第七話
ご機嫌で夜ご飯を考える楓を尻目に、祐一は靴を履き二人の笑顔を見ながら、静かに玄関のドアを閉めた。
ドアノブを握りしめる手が汗ばんでいるのを自覚する。でも、何もできない。蝶番の静かな擦れが、耳の奥に妙に残った。
重たい足取りで向かう、未だ慣れないエレベータホール。
ボタンを押す前から、内側で待ち構える気配。金属の扉の隙間から「誰かの眼差し」が覗いている気がした。落ち着かないまま待って、ようやく開いた箱は空だった。だが、祐一は一歩足を踏み入れた瞬間、誰かと肩が触れ合ったような錯覚に硬直した。
好きになれない箱を降りてから、エントランスへ向かう廊下。非常灯の緑が、また海面みたいに淡く揺れて見える。
角を曲がったところで、住人の男女が立ち話をしていた。四十代くらいだろうか、よれたスーツが会社帰りにも見える。夜勤だろうか。それとも、自分と同じように今から出社するのかもしれない。
「ねぇ、聞いた? 先週末、まただって」
「聞きました。よくある入れ替わりの準備ですよ」
「まぁ、そうなんだけどねぇ」
足が自然に止まった。
『入れ替わりの準備』という、物騒にも感じる言葉に、得体の知れない恐怖を覚えた。こんな言葉、普段は耳にしない。耳にしたことはない。祐一は気になって、思わず口を挟んだ。
「あの、すみません。『入れ替わり』って……」
問いかけると、女がこちらを見て笑った。陽の当たるような眩しい笑顔だ。
「引っ越しのことですよ。ほらここ、新築だし流動が多いから」
女性の言葉に続いて、今度は男が肩をすくめる。
「よくあること、です。いつものことですから、気にする必要もないですよ。ねぇ?」
「そうですよ。そういう建物ですし。本当に、よくあるんですよね。えぇ」
『よくあること』
その言葉は、宙に浮くほど軽いのに、やけに整った言い回しだと感じた。でもなぜか、無性に喉を搔き毟りたくなる衝動に駆られた。
頭の中で、規則正しいノックと、呼んでもいないのに来る箱の動き、住人たちの無機質な笑みが一列に並ぶ。
「慣れますよ、すぐに。間違いなく、本当に。すぐ、です」
「でも、ルールはきちんと守らなきゃだめですよ」
「そう。ルールは大事だから。破る物じゃなくて、守るものだから」
「……そうですか」
何とか絞り出した言葉は、彼らのまとう笑顔の中に吸われて呆気なく消えた。二人はまた、何でもない世間話へ戻る。ここでは、それが普通の温度らしい。
エントランスの自動ドアが、半歩早く開いた。まるで、祐一の歩幅を知っているみたいに、いつの間にか間合いを先取りする。ゴミを捨てたときの、あの扉と同じように。
一度目は気のせいかもしれないが、二度目は気のせいじゃない。そんな考えの中でも、外の空気は柔らかく、道路を渡る人の影は濃くあった。
――外は、こんなに密度があるのに。このマンションの中は、どうして。
有休をとっていたぶん、人よりも長い休み明け。特有の怠さを抱えながら、何とか午前の仕事を終える。
昼食にコンビニの弁当を食べながら、祐一はスマホに映るニュースを眺めていた。
文章は目の前を滑っていくが、まったく頭に入ってこない。ここ数日のことを思い返すたび、手のひらに、じんわりと薄い汗が戻ってくる。
床が沈む。表示が乱れる。言葉が遅れる。――そして、挨拶。いつもの音。挨拶。白い光。気になる視線。
「あれは偶然だったのか? いや、でも偶然なら、いったいどうして」
『失礼します』――機械に向かって放った言葉は、箱の中で綺麗に反響した。礼儀を求められていたようにも、儀式を強要されていたようにも思える。
『必ず、乗り込む意思を明確にして、一言声をかけてから乗るように』
管理人の声が刺のように蘇る。
そして、単純で当たり前の疑問が頭の中を占める。
じゃあ、昼間は? 管理人の言う通り、そのまま受け取るなら――昼間は言わなくてもいいのか? なぜ? どうして?
食べ終えた弁当の空き容器を丸め、ごみ箱に落とす。落ちる音がやけに軽く、空洞を叩く響きがした。
それは、空っぽの音だった。でも、あれとは違う。あの、ノックの音とは。
夕方、保育園帰りの親子連れが、ゆったりとエントランスを抜けていくのを追い越して、祐一は帰宅した。
ドアを開けると、カレーのいい匂いが鼻に触れた。楓が鍋をかき混ぜ、結菜がスプーンを並べている。
「おかえり」
「ただいま」
テーブルに座ると、楓がふっと顔を上げた。
「ねえ、今日、ちょっと面白い写真が撮れたんだけど。夕方の廊下の光、あの白い蛍光灯がね、影を二重にするのよ。『#二重の影』って付けたら、すぐに反応がきたの」
「……二重の影?」
「うん。人が歩いてないのに、壁の影が二枚になる瞬間があるの。タイミングがあるんだと思うけど。ちょっと、ホラー映画見たいでしょ? みんな好きだよね、そういうの」
まるで「自分には関係ない」と言わんばかりに、楓は軽やかに笑った。
「あ、いや……人が歩いてないのに? 人の影ができたんだよな? どうしてそんなふうに笑っていられるんだ?」
「いやぁねぇ。たまたまよ、たまたま。そんなのわかってるって。そういうのが面白いんじゃない」
先に言って楓は鍋に向き直った。祐一は、口の奥に苦いものが溜まるのを感じた。
席に着き、すでに用意されていたスプーンを手に取る。そこへ、楓がカレーライスをふたつ持ってきた。
「明日、隣にもう一回、挨拶してみるよ」
「そうだね。私は今日、廊下で誰にも会わなかった。静かで、ほんとに助かる。落ち着いてるから、変に気を遣わなくて良いもの」
「静か、か」
「違った?」
「あ、いや」
静かさには種類がある、と、祐一また思う。何かが音を吸い取っている静けさ。誰かが、そこにいるのに隠している静けさ。
「パパ、きょうね、こうさてんのところのしろいせん、ふしぎだったよ」
「白い線? 横断歩道のか?」
結菜が、祐一の袖を引っ張りながら話す。
「うん。あのね、しろいしましまが、途中でなくなってたの」
「塗り直しじゃないか」
「ううん。ないところ、ふんじゃったら、すこし、しずんだ」
食べようと思ったが、祐一はスプーンを持つ手を止めた。
「沈んだって、どういうことだ?」
「わかんない。でも、ゆいなだけ、ちょっと、しずんだ」
楓が笑って「気のせい、気のせい」と言う。そんな彼女はいつものごとくスマホをテーブル脇に置き、画面を光らせながらサラダをつついていた。
「ほら結菜! 早く席に着いてカレー食べちゃいなさい!」
「はぁい」
渋々と言った行状で、結菜は席に着いた。が、目の前のカレーに、すぐ笑顔になる。
祐一は考えていたが、今しかないと思い切って言った。
「……引っ越さないか。この部屋、いや、マンション? 何て言うか……ちょっとおかしい気がする」
楓はぴたりと手を止め、怪訝そうに彼を見た。
「またそれ? あなたね、臆病すぎるの。ちょっとの物音に怯えて、逃げ出そうとする」
「違う、これは――」
「違わない」
祐一の反論を遮るように、楓の声が鋭くなった。
「私、この部屋が好き。写真を撮れば光もいいし、窓からの景色は最高。ここでなら、私の世界を広げられるの。近くには映えるスポットも沢山あるし、生活にも便利じゃない」
「でも、結菜だって……」
「子どもに変なこと吹き込まないで!」
楓は冷ややかな目で言い放つ。
「ほんと、あなたのそういうところが嫌い。何でも怖がって、挑もうとしない。私から見れば――ただの臆病者よ。弱虫」
祐一は言葉を失った。楓の口調には、突き放す冷酷さがあった。まるで、自分が夫ではなく「足手まといなただの同居人」に成り下がったような。
彼にとって、妻の視線は玄関の向こうのひやりとした空気よりも、酷く冷たく感じられた。思ってもみなかった回答に、それ以上何も言えなくなる。
結菜が怯えてスプーンを置いた。沈黙が、三人の食卓を凍らせた。
俺だけがおかしいのか。
そんな疑問冴え、この場では持つことが許されない、そんな気がした。




