第九話
ベランダの影が早めに伸び、部屋の色を一度やわらかく混ぜてから沈ませる。たまらなく胸を打つ夕方のオレンジが、日々の不安をゆっくりと埋めてくれた。
早めのお風呂に入った楓と結菜。祐一は、お風呂へ向かう前の娘との会話を反芻する。
「エレベータでね、おじさんにあったよ」
「どんなおじさん?」
「いるのに、いないの。しずかにっていったの」
小さな爪を弄りながら、結菜は何でもない顔をして不思議なことを言う。
「……だから、結菜も静かに、って言うの?」
「うん、そうだよ!」
「どんなおじさん? 顔は?」
「……おめめがなかった。ううん、みえなかったのかな? よくわかんない。でも、ぜったいぜったい! おじさんだったよ!」
背中に悪寒が走る。黒目がちな結菜の瞳が、すっとその光を失うように淀んだ。でもそれは一瞬だけで、すぐにいつものきらきらした瞳へと戻る。この間、楓は会話に入ることも、その様子を気留めることもなく、ベランダから空の写真を撮っていた。
――楓はお風呂から出ると、先ほど撮った空の写真に『#暮れゆく空』『#この角度が好き』『#夕暮れ』「#最高の景色』と書き込んでいた。その返事として、ぽつぽつと『綺麗』『映える』『素敵』と称賛する列はまた増える。
その横で、結菜は新品の消しゴムの角を指で撫でている。この真っ白な四つ角の残った消しゴムが好きなのだ。
祐一は「ジュースを買いに行ってくる」と言って、家を出た。エレベータの前を通り過ぎたとき、あの金属の箱が「自分を迎える」気配を放ったのをはっきり感じた。
これはもう、気のせいじゃない。
招かれるように、エレベータの前で足を止める。
表示盤の数字は、こちらの意図と関係なく上下して、最後に自分の階で止まった。
――チン。
扉は、開かない。開かずに、耳に馴染んだ音だけ響かせる。
ほんの僅かに、呼吸の間だけを置いた後――
――チン。
今度はちゃんと開いた。中は無人。祐一は、胸の中で言葉を整える。
『今はまだ、遅い時間じゃない。――でも、間違えないためにいつでも言うべきか。それとも、きっちりと線を引くべきか』
「……失礼します」
結果、そう小さな声で呟く。
彼が載った時点で、既に押されていた一階のボタンが、ちかちかと淡く光っている。
扉は、それ以上何も言わずに閉じ、一階でまた何も言わずに開いた。
ここの住人たちは笑って言う。
『よくあることですよ』
それに対し、祐一は毎回思う。
『いや、よくあることじゃない――きっと、これに慣れたら戻れない』
――そう。これは普通じゃない。祐一は、それを知ってしまった気がした。
連日音を気にする夜。しかし、今日はノックが来なかった。代わりに、玄関の向こうに気配だけが、薄い紙の表面のように冷たく滑っていった。
祐一はダイニングの椅子に座り、目を閉じた。そうして秒針が一秒進むたびに、誰かが一歩近づく映像を黙って見続けた。映像は、最後の一歩の手前で切れた。瞼の裏に張り付いて流れた映像。目を開ければただのダイニングが広がっている。途切切れた場所からこちら側が内側だと、ふと、思った。
『やはり、ここでは扉の外のほうが、まるで世界の内側みたいに思える瞬間がある』
それが、今のところの祐一の答えであり、辿り着いた結論だった。だからと言って、何かが解決したわけでも、馴染んだわけでもない。
ただ、その感覚に慣れてはいけない。慣れたが最後、もう戻れなくなる。
祐一はもう一度目を閉じ、耳を澄ます。
今日はもう『チン――』という、招き入れる音は来ない。
『こん、こん、こん――』という、迎え入れて欲しそうな音も来ない。
来ない、来ない来ない来ない。
静けさだけが、過不足なく、隅々まで行き渡った。
翌朝、エントランスの掲示板の前で、またあの老人と若い女性が短く言葉を交わしていた。
「今週末、またあるかもしれないの?」
「そうみたいね。よくあることよ」
「それもそうね」
祐一は通り過ぎながら、昨夜の「待っていた扉」を思い出す。掲示板は整理され、紙が貼り出せる余白を残していた。
そして気付いた。よくあることの中に、俺たち家族はもうとっくに組み込まれている。ということに。
楓は今日も『#白い朝』を投稿し、結菜はほんのちょっと使った消しゴムの角を新調するみたいに、別の使われていない角を選んだ。
祐一は、いつも通り透明のゴミ袋の口を結び直す。
固く、固く。
そして、ぶつぶつと誰にも聞こえない大きさで、独り言を繰り返した。
「開けない。開けない。――今は、まだ」
どれだけ経っても、相変わらず朝の光は白く、きっちりとその輪郭を取っていた。南向きの窓ガラスに手のひらを当てると、体温より僅かに冷たい。楓はその前でスマホを構え、コーヒーカップの持ち手を数ミリだけ回し、ランチョンマットの皺を指で伸ばす。
「『#白い朝』『#この角度が好き』『#はじまりの匂い』……うん、いい感じ!」
シャッター音が控えめに跳ね、通知の泡がいくつか弾ける。結菜はランドセルのふたを開け、昨日のうちに並べた鉛筆と、新しい消しゴムの角をひとつずつまた撫でた。
ふと気づく、まるで何かの儀式のような変わり映えしない日常。ここへ越してきてから、いつも楓と結菜は同じ行動をとっている気がした。
「パパ、きょう、おとなりのおねえちゃんとあそべるかな」
「お姉ちゃん? 約束してたの?」
突然の質問に、祐一は驚いてそう返す。
「ううん。きのう、エレベータのまえで、ね」
何度聞いても、わからない。それが誰を指しているのか、そもそも、存在しているのか。
まだ、結菜のいう「お姉ちゃん」に、祐一は顔を合わせていなかった。それらしき人影も見ていない。
頭のどこかで、薄い焦げのような違和感が立ちのぼる。だが楓は気づかないふりで、画面に映った自分の横顔の明るさだけを確かめていた。
「お姉ちゃんって、パパも会ったことある?」
「しらない!」
「いつもご挨拶する、お隣さんかな?」
「んー……ちがうよ!」
お隣さんじゃないのに、結菜は「おとなりのおねえちゃん」と言う。
「ママみたいな感じ?」
「ママじゃないよ、おねえちゃん!」
言い間違いかと聞き流していたが、結菜は前にもこの「お姉ちゃん」の話をしていた。きっと、同一人物だろうと、祐一は考えを巡らせる。
結菜の言葉は要領を得ない。お隣さんは、いつも挨拶する女性しか見ていない。その女性から紹介を受けたことも、女性以外が隣家に入るところも見たことはない。このマンションはファミリー向けだ。結菜が示すだろう若い女性が一人で暮らすには、いささか広すぎる。
しかし、子どもが独り立ちした、ご主人が逝去した選択肢を踏まえれば、まだ可能性はある。単身赴任、別居も考えたが、どれも「お姉ちゃん」には結びつかなかった。
それでも祐一は、隣の女性が独りであることに、何とか理由を見出そうとしていた。そしてその余地に「結菜のいうお姉ちゃん」がはまることを祈る。つまりは、彼の知っている隣家の女性が、結菜の示すお姉さんには当てはまらないことを、既に察していた。娘の言う通り「ご挨拶するお隣さん」でなければ、誰なのか確かめる必要がある。
「学校終わったら、迎えに行くからね。帰りにスーパー寄って、夜はオムライスにしよう。ハッシュタグは『#にゃんこオムライス』ね」
「やった!」
電子レンジが『ピッ』と鳴る。オーブン機能によって、トーストの端がこんがり焦げ目をつけて、美味しそうな匂いを放っていた。
その日常の音の下で、祐一の胸には、別の音がくすぶっていた。夜中に一度だけ聞こえた、呼んでもいないのに鳴ったエレベータの到着音――チン。あの乾いた合図は、耳の奥でこびりついて取れない。何度忘れようとしても、思い出す途中で無になっても、あの音は追いかけてくる。水で顔を洗っても、コーヒーを飲み干しても、やはり薄まらなかった。




