第6話/通算26話「リリスが、初めて何も買わなかった」
3シーズン「商売のない国編」
世界一の百貨店を、小さくした。
それは、直人にとって一つの答えだった。
店を増やすことだけが成功じゃない。
全部を自分の店にする必要もない。
小さな店を残す。
それぞれの商人が、それぞれの看板を守る。
百貨店は、その間をつなぐ。
ようやく。
「世界一」の意味が分かった気がしていた。
けれど。
世界は、すぐに次の問いを突きつけてくる。
《第三実験地域》
そこには。
店がない。
値札がない。
広告がない。
商人すらいない。
なのに。
人々は飢えていない。
必要な物は届いている。
誰も財布を持たず。
誰も「いくらですか」と聞かず。
それでも。
人々は笑って暮らしている。
世界一のバイヤーにとって。
それは、魔王より理解できない相手だった。
これまで直人は。
届かないなら、届けてきた。
高いなら、買える方法を考えた。
店がないなら、作ってきた。
選べないなら、選べるようにしてきた。
そして。
商売には、人を幸せにする力がある。
そう信じてきた。
でも。
もし。
商売をしないほうが幸せな世界があるとしたら?
欲しい物を増やすことが。
選択肢を増やすことが。
人を豊かにするとは限らないとしたら?
それでも。
百貨店は必要なのか。
それでも。
商売は、人を幸せにできるのか。
第3シーズンは。
世界一のバイヤーが、商品ではなく。
「商売そのもの」を査定する物語。
そして。
直人が初めて。
「売らない」という選択肢と向き合う物語です。
リリスとの距離も、少しずつ変わっていきます。
何かを買うから楽しいわけじゃない。
店があるから一緒にいるわけでもない。
何も買わなくても。
何も売らなくても。
隣にいるだけで楽しい時間がある。
そんな当たり前のことを。
商売ばかり見てきた直人は。
たぶん。
まだ知りません。
世界一の百貨店が。
店のない国へ行く。
そこで待っているのは。
新しい商売ではない。
商売がなくても成立している幸せ。
第3シーズン。
「商売のない国編」
ここから。
直人の一番大きな敗北が始まります。
店長を休むのは難しい
翌朝。
俺は人生で初めて、
何も売らない日の準備に、三十分かけていた。
「直人」
「なんだ」
「それは何ですか?」
リリスが指さしたのは、俺が肩から提げた革袋だった。
「非常用品」
「中身は?」
「保存食、水筒、布、薬、紐、火打ち石。それから銀貨」
「銀貨?」
「念のため」
「今日は何も買いませんよ」
「分かってる」
「では、なぜ?」
「念のためだ」
リリスが無言で俺を見る。
この沈黙はまずい。
俺は銀貨袋を机へ戻した。
ついでに、反対側のポケットからもう一袋出す。
「二つありましたね」
「念のための予備だ」
「店長を休んでください、と昨日言いましたよね?」
「休んでるだろ」
「店長が革袋の中に隠れています」
見つかった。
結局、持っていくのは水と昼食だけになった。
金を持たずに出かける。
それだけなのに、妙に落ち着かない。
前の世界なら、財布もカードも持たずにデートへ行くようなものだ。
……待て。
デート?
俺は隣を歩くリリスを見る。
「どうしました?」
「いや」
考えるのはやめよう。
今日は店長を休む日だ。
問題は一つ。
商品がない俺に、リリスを楽しませられるのか。
そんなことを考えている時点で、たぶん店長はまだ休めていなかった。
デートする場所がない
川までは歩いて一時間ほどだった。
畑の間を抜け、住民とすれ違う。
「おはよう」
「おはようございます」
それだけ。
看板もない。
呼び込みもない。
露店もない。
俺はとうとう耐えきれずに聞いた。
「リリス」
「はい」
「この国の人って、デートするときどこに行くんだ?」
リリスの足が止まった。
「……デート?」
「いや、一般論だ」
「誰と誰の一般論ですか?」
「この国の若者とか」
「なぜ急に気になったのです?」
「店がないからだよ。食事する店も、買い物する場所もない。どこでデートするんだ?」
リリスは少し考えた。
「川では?」
「川?」
「はい」
「何するんだ?」
「一緒に行けばいいのでは?」
「だから、行って何するんだよ」
「一緒にいます」
強い。
この国、デートまで貨幣経済に依存していない。
やがて道端に白い花が見えた。
リリスが足を止める。
「きれいですね」
「欲しいのか?」
言ってから気づいた。
昨日の赤い靴。
欲しいと思うこと。
手に入れること。
俺は無意識に、その二つをつなげている。
だがリリスは花を摘まなかった。
「持って帰らないのか?」
「ここに咲いているほうが、きれいですから」
そう言って歩き出す。
俺は白い花を振り返った。
売場なら、摘む。
きれいな瓶に入れる。
名前をつける。
物語を与える。
そして誰かに、欲しいと思ってもらう。
それが俺の仕事だ。
でも。
きれいだと思ったものを、全部持ち帰る必要はない。
当たり前のことなのに。
俺には少し、新しかった。
私は、そのつもりでした
川は思っていたより広かった。
陽の光が水面で細かく砕けている。
森。
鳥の声。
風。
以上。
「……本当に何もないな」
「川があります」
「それは見れば分かる」
リリスは平たい岩の上に布を広げた。
籠からパン、チーズ、茹でた卵、果物を出す。
俺も座った。
近い。
売場では何度も隣に立っている。
なのに今日は、妙に近く感じる。
たぶん。
仕事がないからだ。
商品もない。
客もいない。
俺とリリスしかいない。
「いただきます」
パンを食べる。
普通のパンだ。
百貨店なら蜂蜜を添える。
果物も加工する。
器だって変える。
「直人」
「ん?」
「今、このパンを改善しようとしましたね」
「なんで分かるんだよ」
「顔です」
俺の顔には値札でも浮かぶのか。
「もう少し何かあったほうが楽しいだろ」
「私は楽しいですよ」
「まだパン食ってるだけだぞ」
「直人と食べていますから」
危うくパンを落とした。
こいつは時々、無自覚で致命傷を与えてくる。
俺は川を見る。
心臓がうるさい。
商品なら分かる。
客なら分かる。
欲しい物を考えればいい。
だが。
自分とパンを食べているだけで楽しいと言う女の子には、何を提供すればいい?
「……リリス」
「はい」
「これって、デートなのか?」
リリスの手が止まった。
聞くんじゃなかった。
「いや、今のなし」
「できません」
「返品不可?」
「何を売ったのですか?」
「俺の失言」
「買っていません」
今日も商売で負けた。
リリスは少しだけ頬を赤くして、川へ視線を戻した。
「私は」
「ん?」
「そのつもりでした」
今度こそ、パンを落とした。
買えない時間
昼食のあと、川辺を歩いた。
平たい石を見つけて水面へ投げる。
一回。
沈んだ。
「下手ですね」
「じゃあ、お前がやってみろ」
リリスが投げる。
一回。
沈んだ。
「お前もじゃねえか」
「今のは石が悪かったんです」
「俺のときも石が悪かった」
「直人は投げ方です」
「判定が不公平すぎるだろ」
いつの間にか勝負になった。
賞品はない。
罰ゲームもない。
売上もない。
なのに二人とも本気になった。
最終結果。
俺、四回。
リリス、四回。
「引き分けだな」
「もう一度です」
「まだやるの?」
「決着がついていません」
知らなかった。
リリスは意外と負けず嫌いだ。
それから木陰で休んだ。
草の上に寝転ぶ。
空には雲が流れている。
何も起きない。
本当に、何も起きない。
それなのに退屈ではなかった。
「直人」
「ん?」
「昨日、怖そうな顔をしていました」
「長老に言われたことを考えてた」
「欲望のことですか?」
「ああ」
俺は空を見たまま言った。
「俺はずっと、選べることはいいことだと思ってた」
「今は違うのですか?」
「分からない」
それが今の答えだった。
「選べるほうが楽しい。でも、選べるから苦しくなることもある。持ってない物まで見えるからな」
「はい」
「俺は、そういう気持ちを使って物を売ってきた」
リリスはしばらく黙っていた。
そして銀色の髪飾りに触れる。
「私は、これが好きです」
「……ありがとう」
「直人が選んだ物だから」
胸の奥がくすぐったくなる。
「でも」
リリスは続けた。
「これがなかったら、今日が楽しくなかったとは思いません」
その言葉は、長老の言葉より静かに俺の中へ入ってきた。
売らなければ。
喜ばせなければ。
価値を作らなければ。
ずっと、そう思っていた。
でも。
川がある。
パンがある。
くだらない石投げがある。
隣にリリスがいる。
「……商売人には耳が痛いな」
「忘れますか?」
「いや」
俺は笑った。
「覚えとく」
何も買わなくても
帰るころには、空が橙色に染まっていた。
革袋は朝より軽い。
買い物袋はない。
土産もない。
新しい商品もない。
売上はゼロ。
バイヤーとして採点すれば、成果なしの一日だ。
なのに。
「楽しかったな」
自然に言葉が出た。
「はい」
少し歩いてから、リリスが言った。
「直人」
「ん?」
「今日は何も買いませんでした」
「そうだな」
「何も売りませんでした」
「ああ」
「売上もありません」
「最後のはいらないだろ」
リリスが笑う。
そして。
「でも」
夕暮れの中で、銀色の髪飾りが揺れた。
「何も買わなくても、今日は楽しかったです」
俺は足を止めた。
欲しい物を選べること。
手に入れること。
豊かになること。
商売すること。
全部、同じ方向にあると思っていた。
でも違う。
商品が人を笑顔にすることはある。
商売が人を幸せにすることだってある。
だけど。
幸せそのものを、売っているわけじゃない。
「リリス」
「はい」
「俺、ちょっと勘違いしてたかもしれない」
「何をです?」
「商売は、人を幸せにする仕事だと思ってた」
「違うのですか?」
「少し違う」
俺は今日歩いた道を振り返った。
「幸せな人に、もっと楽しくなってもらうこともできる。困ってる人に必要な物を届けることもできる。でも」
一度、言葉を切る。
「何も買わなくても幸せな人にまで、『買わないと幸せじゃない』って思わせたら、たぶん違う」
リリスは何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「それなら」
「ん?」
「明日からの直人は、少し楽しみです」
「今日までの俺は?」
「それなりに」
「評価低くない?」
「店長を休めなかったので」
「まだ言うのかよ」
笑いながら歩き出した。
そのとき。
リリスの足が小さなくぼみに取られた。
「あっ」
反射的に手を伸ばす。
掴んだ。
リリスの手を。
「大丈夫か?」
「はい」
転んではいない。
もう支える必要もない。
だから。
離せばいい。
「……」
「……」
目が合った。
俺は手を離そうとした。
ほんの少しだけ。
その瞬間。
リリスの指が、俺の指を握った。
止まる。
「リリス?」
「はい」
「もう転ばないよな?」
「たぶん」
「じゃあ、この手は?」
リリスが少しだけ視線を逸らした。
「……邪魔ですか?」
ずるい。
そんな聞き方をされたら、答えなんて一つしかない。
「邪魔じゃない」
「では」
それだけだった。
俺も握り返した。
歩き出す。
手をつないだまま。
値札はない。
契約もない。
必要性すらない。
ただ。
離したくないから、離さない。
昨日、ミアが赤い靴を欲しいと言った。
欲しいと思うことは、それだけでは誰も傷つけない。
だったら。
俺が今、
この手を離したくないと思うことも、悪くない。
村が見えてきた。
昨日まで俺には、何もない国に見えていた。
違った。
何も売っていないだけだ。
笑い声がある。
景色がある。
誰かと過ごす時間がある。
そして今。
俺の手の中には、リリスの手がある。
これは買えない。
売れない。
仕入れられない。
世界一のバイヤーでも扱えない。
それなのに。
今日一日で得たものの中で、一番失いたくなかった。
「直人」
「ん?」
「明日は店長に戻りますか?」
「ああ」
「そうですか」
「でも」
俺はつないだ手を見た。
「昨日までとは、ちょっと違う店長になれる気がする」
リリスが笑った。
「楽しみにしています」
結局、その日。
俺たちは何も買わなかった。
何も売らなかった。
何も持ち帰らなかった。
ただ。
帰り道で触れた手だけは、最後までどちらも離さなかった。
翌朝
「直人」
翌朝。
宿を出た俺は、リリスの声に足を止めた。
「……なんだ、あれ」
昨日まで静かだった売場の前に、人がいる。
一人じゃない。
ミア。
その母親。
畑で何度か会った男。
共同倉庫で働いていた女。
そして、知らない住民たち。
十人。
いや。
もっといる。
みんな、売場の商品を見ていた。
俺に気づいた一人の女性が、おずおずと口を開いた。
「昨日、考えたんです」
「何を?」
「必要な物ではなくて……」
彼女は商品へ目を向けた。
そして言った。
「私も、自分が欲しい物を選んでみたい」
胸が跳ねた。
その言葉が。
俺には、
商人として最高の言葉に聞こえた。
だから、そのときの俺はまだ知らなかった。
一人が欲しがれば。
次の一人も欲しがる。
欲しい物が同じなら。
いつか、それは足りなくなる。
そして。
「欲しい」が生まれた瞬間から、「持っている人」と「持っていない人」も生まれ始める。
商売のない国で。
俺の商売が、初めて動き出そうとしていた。
それがこの国を壊し始める最初の一歩になるなんて。
このときの俺は、まだ知らなかった。
第26話 完
次回 第27話
「商売を始めたら、国が壊れ始めた」
直人が始めた、小さな交換市場。
最初に生まれたのは、争いではなかった。
笑顔だった。
「自分で選べるって、こんなに楽しいんですね」
その言葉に、直人は自分の商売が正しかったのだと思う。
だが。
人気の商品を先に確保する者。
交換価値を操作する者。
欲しいのに、交換できる物を持たない者。
商売のなかった国に、初めて生まれる。
「持つ者」と「持たざる者」。
そして直人は気づく。
自分が持ち込んだのは、商品だけではなかった。
格差だった。
続きはnoteでも公開しています。Momokun Officialでは、作品情報や連載案内をまとめています。
Momokun Official https://momokun.jp/
note(momokun)https://note.com/momokun1




