第八話
食後、ゴミ袋の口を結ぶ。透明なビニールの口が、ひやりと指に巻き付く。空気は重たいままだったが、それぞれ口には出さない。
「……ゴミ、出してくる」
「お願い」
昨日も捨てた。もう、未開封のダンボールの数も減っている。ゴミ捨てが、祐一にとって逃げ場になっていた。
ドアを閉める前、家の中の光が僅かに漏れて廊下の床に四角い明かりを落とした。その四角が、ほんの一瞬だけ二重になった気がした。角の鋭さがずれる。
足を踏み出す。非常灯の緑は、やはり海の底の光みたいに揺れる。
周りには誰もいない、エレベータの前で立つ。下りボタンを押す前に、箱の中の空気がこちらを向いたような気配がした。
まさか。
そう思いながら、震える指で、下向きの三角ボタンを押す。
――チン。
扉が開く。無人。鏡に映る自分の顔。……足が前に出なかった。気持ちは前に進んでいるのに、足はまるで床に縫い付けられたかのように微動だにしない。
乗ろうとした扉が閉じかける。
「昼間は、いい。夜は、挨拶――」
そこまで言って、やめる。
箱の中の空気が、祐一を撫でるように前に出た。
その瞬間、祐一はエレベータの前から離れていた。乗るべきではない。ゴミ捨てには階段で。駆け足で一階まで降りる。やはり、誰にも会わなかった。
ゴミ置き場のドアは軽く『ピッ――』とセンサーが鳴く。室内の照明がぱっと点き、ゴミの量は住民の数を表していた。大きなマンション。それなりのゴミ袋。
持ってきた袋を置くと、微かな風を感じた。無心になって、扉を閉める。
祐一は、家に帰れなかった。正確には「帰りたくなかった」。
だから、楓に「このままランニングしてくる。遅くなるだろうから、先に寝ていてくれ」と一方的にメッセージを打ち、何時間も外で時間を潰していた。
『まだ帰らないの? 紗季に寝るからね』という、怒りにも似たメッセージを受けっとってから、ようやく祐一は自分の住むマンションへと足を向けた。
「大丈夫だ。今は、大丈夫」
そう自分に言い聞かせ、エレベータの前へと向かう。
扉の前で、視界の端を何かが横切った。真っ赤な犬のリードだった。小型犬を連れた高齢の男性がこちらを一瞥する。
「こんばんは」
「あ、どうも」
男性は愛想笑いを浮かべて、ボタンに指を伸ばす。
エレベータは三階にある。男性は「上り」を押したのに、エレベータは一度五階まで上ると、ようやく下りの明かりを点す。男性は一瞬だけ眉をひそめたが、それから何事もなかったように手を引っ込める。
「このエレベータ、たまに素直じゃないんですよ」
余計なことでもない、ただの独り言。
――チン。
扉が開く。男性は自然に一歩下がり、祐一に先を促した。
「どうぞ」
「いえ、どうぞ」
「いやいや、先にお待ちになってたのは、あなたですから」
譲り合う沈黙が数秒続き、結局、祐一はエレベータに乗ることを諦めた。
「……あ、郵便物見るの忘れた。すみません、先に行ってください」
わざとらしい言い訳。なぜか乗る気にはなれなかった。
「そうですか。では」
男性がぺこりと頭を下げて、箱の中に足を踏み入れる。その瞬間、箱の内側から『失礼します』と聞こえた気がした。男性の口が動いたかどうか、判断できないほどの早さで。
今、言った?
疑問に思い祐一が耳を澄ます前に、扉は閉じた。
――それから数日間「健康のため」と家族と自分に言い訳をして、階段を使って生活する日々が続いた。
楓は相変わらず気にしていなかったが、祐一は気になって仕方がなかった。しかし、遅くまで残業をして帰った今日、心身ともに疲れ果てていた彼は、エレベータの前に立っていた。時刻は午前零時過ぎ。煌々とエントランスを照らす光が、彼の身体を突き刺している。
果たして、このままボタンを押すか否か――それが、今の祐一の課題だった。
あと数センチのところで、指はボタンに届かない。
――チン。
それなのに、まだ呼んでいない無人のエレベータが目の前で開く。
箱の中は空っぽで明るかった。その明るさは、青白くて気味が悪い。そして、誰も乗っていないのに、人の波が押し寄せてくるような空気感があった。
扉は何度か閉まりかけ、センサーに遮られて止まる。誰かの影が床を横切った気がした。わかっている、気のせいだ、と。
――ビービービービー。
そして「早く乗ってくれ」と言わんばかりの警告音が鳴った。
これには、乗らなければいけない。反射的に、祐一は小さく頭を下げた。
「……失礼します」
たったその一言を口にするだけなのに、喉が震え、口が渇く。
扉の揺れが止まり、完全に開く。警報音もない。足を半歩、内側へ入れる。床は沈まない。表示も乱れない。祐一独りを乗せて、扉が閉まる。静かに上がる。
そして、七階。
扉が開く。
あぁ、挨拶はするべきだ。そう思いながら、ごくりと喉を鳴らす。
廊下には誰もいない。けれども、背後から「納得したような吐息」が、親し気に追いかけてきた。
逃げるように家へ入る。急いで鍵をかけ、玄関のタイルへ座り込んだ。
呼吸を整えてから、荷物を置きに寝室へ行く。ゆっくりドアを開けると、常夜灯が優しく照らす中、結菜が半身を起こしていた。目は開いているが、焦点はあっていない。なぜこんな時間まで起きているのだろう。楓は隣で眠っている、その手にスマホを握ったまま。
「……しずかにね」
寝言のように、しかしはっきりした発音で。祐一は、思わずベッドの縁に手を掛けた。
「結菜、誰が?」
答えはない。
楓が寝返りを打ち、スマホを床に落とす。『こと』という鈍い音。眠りが浅かったのか薄っすらと目を開けた。
「……んん……お帰り……また? ノックでも?」
「いや、違う。……今日は、エレベータだ」
「ふあぁ、だから。気のせい。はぁー……夜になると、音、響きやすいんだって。ほら、この建物、広いでしょ。寝なよ、もう」
目を閉じたままの、疲れた笑顔。これまで何度も見せた笑顔が、祐一の胸のどこかに、乾いた裂け目を作った。
本当に見ていないのか。それとも、見ようとしないのか。
彼の問いは、誰にも届かない。届かないから、裂け目だけが少しずつ広がり続けた。
――翌朝。楓は前日の投稿に届いたコメントへ返事を打ち、窓辺のフィカスを角度だけ動かした。今日のハッシュタグは『#白い朝』『#この光が好き』。
結菜はグラスを選び「きょうはぎゅうにゅうにする」と言う。祐一は、寝不足の赤が眼球の表面に張り付いたまま、ゴミ袋の口を結んだ。
ドアに手をかけた時、玄関のインターフォンが一度だけ鳴った。
――ピンポーン。
三人が顔を見合わせる。楓が向かい、モニタを覗く。
「……いないんだけど」
画面には何も映らない。念のため、ドアスコープを覗く。見えない。首を傾げながらもノブに手をかける楓の手首を、祐一は軽く掴んだ。
「開けるな」
「宅配かもしれないじゃない」
「置き配だよ、最近は。それなら鳴らして知らせるだけだ、開けなくて良い」
少しの沈黙。楓は肩をすくめ、手を引いた。ドアの向こうは静かだった。
『インターフォン――一度押せば鳴る音はふたつ。どうして、今回はひとつなんだ?』
誰にも聞けない疑問が、祐一の中に溜まっていく。
その日も、外は賑やかだった。忙しかった翌日が休日だと、つい寝すぎてしまう。今日は頑張った。誰も褒めてはくれまいと、祐一は自画自賛した。
表通りの角のカフェでは、窓越しに焼き菓子の影が透け、歩道で子どもがベビーカーを追い越す。スーパーで牛乳とパンを買い、マンションへ戻る。
エントランスのガラスに、自分の顔と、もう一枚の影が薄く重なった。驚いて後ろを振り向く。だが、誰もいない。管理人室の小窓はブラインドが下り、隙間もない。
だが、見られていない、と言い切れない温度が、背中に残った。
エレベータの前に立つと、昨日の男性が犬のリードを握って現れた。真っ赤なリードはとても目立つ。
「こんにちは」
「どうも」
男性は上りを押した。エレベータは、一度上がって戻ってくる。
その挙動に、男性は困ったように小さく笑って、肩をすくめた。
「ね、素直じゃないでしょ」
その声は、親切なようで、理由を追い払うのに十分だった。
――チン。
扉が開く。
「どうぞ」
「いえ、どうぞ」
また短い譲り合い。今日はそこそこに、男性が先に乗る。ぴったりと飼い主の脇について歩く犬は、一点を見つめているように見える。
男性が両足を箱の中に入れた瞬間、はっきりと『失礼します』が聞こえた。今度は確かに、男性の口が動いた。祐一は、扉に映る自分の顔を見つめる。そして、男性に倣い同じように言った。
「失礼します」
それを聞いた男性が笑った。犬もひと鳴き「わん」と吠えた。
ここでは、挨拶は当たり前になっている。きっと楓も、気づかないふりをしているだけで――
それを思うと、背中の裂け目はさらに広がった。




