第4話/通算24話「欲しいものがない国で、少女だけが欲しがった」
第3シーズン「商売のない国編」
世界一の百貨店を、小さくした。
それは、直人にとって一つの答えだった。
店を増やすことだけが成功じゃない。
全部を自分の店にする必要もない。
小さな店を残す。
それぞれの商人が、それぞれの看板を守る。
百貨店は、その間をつなぐ。
ようやく。
「世界一」の意味が分かった気がしていた。
けれど。
世界は、すぐに次の問いを突きつけてくる。
《第三実験地域》
そこには。
店がない。
値札がない。
広告がない。
商人すらいない。
なのに。
人々は飢えていない。
必要な物は届いている。
誰も財布を持たず。
誰も「いくらですか」と聞かず。
それでも。
人々は笑って暮らしている。
世界一のバイヤーにとって。
それは、魔王より理解できない相手だった。
これまで直人は。
届かないなら、届けてきた。
高いなら、買える方法を考えた。
店がないなら、作ってきた。
選べないなら、選べるようにしてきた。
そして。
商売には、人を幸せにする力がある。
そう信じてきた。
でも。
もし。
商売をしないほうが幸せな世界があるとしたら?
欲しい物を増やすことが。
選択肢を増やすことが。
人を豊かにするとは限らないとしたら?
それでも。
百貨店は必要なのか。
それでも。
商売は、人を幸せにできるのか。
第3シーズンは。
世界一のバイヤーが、商品ではなく。
「商売そのもの」を査定する物語。
そして。
直人が初めて。
「売らない」という選択肢と向き合う物語です。
リリスとの距離も、少しずつ変わっていきます。
何かを買うから楽しいわけじゃない。
店があるから一緒にいるわけでもない。
何も買わなくても。
何も売らなくても。
隣にいるだけで楽しい時間がある。
そんな当たり前のことを。
商売ばかり見てきた直人は。
たぶん。
まだ知りません。
世界一の百貨店が。
店のない国へ行く。
そこで待っているのは。
新しい商売ではない。
商売がなくても成立している幸せ。
第3シーズン。
「商売のない国編」
ここから。
直人の一番大きな敗北が始まります。
「その言葉を、この子に教えたんですか?」
ミアの母親は、怒っていなかった。
だからこそ、怖かった。
娘を叱る顔ではない。
俺を責める顔でもない。
もっと大きな何かから、娘を守ろうとしている顔だった。
「……『欲しい』って言葉ですか?」
母親の肩が揺れた。
夕暮れの広場。
共同倉庫へ野菜を運んでいた男も、洗濯物を抱えていた女も、遊んでいた子どもたちも。
全員がこちらを見ている。
たった三文字で、国が止まったみたいだった。
「俺は、聞いただけです」
「何をですか?」
「その赤い靴が、欲しいかどうか」
母親の顔から血の気が引いた。
「ミア」
優しい声だった。
「こちらへいらっしゃい」
ミアは動かない。
目は赤い靴に向いたままだ。
柔らかな革。
白い花の刺繍。
今履いている茶色い靴は、まだ使える。
穴もない。
だから、必要ではない。
「ミア」
もう一度呼ばれ、少女はようやく母親のところへ戻った。
その途中でも。
一度だけ、振り返った。
赤い靴を見た。
俺は商売人だ。
欲しいのに買わない客なんて、何千人も見てきた。
高いから。
今月は余裕がないから。
家族に止められたから。
でも。
欲しいと思ったこと自体を恐れる客は、初めてだった。
【「必要」と「欲しい」】
「すみません」
母親が頭を下げた。
「この子は、まだ幼いので」
「謝ることですか?」
母親が顔を上げる。
「欲しいって言っただけですよね」
誰も答えない。
「盗んだわけでもない。奪ったわけでもない」
沈黙。
さすがに分かった。
これは、この親子だけの問題じゃない。
「この国では」
俺はゆっくり聞いた。
「『欲しい』って言っちゃいけないんですか?」
小さなどよめきが広がった。
母親がミアの肩を抱く。
「いけないわけではありません」
「じゃあ」
「必要がないんです」
「……え?」
母親はミアの足元を見た。
「この子には靴があります」
「ありますね」
「食べ物も、服も、眠る家もあります。必要なものは共同倉庫から受け取れます」
「それは、いいことだと思います」
本当にそう思う。
飢える人はいない。
金がなくて薬を買えない人もいない。
店がなくても。
この国の人たちは、生きていける。
「なら」
母親は赤い靴を見た。
「なぜ、もう一足必要なのですか?」
答えに詰まった。
必要だから欲しい。
それなら説明できる。
でも。
必要じゃないのに欲しい。
それを説明しろと言われた途端、商売人の俺が言葉を失った。
「……きれいだから」
「今の靴でも歩けます」
「そうですけど」
「なら、十分では?」
強い。
この国。
百貨店より商売人を追い詰めてくる。
「直人」
リリスが俺の隣に立った。
髪には、昨日彼女が選んだ銀色の髪飾り。
必要ではない物。
それでも彼女が「欲しい」と言った物。
「必要かどうかだけではありません」
リリスが母親を見る。
「そうでしょう?」
「ああ」
俺はミアを見た。
「履いたら、うれしいからだと思います」
ミアの瞳がわずかに上がる。
「赤い靴を履いたら、たぶんミアはうれしい」
その瞬間。
母親の表情が苦しそうに歪んだ。
「だから、怖いんです」
「え?」
「手に入れば、うれしい」
母親は静かに続ける。
「では、手に入らなかったら?」
俺は黙った。
「誰かが持っていて、自分だけ持っていなかったら?」
「……欲しくなる」
「二人が同じ物を欲しがって、一つしかなかったら?」
答えられない。
「欲しい物がなければ、奪い合いは起きません」
広場の人々は誰も否定しなかった。
「誰かより多く持ちたいと思わなければ、比べなくて済みます」
母親がミアを抱き寄せる。
「私たちは足りています」
足りている。
この国へ来て、何度聞いただろう。
そして。
その言葉が嘘ではないことも、俺は知っている。
「それでは、駄目なんですか?」
俺は答えられなかった。
【売らないという選択】
その夜。
扉を叩く小さな音がした。
開けると。
ミアが立っていた。
「一人で来たのか?」
こくり。
「駄目だろ」
「近いもん」
「距離の問題じゃない」
後ろからリリスが顔を出す。
「どうしました?」
ミアは何も言わない。
でも、分かった。
俺は小さな箱を持って外へ出た。
中から赤い靴を取り出す。
月明かりの下で、昼より深い赤に見えた。
ミアは見つめる。
触れない。
「……靴、あるから」
「うん」
「これ、なくても困らない」
「うん」
「だから、いらない」
俺は何も言わなかった。
本当なら。
ここからが商売人の仕事だ。
似合うよ。
せっかくだから履いてみたら?
そんな言葉ならいくらでも出せる。
売るための言葉を、俺は山ほど知っている。
でも。
今日は一つも使わなかった。
「じゃあ、どうして来た?」
ミアの目に涙が浮かぶ。
「……分かんない」
「うん」
「いらないのに」
小さな指が動いた。
赤い靴へ伸びそうになって。
止まる。
「もう一回、見たかった」
「そっか」
それだけ答えた。
売らない。
渡さない。
欲しいかとも聞かない。
ただ。
一緒に見る。
しばらくして、ミアが小さく言った。
「きれい」
「ああ」
初めて。
それだけでいいと思えた。
商品を前にした誰かへ。
何も売らなくてもいい瞬間がある。
世界一の百貨店を作ろうとしている俺が。
そんな当たり前のことを、今さら知った。
【お母さんが怖かったもの】
ミアを家まで送った帰り。
リリスが言った。
「直人」
「ん?」
「お母様を悪い人だと思っていますか?」
「そこまでは」
「少し思っています」
「……最近、俺の顔読むのうまくなってない?」
「直人が分かりやすいだけです」
ひどい。
でも否定できない。
リリスは少し歩いてから言った。
「ミアのお母様も、子どもの頃に欲しい物があったそうです」
「何を?」
「青い服です」
俺は黙る。
「姉も同じ服を欲しがった。姉妹で争ったそうです」
「それくらい、子どもなら」
「彼女にとっては『それくらい』ではなかったのでしょう」
リリスの言葉に足が止まった。
そうか。
俺はまた。
俺の世界の尺度で、この国を測ろうとしていた。
母親は娘を苦しめたいわけじゃない。
欲望は人を傷つける。
そう信じるだけの記憶がある。
だから。
ミアを守りたい。
「簡単じゃないな」
「はい」
リリスが答える。
「直人」
「ん?」
「これも、必要ではありません」
銀色の髪飾りに触れた。
「でも?」
「欲しいです」
少しだけ笑う。
「直人が選んだ物ですから」
心臓に悪い。
こういうのを急に差し込むの、本当にやめてほしい。
「……なくても生きていけるぞ」
「知っています」
「じゃあ、なんで欲しい?」
リリスは少し考え。
「持っていると、うれしいからです」
昼間、俺が言った言葉だった。
俺は笑った。
「そっか」
欲しい理由なんて。
それくらいでいいのかもしれない。
でも。
その「それくらい」が、この国では。
とてつもなく重い。
【少女だけが欲しがった】
翌朝。
ミアは母親と一緒にやって来た。
母親からだった。
「昨日は失礼しました」
「いえ」
「娘が夜に来たと聞きました」
「すみません。送って帰りました」
「ありがとうございます」
母親はミアを見る。
「自分で話しなさい」
少女が一歩前へ出る。
「直人」
昨日までは、おじさんだった。
昇格したらしい。
「赤い靴、見せて」
俺は箱を開けた。
赤い靴を地面に置く。
差し出さない。
履かせもしない。
ただ、そこに置いた。
ミアはじっと見る。
母親も見る。
やがて。
母親が尋ねた。
「欲しいの?」
ミアの肩が震えた。
俺まで息を止める。
昨日なら、すぐに「いらない」と言っただろう。
今日は違った。
「……うん」
声は小さい。
「欲しい」
広場の空気が止まった。
母親が目を閉じる。
「どうして?」
ミアが困った顔をする。
「必要だから?」
首を横に振る。
「今の靴が嫌い?」
また振る。
「では、なぜ?」
ミアは赤い靴を見た。
「分かんない」
それから。
自分の胸に手を当てた。
「でも」
言葉を探す。
「見ると、ここがうれしい」
俺は息を飲んだ。
「履いたら、もっと、うれしいと思う」
母親の目に涙が浮かんだ。
ミアは。
怖がりながら。
それでも自分の言葉で言った。
「だから、欲しい」
母親はしばらく動かなかった。
そして。
娘を抱きしめた。
「……そう」
許したわけじゃない。
買っていいとも言っていない。
でも。
否定もしなかった。
この国で。
一人の少女が。
初めて自分の「欲しい」を、誰かに受け止めてもらった。
それだけで。
俺には十分な出来事に思えた。
「それは、本当に良いことなのでしょうか」
声がした。
広場の奥。
白髪の長老が立っていた。
人々が静かに道を開ける。
長老はミアを責めなかった。
母親も責めない。
ただ。
俺を見た。
「直人殿」
「はい」
「あなたは、この子に『欲しい』という選択肢を与えた」
否定できない。
「おそらく」
「昨日まで、この子は赤い靴がなくても幸せでした」
赤い靴へ視線が落ちる。
「今日、この子は、持っていないことを知ってしまった」
胸の奥が冷えた。
「それでも」
長老が聞く。
「昨日より豊かになったと言えますか?」
答えが出ない。
長老は続けた。
「あなたの世界では、欲しい物を欲しいと言えるのでしょう?」
「……はい」
「では、その世界の人々は」
静かな声だった。
「みな、幸せなのですか?」
千店舗連合。
売れる店。
潰れる店。
持つ者。
持たない者。
欲しくても。
手に入れられない人たち。
答えは。
最初から知っている。
「……いいえ」
俺が答えると。
長老は悲しそうに笑った。
「なら、教えてください」
赤い靴が。
朝の光を受けていた。
昨日と同じ。
ただの赤い靴。
なのに。
もう、そうは見えない。
「欲しがることは」
長老が言った。
「本当に、悪いことではないのですか?」
俺は。
答えられなかった。
世界一の百貨店を作ろうとしている商売人が。
生まれて初めて。
客の「欲しい」を前に。
言葉を失った。
第24話 完
次回 第25話
「欲しがることは、悪いことですか?」
「あなたの世界では、欲望のために貧しくなる人はいないのですか?」
欲しい物を選べる自由。
競争。
格差。
持つ者と、持たない者。
これまで「選べること」を正しいと信じてきた直人へ、長老の問いが突き刺さる。
そしてミアの赤い靴をめぐり、この国が「欲しい」を恐れる本当の理由が見え始める。
欲しがることは、本当に人を幸せにするのか。
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