最終話 明日のための小鉢
すっかり秋の気配が深まった10月の夜。路地裏の『出汁割烹 しずか』には、心地よい活気があふれていた。
「女将さん、熱燗のおかわり、もらえるかい?」
「はい、木下さん。すぐにお持ちしますね」
カウンターの端では、元大工の木下が、日曜工作教室で子供たちに作った木工品の写真を見せながら機嫌よく酒を飲んでいる。その隣では、IT企業勤務の松本が「最近は定時で帰れる日が増えたんですよ」と穏やかな笑顔を見せ、アパレル勤務の美咲も、彼と二人で決めた新しい暮らしの選択について晴れやかな表情で語っていた。
それぞれが人生の岐路で静華の料理と言葉に救われ、またこの場所へと帰ってきていた。
そこへ、ガラガラと引き戸が開き、スーツ姿の葵が飛び込んできた。
「女将さん! 私、第一志望の会社から内定をいただけました!」
「まあ、葵さん! おめでとうございます!」
店内から温かい拍手が沸き起こる。葵は照れくさそうに笑いながら、「焦らず、自分の言葉で伝えたら、ちゃんと届きました」と静華に報告した。
「今夜は葵さんのお祝いですね。美味しいものをたくさんご用意しますよ」
静華が厨房で腕を振るう姿を、常連たちは微笑ましく見守っていた。
宴が落ち着き、客たちが一人、また一人と「ごちそうさま」と満足そうに暖簾をくぐっていく。
深夜11時を過ぎ、店内に静寂が戻った頃、カウンターには葵と静華の二人だけが残っていた。
「女将さん。女将さんはどうしてこのお店を開いたんですか? いつも私たちの話を聞いてくれて、温かいお料理を出してくれて……静華さんご自身は、お辛いこととかないんですか?」
葵の素直な問いかけに、静華はふっと目を細め、おしぼりを丁寧に畳みながらゆっくりと口を開いた。
「実はね……この店は、10年前に亡くなった夫とふたりで開くはずの店だったんです」
「えっ……」
「主人は腕のいい料理人で、私はその横で接客をする予定でした。でも、開店の準備を進めていた矢先、主人が突然病気で倒れてしまって……」
静華の表情には悲壮感はなく、どこか懐かしむような温かさがあった。
「主人を失った時、私は自分の人生が止まってしまったように感じました。包丁も握ったことがなかった私が、一人でこの店を開くなんて無理だと諦めかけていたんです。そんな時、主人の師匠が作ってくれたのが、一杯の出汁のきいたお味噌汁と、小さな『おからの小鉢』でした」
静華は静かにカウンター越しに葵を見つめた。
「一口食べた瞬間、体の中に温かい血が巡るのが分かりました。『生きなきゃ』って、思えたんです。料理には、傷ついた人の心をそっと支え、明日へ一歩踏み出させる力がある。主人が遺してくれたこの店で、今度は私が誰かの『明日のための灯り』になりたい……そう思って、必死に料理を勉強して、暖簾を掲げたんです」
「女将さん……」
静華は微笑むと、手際よく小鉢をひとつ、葵の前に置いた。
しっとりと煮含められたおからに、細かく刻んだニンジンや椎茸、油揚げが丁寧に和えられている。
「これはね、お豆腐を作る時に出た『おから』を使った小鉢です。一見すると捨てるような部分でも、時間をかけて丁寧に出汁と含め煮にすれば、どんなご馳走よりも優しく味わい深い一品になるんです」
葵は小鉢に箸をつけ、口に運んだ。噛むほどに優しい旨味が広がり、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「人も同じだと思うんです」と静華は言った。
「人生で無駄なことや、いらない経験なんてひとつもありません。躓いたこと、遠回りしたこと、傷ついたこと……そのすべてが、その人の『深み』や『優しさ』という味になっていくんですから」
「……はい。私も、ここでいただいた温かさを忘れずに、社会人として頑張ります」
葵は力強く頷き、最後の一粒まで残さず綺麗に平らげた。
「ごちそうさまでした!」
晴れやかな顔で店を後にする葵を見送り、静華は一人、暖簾を仕舞った。
木戸を締め、行灯の灯りを消すと、店内にはふんわりと香ばしい出汁の香りが残っていた。
明日もまた、悩みを抱えた誰かがこの路地裏の暖簾をくぐるだろう。
相坂静華は草色の着物の袖をきゅっと引き締め、静かに微笑んだ。温かな料理と、寄り添う言葉を用意して、いつでも待っているのだから。
完




