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開かせるもの  作者: 三嶋トウカ
第一章

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第五話


 家に戻ると、楓は再びスマホを手にソファへ沈み込んだ。祐一が何気なく覗いてみると、コメントに返事をし、古い友人から届いたメッセージに「今度、ぜひ遊びに来て」と打ち込んでいる。画面の中の会話は明るい。楓が求めている、明るい会話そのものだった。


 一方で、祐一は廊下に出て、隣室の前に立った。昨日「気をつけて」と囁いた小柄な女性のいる部屋だ。呼び鈴に指を伸ばすのを、ほんの一拍ためらう。が、押す。


 ――ピンポーン――ピンポーン。


 電子音が二回鳴った。

 返答はない。扉の表面は、必要以上に滑らかだった。装飾もない。覗き穴は、僅かに高い位置についている。普通の後継なのに、それすら危うい気がした。

 聞こえていないのかと思い、もう一度押す。


 ――ピンポーン――ピンポーン。


 続く沈黙。

 耐えられずに耳を当ててみる。中の空気は、そこにあるはずなのに不自然に静かだ。冷蔵庫のモーターの低い唸りも、テレビの微かな音漏れも、排水管を流れる水の気配も、床を叩く足音も何もない。

 留守ならそれでよかった。しかし、気にはなる。

 ドアの縁の僅かな隙間から、暗い室内が覗ける気がした。いや、覗けない。目を凝らすほど、暗さは硬くなる。視線に気づいたように、ピンホールの黒が濡れたように見えた。祐一は半歩、後ずさった。


「どうだった?」


 戻ってくると、楓が顔も上げずに尋ねた。


「留守みたいだ」

「このマンション、静かでいいよね。廊下で人に会わないの、ちょっと嬉しい。だって、詮索されなくて済むんだもん。みんな、人の事情好きじゃない? 勝手にずかずか入ってくるあの感じ、なくてよかった」


 楓は笑って、再び画面を撫でた。『#静かなくらし』『#都会なのに静か」。

 祐一は『静か、は、そうだ』と内心で同意しながら、言葉の選び方に微かな違和感を覚えた。この静けさは、元々の静けさではない。何かが音を吸い取っているみたいな静けさだ。


 だが、それがなぜなのか、何のためなのかは、一ミリもわからなかった。


 夕方、外の自販機でジュースを買った後、エレベータの前で待つ。

 表示の数字がひとつずつ減っていく。5、4、3――。一階で箱が止まり、扉が開く。


 ――チン。


 無人だった。

 何も気にせず乗り込む。誰かが次いで乗ることもなく、エレベータは七階で止まった。箱から足を踏み出したとき、廊下で遠ざかる足音が一度したような気がした。

 祐一が顔を上げると、曲がり角に影がよぎったように見える。同じ階の反対側に住む人だろうか。声をかけようと思って一歩踏み出すと、角の先の空気がすっと軽くなる。


「あれ? 誰もいない……?」


 思わず口にした。タイミングを計り損ねたような、そんな気まずさだけが手に残る。

 薄っすらと唇を開き、息だけで「失礼します」の言葉を紡ぐ。そんな小さくて不確かな音なのに、祐一の耳には遅れてはっきりと、自分の声で『失礼します』の音が届いた。

 同時に、足元が沼のように沈む。慌てて足を上げたが、下ろした先は硬い地面だった。一瞬掠れた表示盤の数字が、後悔を心に落とし込む。ただじっと、減ってゆく数字を見つめることしかできなかった。


 夜、楓はベッドでスマホを胸の上に乗せたまま、眠ってしまった。通知音が鳴るたび、指がぴくりと画面を撫でる。夢でスマホを触っているのだろうか。楓らしいと言えば楓らしい。

 結菜の寝息は、寝室の壁にぶつかって、ほほえましい波を作っていた。祐一は、ダイニングの椅子に腰かけ、ラップトップを開いていたが、画面の光は思ったほど目に入ってこなかった。

 時計は、二十三時を過ぎている。


 今日こそ、何もないはずだ。……あるわけがない。そう思っていたのに。


 それは、音のない壁の向こうから始まった。


 ――こん、こん、こん。

 昨日よりも、少しだけ低い音。木の芯を叩くような乾いた響き。間を置いて、またみっつ。


 ――こん、こん、こん。

 祐一は、膝の上で手を握った。汗が指の間で薄く滑る。背中が、椅子の背もたれから浮いた。


「開けない。開けない。気に、しない」


 思わず蔵呟き、寝室へ視線を送る。

 楓は寝返りを打ち、スマホを床に落としていた。鈍い音が広がる。すぐそばで音が鳴っても、目は覚まさない。

 反対に結菜は、布団から半身を起こしていた。暗闇に慣れた瞳が、玄関の方向をじっと見ている。それにまだ、祐一は気づかないでいた。


 祐一は、静かに立ち上がり、寝室のドアを少しだけ開けた。


「結菜、寝てていいからな。部屋から出るんじゃないぞ」


 囁く声は、自分のものではないみたいに硬かった。結菜は、ふるふると首を横に振った。唇が、微かに動く。


「……ママが、あけてあげなさいって、いってる」


 祐一の喉が、ひとつ鳴った。


「ママは、ここにいるだろ。そこで寝てるだろ、ほら」

「ちがうよ。もうひとりの、ママ」


 ――こん、こん、こん。


 音は、玄関ドアを真ん中に挟んで、祐一と結菜を隔てるリズムになっていた。祐一は、寝室のドアをそっと閉め、玄関までの廊下に足を踏み入れた。足裏にひやりとした冷たさ。床のワックスが、ライトに照らされて艶やかに光る。


 覗き穴に目を当てた。


 暗い。


 暗さの質は、さっき隣室の前で感じた硬さと似ていた。見ようとするほど、見えなくなる暗さ。耳を扉に寄せる。呼吸の音は、こちら側にしかない。

 祐一は、廊下の電灯を一度消した。暗さが濃くなり、自分の鼓動だけが音になった。


 心の中で「やめろ」と言いながらも、その手は勝手にスイッチを入れていた。光は最初の一瞬だけ遅れて、最終的には過不足なく廊下を満たした。


 ――こん、こん、こん。


 音は続く。規則正しい。昨日より、やけにしつこい。祐一は、玄関から半歩離れ、壁にもたれかかった。膝が少し震えるが、気にせず時計を見る。零時をまたいだ。


 考えた。

 これは、……深夜の、エレベータと同じだ、と。

 だが、同時にこうも思う。

 『挨拶をすれば無事でいられる』――誰に向けて? 何に向けて? これは『受け入れてはいけない』ものだ。と。


 突然、音は止んだ。静けさが戻る、というより、音が別の形に置き換わる。

 祐一は、息を吐いた。吐いた息が、廊下の空気に混ざる。

 踵を返しかけて、ふと気配に気づいた。リビングのベランダの窓のほうから、視線を感じる。その確信は、理屈ではなかった。一度リビングへ背を向けてみると、背中の皮膚に、細い針を一本一本刺されるような感覚が走る。鋭くて、よく刺さる。


 急いでリビングに戻り、カーテンの隙間を指で広げた。中庭の芝生。夜間照明が、樹木の影を下に投げる。


 管理人が、見上げていた。


 顔は、光の角度のせいでよく見えない。肩から下だけが、棒のように直立している。祐一は、カーテンを閉じた。心臓が、ひどく忙しく動く。

 なぜ、こんな時間に外にいるのか。なぜ、この部屋を見つめているのか。

 当たり前の疑問。しかし、考えたくないと言わんばかりに、祐一は「見間違い」であることを選んだ。


 もう一度、恐る恐る開く。照明に照らされた芝生は、均一で、どこも同じ明るさ。

 誰もいない。

 風もない。

 だがしかし、ベランダの手すりに触れていた指先には、誰かに見られていた直前の熱が、まだ残っていた。


 寝室のドアを開けると、楓が目を擦って起き上がった。


「……また? ノック?」

「いや、もう大丈夫だ」

「気のせいよ。こんな時間に、誰が来るの。夜になると、風が強くなるのかもね、大きなマンションだし」


 楓はそう言って、また布団に潜り込んだ。

 結菜は、まだ目を開けていた。瞳の奥に、玄関の方角の鈍色の残像を閉じ込めたまま。

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