第六話
諦めて灯りを消す。
暗闇は、廊下にも、天井にも、均等に降りる。祐一は、ダイニングの椅子に戻った。ラップトップの画面は、ログイン画面のまま沈黙している。何かを打ち込もうとキーボードに手を置いたが、指は動かなかった。
『――口に出したら、壊れてしまう』
そう思いながら、祐一はしばらく、音のない時計の秒針の動きを目で追った。秒針が、一秒分の距離を進むたび、誰かがこちらに一歩ずつ近づいてくる映像が、頭の奥に勝手に流れてくる。映像は、どこで切れるのか、最後までわからなかった。
――こうして、よく眠れずに迎えた翌朝。
楓は、昨日の写真に寄せられたコメントへ返事を打ち、朝の光をもう一度すくい直すように窓を拭いた。肌に触れる空気は軽い。
結菜は、お気に入りのグラスを指差し「きょうは、オレンジジュースがいい」と言った。
祐一は、寝不足の薄膜を眼球の表面に貼り付けたまま、増える一方のゴミを乱雑に詰め込み、ゴミ袋の口を結ぶ。
エントランスまでの廊下。やはり、人の気配は薄い。角を曲がる前に、足音が一度だけ、微かに届いた。
いる。
曲がる。誰もいない。足音の名残りだけが、さっきまで誰かがいたことを証明している。
管理人室の小窓。ブラインドの隙間から、視線が覗く。気のせいだ、と言い訳を用意する前に、視線は引っ込んだ。
ドアの取手に触れる。金属の冷たさが、皮膚に吸い付く。
自分が見たことを、感じたことを、祐一は誰にも言えないでいた。笑われると思ったからだ。
昼下がり、楓はショッピングサイトのダンボールを受け取った。玄関でサインをしながら「ここ、宅配ボックスあるの助かるよね」と笑っている。ダンボールに貼られたインクの匂いが、掲示板の紙の匂いを思い出させる。結菜は、届いたばかりの文具セットを床に広げ、消しゴムの角を大事そうに触っていた。
「ねえ、きょうも、おねえちゃんのところに、いってみたい」
「……あとで、な」
祐一は、いつになく間を空けて答えた。語尾の曖昧さを、結菜が敏感に拾う。彼女は、文具をしまう箱の蓋を、少し強く閉じた。
夕方になると、外の光がガラスに薄い膜をつくり、部屋の中の色を一度柔らかく混ぜてから沈ませた。
楓は、ベランダから空の写真を撮り『#暮れゆく空』『#この角度が好き』と書き込む。『綺麗』『映える』の文字列がまた増えている。
祐一は、その文字列が誰かの気配の代替品のように見えた。
楓は、人がいない静けさの穴を、文字で埋めている。それは、自分の存在でも、結菜の存在でも、到底埋められないものだろう。
夜。
時計は、昨日よりも早い時間を指していたが、ノックはやってきた。
――こん、こん、こん。
――こん、こん、こん。
聞いてみれば、やや短い間隔で続いていた。祐一は、廊下に立ったまま、数を数え始めた。三回一組が、十組。
間が空き、また、三回一組が十組。
「こんなもの、数えていても仕方がない」と思う反面「数えていないとやっていられない」と、そんな気分になった。
それはやがて「数えるしかない」へと変わった。
数にしてしまえば、恐怖の輪郭がわかる。測れるものは、耐えられる。
十組。十組。十組。
今日のノックは音が薄い。気にしなければ、気にならないほどに。
いくらか経って、諦めたのか音はぴたりと止まった。
祐一が、深く息を吐いた瞬間、エレベータの到着音が遠くで鳴った。
『――チン』
時間は、零時を少し過ぎたところだ。
エレベータの前まで行く勇気は、なかった。こんなところまで、部屋の中まで到着音が聞こえるわけがない。それなのに、聞こえるということは『何かがおかしい』。
それでも、耳は勝手に、あの機械の声を待った。あの、男女どちらにも聞こえる無機質で硬い声。耳の奥で、空白が膨らんではしぼむ――
声は来なかった。
代わりに、廊下の空気が、一瞬、僅かに甘い匂いを帯びた。誰かがさっきまで、ここで息をしていたかのように。
何かを諦めて、三人揃った寝室。
楓は「もう、ほんとに気のせいよ」と呟き、枕に顔を押し付けた。結菜は、布団の中で親指を握りしめている。
祐一は、二人を見た。それから、玄関のほうを見た。見えないものは、確かにそこにある。その確信だけが、夜を縫い合わせていた。
考えることを止めようとするほど、頭の中は音と挨拶でいっぱいになった。
『自分だけが、日常の裏側を歩かされている。楓は表を歩いているのに。結菜は……どっちだ?』
そう思った瞬間、背中が軽くなった。諦めに似た、諦めではない何か。
明日の朝も、光はきっと白い。白い光の中で、楓はまた写真を撮り、結菜は新しい消しゴムの角を撫でるだろう。そして、自分は、廊下の空気の薄さを確かめに、また扉の外に出る。
扉は、内と外を隔てる。
けれどこのマンションでは、扉の向こう側のほうが、世界の内側のように思える瞬間がある。その感覚に慣れてはいけない。慣れたが最後、戻れなくなる。そんな、得体のしれない不確かな不安が、祐一の心を覆っていく。
「開けない。開けない。……今は、まだ」
「え? 何?」
楓が聞く。知らぬ間に、祐一の口から言葉が零れていた。
「ごめん、何でもない」
「そう」
祐一は、ゆっくりと目を閉じた。耳は、次の「こん、こん、こん」を待っていた。
しかし、今夜は、それきりだった。静けさは、過不足なく、隅々まで均等に行き渡った。
夜を迎えれば、やがて朝が来る。
祐一は洗面台の前に立ち、冷たい水を両手ですくった。水面に映る自分の顔は、寝不足のせいで青白い。――自分でもよくわかる。口元がひきつっている。
「大丈夫だ、気のせいだ」
何度もそう言い聞かせるのに、昨夜の記憶が頭を離れない。シャツの第二ボタンを留めながら、祐一は自分の胸の奥に、こびりついた音を嫌でも意識する。
聞こえるはずのない、あの音。
『チン――』エレベータが開く時の、乾いた小さな合図。零時を回ってから耳にした残響は、風呂上がりの髪にまとわりつく水の気配のごとく離れない。
実は自分が知らないだけで、本当は誰かがいたのかもしれない。けれど、部屋を抜けて聞こえてきた音は、異様でしかなかった。
「気にするな、気にするな」
ダイニングでは、楓がスマホの画面を親指で撫でていた。引っ越してきて数日、もう既に見慣れた光景。彼女は窓辺に置いたコーヒーカップを撮り比べ、SNSに投稿するための写真を吟味している。
「美味しかった『#スフレパンケーキ』、やっぱり伸びがいいなぁ。今朝は『#おうちモーニング』でいくか……それとも『#ラテアート』?」
独りごちる声は軽い。
結菜はランドセルのポケットを広げ、消しゴムと鉛筆を一つひとつ確認している。鉛筆の芯の鋭利さと消しゴムの角の丸さを整えるよう、小さな指が几帳面に動くその姿に、祐一は僅かに安堵する。
けれども、それとは別に――自分だけが異常に囚われているのではないかという不安は、濁った水のように胸に沈んでいた。
『違う。そんなことはない。今まで通りの、普通の朝……のはずだ』
心の中でそう繰り返すと、胸の奥のエレベータの開く音が、すぐ耳元で皮肉めいて一度だけ響いた。
「いってきます」
「いってらっしゃい。今日の夜、カレーでいい?」
「うん」
靴箱から革靴を出しながら、祐一は答えた。
「あのね、すごく美味しそうなレシピ見つけたの! 折角だから、盛り付けにも凝るね! 特に結菜のは、可愛いウサギにしよっかな?」
玄関での会話に気付いた結菜が、駆け寄って手を振る。
「パパ、いってらっしゃい!」
「ねぇ結菜、ウサギさんのカレーって、映えると思わない?」
「ウサギさんカレー、ママつくれるの?」
結菜は、目をきらきらと輝かせて聞く。
「写真撮れるようにしよっか! きっと可愛いよ」
「たのしみ!」




