第5話/通算25話 「欲しがることは、悪いことですか?」
3シーズン「商売のない国編」
世界一の百貨店を、小さくした。
それは、直人にとって一つの答えだった。
店を増やすことだけが成功じゃない。
全部を自分の店にする必要もない。
小さな店を残す。
それぞれの商人が、それぞれの看板を守る。
百貨店は、その間をつなぐ。
ようやく。
「世界一」の意味が分かった気がしていた。
けれど。
世界は、すぐに次の問いを突きつけてくる。
《第三実験地域》
そこには。
店がない。
値札がない。
広告がない。
商人すらいない。
なのに。
人々は飢えていない。
必要な物は届いている。
誰も財布を持たず。
誰も「いくらですか」と聞かず。
それでも。
人々は笑って暮らしている。
世界一のバイヤーにとって。
それは、魔王より理解できない相手だった。
これまで直人は。
届かないなら、届けてきた。
高いなら、買える方法を考えた。
店がないなら、作ってきた。
選べないなら、選べるようにしてきた。
そして。
商売には、人を幸せにする力がある。
そう信じてきた。
でも。
もし。
商売をしないほうが幸せな世界があるとしたら?
欲しい物を増やすことが。
選択肢を増やすことが。
人を豊かにするとは限らないとしたら?
それでも。
百貨店は必要なのか。
それでも。
商売は、人を幸せにできるのか。
第3シーズンは。
世界一のバイヤーが、商品ではなく。
「商売そのもの」を査定する物語。
そして。
直人が初めて。
「売らない」という選択肢と向き合う物語です。
リリスとの距離も、少しずつ変わっていきます。
何かを買うから楽しいわけじゃない。
店があるから一緒にいるわけでもない。
何も買わなくても。
何も売らなくても。
隣にいるだけで楽しい時間がある。
そんな当たり前のことを。
商売ばかり見てきた直人は。
たぶん。
まだ知りません。
世界一の百貨店が。
店のない国へ行く。
そこで待っているのは。
新しい商売ではない。
商売がなくても成立している幸せ。
第3シーズン。
「商売のない国編」
ここから。
直人の一番大きな敗北が始まります。
【少女が覚えた謝り方】
「欲しがることは、本当に、悪いことではないのですか?」
長老の問いに、俺は答えられなかった。
その前で、ミアが赤い靴から目をそらす。
まずい。
このままでは、この子が自分の気持ちそのものを、間違いだと思ってしまう。
「……少し、考えさせてください」
ようやく出たのは、それだけだった。
長老は静かにうなずいた。
「ええ。私たちも、長く考えてきたことです」
勝ち誇りもしない。責めもしない。
嫌なやつなら、まだ腹を立てられた。
この人は本気で、ミアの明日を心配している。
「ミア」
人垣から年配の女性が進み出て、少女の前にしゃがんだ。
「きれいな靴だったね。でも、今の靴も大切にしようね。作ってくれた人がいるんだから」
ミアは茶色い靴を見下ろした。
つま先は擦れているが、穴はない。
「……大切にしてる」
「そうだね。だから、まだ履けるうちは、ほかの物を欲しがらなくてもいいでしょう?」
「それは、別の話じゃないですか」
思わず一歩出た。
「今の靴を大切にすることと、赤い靴を欲しがることは、両立します」
「ですが、この子には――」
「誰の物も奪っていないでしょう」
そのとき、リリスの指が俺の袖に触れた。
引っ張らない。
ただ、触れるだけ。
見ると、ミアが母親の服を握りしめていた。
俺が怒れば、この子は自分のせいだと思う。
「……すみません。大きな声を出しました」
女性は戸惑いながら首を振った。
その顔を見て、ミアが小さく言う。
「もう、言わない」
母親が娘を見る。
「ミア?」
「欲しいって、もう言わないから」
誰も怒鳴っていない。
罰も与えていない。
それでも少女は、自分の気持ちを消す方法を覚えてしまった。
謝る方法と一緒に。
俺はしゃがむ。
「今、決めなくていい」
「……いいの?」
「ああ。俺もまだ、考えてる」
頼りない大人だ。
でも、分かった顔でうなずくよりはいい。
赤い靴を箱に戻す。
ミアは、蓋が閉まるまで見つめていた。
【腹がいっぱいにならない物】
人々が散ったあと、バルグが箱をのぞき込んだ。
「靴を増やせば済むのではないか?」
「欲しがる人が増えたら?」
「その分、作る」
「国中が来たら?」
バルグは腕を組んだ。
「靴屋を増やす」
「急に産業政策まで進むな」
いつもなら笑えた。
今日は笑えない。
バルグは赤い靴を見る。
「パンなら、腹がいっぱいになれば止まるのだがな」
「お前が言うと説得力が揺らぐ」
「我にも限界はある」
それは知りたくなかった。
バルグは自分の腹を見てから言った。
「これは、腹がいっぱいにならぬのか?」
返しかけて、止まった。
一足あればいい。
でも、別の色も欲しくなる。
隣の人が持つ物が、よく見えることもある。
その気持ちを、俺は仕事にしてきた。
「……ならないこともある」
「そうか」
バルグは眉を寄せた。
「それは、止めどころが難しいな」
昼前、長老が戻ってきた。
「共同倉庫を、もう少し見ていただけませんか」
俺は箱の蓋を押さえ、立ち上がる。
リリスが隣に並んだ。
「私も行きます」
「面白い話にはならないぞ」
「直人の顔を見れば分かります」
せめて、もう少し隠せていてほしかった。
【必要な人へ届く靴】
共同倉庫では、老人が椅子に腰かけていた。
若い職人が、その足に新しい靴を合わせている。
「少しかかとが緩いですね」
「歩ければ十分だが」
「擦れると痛くなります。直しますから待っていてください」
棚には服、毛布、木の器。
受け取る人は名前と品物を記録する。
金を払う場所はない。
「彼は昨年から、畑に出られなくなりました」
長老が言った。
「それでも、靴は要ります」
「当然です」
「あなたの国でも?」
俺は老人を見る。
必要な人に、必要な物を届ける。
そう思って商売をしてきた。
それでも覚えている。
値札を見て戻した手。
財布を閉じて帰った背中。
「……届かないことも、あります」
「ここでは、欲しいと強く言える人より、必要な人を先にします」
職人が靴を作業台へ運んだ。
「私たちが恐れているのは、赤い色ではありません。革も糸も、人の手も、限りがある。それをどこへ使うかです」
「余裕のあるときに作ればいい」
「では、待つ人が増えたら?」
「順番を決める」
「その順番で、皆が納得するでしょうか」
「……話し合うしかないでしょう」
長老はすぐにうなずいた。
「そうですね。その話し合いを、私たちは何度も続けなくてはならなくなる」
俺は作業台を見つめた。
職人が革を削る。
老人は穏やかな顔で、その手元を見ている。
この風景に、俺は何を付け足したいんだろう。
選択肢か。
楽しさか。
それとも。
自分が必要とされる理由か。
【売れたあとのこと】
倉庫の裏で、長老が木の椀を三つ並べた。
湯から草の香りが立つ。
「商売がすべて悪いとは思っていません。遠くから薬や道具が届けば、助かるでしょう」
「はい」
「しかし、あの赤い靴は、なくても困らなかった」
長老が俺を見る。
「何のために見せたのですか?」
選ぶ喜び。
毎日が少し変わる楽しさ。
いくらでも説明できる。
でも、その前に言わなければならないことがあった。
「誰かに、来てほしかったんです」
リリスが顔を上げる。
「売場に?」
「ああ」
商品を並べた。
誰も来なかった。
必要な物はもうある。
そう言われるたび、店だけじゃない。
自分まで要らないと言われた気がした。
「ミアが靴を見てくれたとき、うれしかった。この国にも、俺の仕事があると思った」
椀へ伸ばした手を止める。
「だからって、あの子の気持ちが間違いだとは思いません」
「ええ」
長老はうなずいた。
「あなたが喜んだことと、あの子の気持ちは別でしょう」
少しだけ、息がしやすくなった。
「ただ、そのあとを、どこまで考えていましたか?」
赤い靴を履いて笑うミア。
そこまでは想像した。
その隣で、同じ靴を欲しがる子は?
足りなかったら。
手に入らなかったら。
俺の想像は、いつも笑顔のところで終わっていた。
「あなたの世界では、欲望のために人が貧しくなることはないのですか?」
ヴェネリアでのことが浮かぶ。
千店舗連合で突きつけられた失敗も。
選ばれる店の陰で、選ばれなくなる店がある。
競争についていくため、無理をする人もいる。
「あります」
俺は答えた。
「欲しい物のために、使ってはいけない金まで使う人も」
「売る側は、止めるのですか?」
言葉が出なかった。
長老は急かさない。
「……逆に、欲しくなるよう仕掛けることもあります」
今だけ。
残り一つ。
みんな持っている。
嘘をつかなくても、人を急がせることはできる。
「あなたは、それでも商売を広めたいのですね」
うなずけなかった。
商売を知らないから恐れている。
そう思っていた。
でも、知らなかったのは俺も同じだ。
売らなくても暮らせる場所へ来て、初めて見えた。
俺たちは時々、
足りている人にまで、
足りないと思わせる。
【髪飾りを外さない理由】
帰り道、リリスは黙っていた。
慰められないのは助かった。
慰めてほしい気もした。
面倒くさいな、俺。
「……売場、閉めたほうがいいと思うか?」
リリスは髪に触れた。
銀色の髪飾りが光る。
「私がこれを戻したら、安心しますか?」
「なんでだよ。それは、お前が気に入って――」
言いかけて止まる。
リリスが俺を見る。
「ミアにも、そう言いたかったのではありませんか?」
「ああ」
「では、その気持ちまで片づけないでください」
彼女は髪飾りから指を離した。
「長老のお話には、私も答えられません。でも、これを選んだことは後悔していません」
「もっといい物が欲しくなったら?」
「そのとき考えます」
「手に入らなかったら?」
「残念でしょうね」
あっさり答えてから、リリスは少し笑った。
「直人は、私が残念に思うことまで防いでくれるのですか?」
無理だ。
そんなことは分かっている。
「ただ」
リリスは続けた。
「残念に思っているときに、次の物を買えば忘れられると言われたら、私は嫌です」
胸に刺さった。
「……言いそうな商売人を知ってる」
「直人も気をつけてください」
「はい」
返事だけは素直に出た。
売場へ戻る。
赤い靴の箱が目に入った。
蓋に手を置く。
閉店を決めることも。
開けて客を呼ぶことも。
今はできなかった。
【しまわないで】
夕方、ミアの母親が訪ねてきた。
靴を片づけてほしい。
そう言われる覚悟をしていた。
「娘に、靴を渡す約束はしないでいただけますか」
「……はい」
「今はまだ、どうすればいいか分からなくて」
拒絶というより、迷いだった。
「俺もです」
「商人なのに?」
「商人だから、分からなくなってます」
彼女は少しだけ笑った。
「ミアが、今の靴を洗っていました」
「そうですか」
「何度も拭いて。大切にしていると、私に見せるみたいに」
喉の奥が詰まる。
「物を粗末にしない子になってほしかったんです。でも、あの子は今の靴を捨てたいなんて、一度も言っていませんでした」
俺は黙って聞いた。
「私が怖かったことばかり、先に話していたのかもしれません」
姉と争った、青い服の記憶。
それを軽いことだと決める資格は、俺にはない。
「怖いなら、すぐ決めなくていいと思います」
「あの子にも、そう言ってくださったそうですね」
「……大人にも必要みたいです」
そのとき、入口の陰から声がした。
「お母さん」
外で待っていたミアが入ってくる。
茶色い靴は、まだ少し湿っていた。
少女は箱の前で止まる。
俺は膝を折った。
「見るか?」
ミアは首を横に振る。
「今日は、見ない」
「そっか」
母親を見上げ、それから俺を見る。
「でも、しまわないで」
「……箱に?」
「もっと遠く」
すぐに分かった。
売場からなくさないで。
もう二度と見えない場所へ持っていかないで。
そういう意味だった。
今日は見ない。
でも、なくしてほしくはない。
俺はゆっくり答える。
「明日も、ここに置いておく」
ミアはうなずいた。
母親の手を取る。
母親も箱を一度見た。
でも、何も言わなかった。
二人を見送る。
赤い靴は、一度も箱から出なかった。
一足も売れていない。
それでも今日は、
片づけずに済んだ。
【店長のいない明日】
夜になっても、帳面は白いままだった。
革の調達。
職人の手配。
書こうと思えば書ける。
でも、そこから始めてはいけない気がした。
椅子が鳴る。
リリスが向かいに座った。
「明日の予定は?」
「考える」
「今日も考えていました」
「続きだよ」
「では、場所を変えましょう」
「場所?」
「川のほうへ。昼食を持って」
俺は眉を上げる。
「何かあるのか?」
「川があります」
「それは今聞いた」
頭の中で、寄れそうな場所を探す。
食事のできる店。
露店。
土産物。
何もない。
「……出かけるには、何もなさすぎないか?」
リリスの目が細くなった。
まずい。
「私も行きますが」
「あ、いや。そういう意味じゃ」
「川と私では、足りませんか?」
本日、最も答えを間違えてはいけない問いが来た。
「足ります」
「では、決まりです」
リリスは立ち上がり、俺の帳面を閉じた。
「明日は、店長を休んでください」
返事をする前に、扉が閉まる。
俺は白い帳面を見下ろした。
商品を勧める言葉なら、いくらでも知っている。
楽しい売場の作り方も。
人が欲しくなる見せ方も。
けれど明日、隣にいるのは客じゃない。
何も売らない。
何も買わない。
それでも、一緒に一日を過ごす。
楽しみだと思った。
その直後、少し怖くなった。
商品がないなら。
店長じゃないなら。
――俺は、リリスをどうやって笑わせればいい?
第25話 完
次回 第26話
第3部 商売のない国編
第6話「リリスが、初めて何も買わなかった」
店も、露店も、土産物もない。
川辺へ出かけた直人は、買い物に頼れない一日に落ち着かない。
そして帰り道、リリスは言う。
「何も買わなくても、今日は楽しかったです」
商品を選ぶことなら得意な男が、
初めて「何もない時間」の価値を知る。
そして。
帰り道で触れた手を、
今度はどちらも離さなかった。
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