。

それを見破ったかのように、静華が優しく声をかけた。

「今夜は少し肌寒いですからね。温かいお通しからお出ししましょうか」

運ばれてきたのは、小さな小鉢に入った蕪(かぶ)と海老のあんかけだった。出汁のきいた優しい餡が、すきっ腹に染みわたる。一口食べた瞬間、達也の肩の力がふっと抜けた。

「……うまいな。出汁が、すごく優しいです」

「ありがとうございます。利尻昆布と、少しだけ濃いめに引いた鰹節で出汁をとっているんです」

静華は微笑みながら、手際よく包丁を動かす。その手つきには無駄がなく、見ているだけで心が落ち着いていくようだった。

「松本さん、とおっしゃるのですね」

「えっ……あ、はい。名札、見えてましたか」

胸元についている社員証を指さされ、達也は苦笑した。

「失礼いたしました。お忙しいお仕事なんですね。お顔に『少し休みがほしい』と書いてありましたよ」

「ハハ……バレてますか。正直、ここ数ヶ月ずっと仕事に追われていて。自分が何のためにこんなに必死になってるのか、分からなくなる時があるんです」

ポロリとこぼれた本音に、達也自身が驚いた。初対面の店主相手に、自分は何を言っているのだろう。だが、静華の温かな眼差しと、店の空間全体が「何でも話していい」と許してくれているような気がしたのだった。

「そうでしたか。頑張りすぎておられるのですね。……何か、特別に食べたいものはございますか?」

「そうですね……」

達也は少し考え、言った。

「すごく基本的なもので申し訳ないんですが……出汁巻き卵って、できますか? なんだか急に、あたたかい卵焼きが食べたくなって」

「ふふ、一番のおすすめですよ。少々お時間をいただきますね」

静華は卵を割りほぐし、丁寧に漉(こ)してから、たっぷりの出汁と薄口醤油、ごく少量の塩を加えた。

銅製の四角い玉子焼き器に油を馴染ませ、じゅう、と心地よい音とともに黄色い液を流し込む。菜箸を器用に使い、ふんわりと巻き上げていく。何度も出汁を足しながら重ねていくその作業は、まるで丁寧な儀式のようだった。

やがて、湯気を立てた黄色く美しい塊が、黒い陶器の皿に盛られて達也の前に出された。添えられた大根おろしには、ほんの少し醤油が落とされている。

「どうぞ。『出汁巻き卵』です」

箸を入れた瞬間、固められた卵の隙間から、じわっと透明な出汁が溢れ出してきた。

一口口に運ぶ。

――温かい。

噛む必要がないほど柔らかく、口の中で解けた出汁がじんわりと広がっていく。甘さは控えめで、昆布と鰹の旨味がストレートに胸に染み込んでくる。

幼い頃、母が作ってくれた、あの温かな卵焼きの記憶が唐突に蘇った。

「……美味しい……すごく、温かいです」

気づけば、達也の目頭が熱くなっていた。ポロリと一粒の涙が頬を伝い、皿の端に落ちた。慌てて手拭いで拭おうとする達也に、静華はそっと新しいおしぼりを差し出し、静かに語りかけた。

「卵焼きって、不思議ですね。強い火で急いで巻こうとすると、破れたり固くなったりしてしまうんです。でも、弱火で少しずつ出汁を含ませながら巻き重ねていくと、ちゃんと形になって、たくさんの旨味を抱え込んでくれます」

静華は静かに達也の目を見た。

「人も同じかもしれませんね。急いで成果を出そうと自分を強火で炙り続けていたら、心が干からびてしまいます。時には弱火にして、美味しい出汁……つまり、ご自分を休ませる時間を含ませてあげないと」

「自分を……休ませる時間……」

「ええ。ひと休みして、しっかり出汁を吸い込んだら、また柔らかくて強い自分になれますから」

静華の言葉は、押し付けがましさが一切なく、すっと達也の傷ついた心に染み込んでいった。

達也は最後の一切れまで大切に味わい、出汁の最後の一滴まで残さず飲み干した。お腹の底から、ぽかぽかと温かいエネルギーが湧いてくるようだった。

「……女将さん。ごちそうさまでした。なんだか、すごく救われました」

「いいえ。顔色が少し良くなって安心いたしました」

お会計を済ませ、暖簾をくぐる直前、達也は振り返った。

「あの、また……来てもいいですか」

「もちろんでございます。いつでも、温かいお料理をご用意してお待ちしておりますね」

静華は深々と頭を下げた。

夜の冷たい風が頬を撫でたが、達也の体はもう寒さを感じていなかった。明日、もう一度だけチームのメンバーと向き合ってみよう。ゆっくりと、丁寧に。

背後でパタンと閉まった木戸の向こうには、今夜も温かな灯りと、人々の心を解きほぐす出汁の香りが満ちていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。