第四話
「こうえん、たのしかったね!」
「そうね、大きな滑り台があってよかったね」
そうしてごみを捨て終わり、みんなで出かけた買い物の帰り道、公園に寄った。なかなかあのサイズの公園は、都会の中心では見られない。遊び場の確保に、楓と結菜はほくほくした顔で笑っている。
しかし、祐一の心は、夜になっても落ち着きが戻らなかった。そんな姿を見て、楓は「あなた、少し神経質すぎるんじゃない?」と呆れたように言った。
「新しい場所に慣れてないだけよ。気にしすぎたら、余計に疲れるわ」
正論だった。だが祐一は頷けなかった。昨日のノックも、今日の声も、ただの幻覚で片付けられるものではない。
――このマンションには、見えない何かがいる。
空気の入れ替えと一緒に、落ちた気分も入れ替えようと、ベランダの窓を開けた。エアコンを切るにはまだ暑い。ふっと入り込む夜風がカーテンを揺らした。
無意識に祐一が下を覗くと、中庭の芝生の上に人影が立っていた。顔は見えない。ただ、確かにこちらを見上げている気がする。何か合図でも待っているような、無言の圧。
それと視線が合った瞬間、祐一は慌ててカーテンを閉めた。胸が激しく脈打っているのがわかる。
――この場所は、普通じゃない。
もう二度と、当たり前の生活には戻れないのかもしれない。
そうして、引っ越して一日経った今朝の光は、昨日よりもいくらか白かった。ガラス越しに磨かれたまるでみたいに、輪郭のくっきりした白。
南向きの窓に寄り添うように、楓がスマホを構えている。リビングの観葉植物――引っ越し祝いにもらったばかりのフィカスを窓辺に寄せ、ソファの上のクッションをふたつ斜めに置き直す。ダイニングの皿の位置、マグカップの角度、トーストの焼き色。フレームの端に映り込んだダンボールの山は、そっとフレームの外へ押しやられた。
「ちょっと動かないで。……うん、今の光、綺麗」
カシャ、と控えめなシャッター音。続いて、指が軽く走る。
「『#新居』『#光の差す朝』『#贅沢じゃないくらし』……ま、これでいっか」
白む朝を切り取った写真に、楓は自分でも照れくさそうに笑っている。画面の中のリビングは、現実よりすっきりして見えた。
少し経つと、通知音が小気味よく鳴り始める。「いいね」の数が、細かな泡のように増えていく。名前の並びが、祐一も知っている友人たちで埋まっていった。
「ほら、結菜、見て! 沢山『いいね』もらっちゃった」
「わぁ! ママ、すごいね!」
結菜は、バターナイフを手に持ったまま笑った。頬にいちごジャムが少し付いている。祐一は、食器を並べ直しながら、画面に吸い込まれる楓の横顔を眺めた。横顔は、確かに写真に収めたくなるほど綺麗だった。
誰に言われるわけでもなく思う。「ああ、こういう光の角度を、ちゃんと覚えておこう」と。
朝食を終えると、楓は立て続けに写真を撮った。カウンターに置いた新しい電気ケトルと、箱から出したばかりのトースター。小ぶりな観葉植物の葉脈に光が透ける瞬間。ベランダ越しに見える中庭の芝生は露で濡れ、今日はまだまだ誰も踏んでいない。出番のないダンボールの山は、やっぱり今度も映り込まない。
「今日はさ、近くのカフェまで偵察に行ってみようか。昨日チラシ入ってたところ。写真、撮りたいんだろ? ネタによさそうだと思うけど」
「スフレパンケーキのお店? オープンしたばかりだよね」
楓の瞳が輝く。
「そうそう。ふわふわのパンケーキ」
「ふわふわ! パンケーキ!」
「結菜楽しみか? 行こうな」
「いく!」
結菜が椅子から飛び降りかけて、楓にまた「下に響くから!」と軽く叱られている。だが、叱る声はどこか上機嫌で、昨日一昨日でまとわりついていた重さは、少し薄まっているように見えた。『このまま何もなければいいのに』と、祐一は思った。
――ふと思い出してしまうノックの音に、エレベータから聞こえた声。写真のフレームから外されたダンボールの山のように、脳みその輪郭から外へ追い出す。
祐一は、出がけにゴミ袋の口をもう一度結び直した。透明の袋の口を、ギュッとひねる。
「増えすぎる前に、ゴミを出してくるよ」と、二人に一声かけて家を出た。
エレベータは問題なく彼を拾い、目的地の一階へと運び、彼はわき目も振らずエントランスへ向かう廊下を歩く。足音が吸い込まれるみたいに軽い。壁に取り付けられた非常灯の緑が、昼間だからか、海面みたいに淡く揺れて見えた。
――人の気配が薄い。
ふと思う。言葉にしてしまえばそれだけのことだ。
朝だから、有休をとった自分と違って、みんな仕事に出ているのだろう。学校も始まる時間だ。けれど、薄さには種類がある。本当に空っぽの部屋から流れ出す空白と、誰かがいるのに気配だけを折り畳んでしまったような空白。そのふたつは、何となく嗅ぎ分けられる。鼻腔の奥に残る匂いの微妙な違いで。
……これは、どっちだ?
そんな疑問を抱きながら、祐一はゴミ置き場の扉を押した。センサーが『ピッ――』と鳴り、照明がぱっと点く。新しい塗装の匂いと、掃除の後の消毒液の匂い。金属のラックに整然と並んだ可燃の札と不燃の札。
袋を置いたとき、どこかで微かに風が動いたように感じた。――しかし、気のせいだろう。あるとしたらきっと、換気口から入ってくる空気だ。
扉を閉め、エントランスに戻る。ガラスの自動ドアは、半歩早く開いた。まるで祐一の歩幅を知っているが如く、間合いを先取りする。だがそれは、見なかったふりをした。
約束通り向かったカフェは、思っていたよりも近かった。表通りに面した角地で、ガラス越しに焼き菓子の並ぶカウンターが見える。楓はカップの取手を指でつまむ角度まで確認してから、もう一度スマホを構えた。テーブルに注がれたラテのミルクフォームには、葉の形が描かれている。結菜には子ども用のココアが来た。小さめの真っ白なカップが可愛らしい。
「カフェラテの葉っぱ、可愛い。『#オシャレカフェ』『#スフレパンケーキ』『#スイーツ』」と、台詞とハッシュタグを添えて、楓はまた写真を投稿した。
「……あははっ、いいね、早い」
画面の向こうは賑やかだった。『素敵!』『羨ましい』『いい写真』『おしゃれー!』。記号とともに並ぶ、短い称賛と羨望の言葉。
祐一は、店の背後の窓に流れる車の影と、歩道をすり抜ける人の足の速さを眺めた。町は明るく、人の作った密度がある。
外はこんなに賑やかなのに、ガラスに映る自分の顔は、思っていたより疲れている。そう感じた。
「パパ、これ、ふわふわだよ」
結菜がフォークを差し出す。
スフレパンケーキの内部は湯気を含んでいて、フォークが入った跡が、ゆっくりしゅわしゅわと音を立てて崩れていく。急速に空気を失ってしぼむその姿に、結菜は憮然とした表情を見せた。
「なんで?」
「スフレはね、時間が経つとすぐにしぼんじゃうんだよ。ふわふわだから」
甘い匂い。楓の笑い声。店員の足音。外を通る自転車の鈴の音。知っている、耳馴染みのある音の層の厚み。
音があるのは、安心だ。そう祐一は思った。
マンションへ戻る道すがら、結菜がふいに祐一の手を引いた。
「パパ、おとなりのおねえちゃん、きょうはおうちにいるかな」
「お姉ちゃん?」
首を傾げる。
「うん。きのうね、みたの。おうちのまえで、こっちをみてた」
「いつ?」
「パパが、ゴミのおへやいったとき」
「……昨日の、いつだ? 昼か?」
「んー、わかんない!」
要領を得ない返答に、唇が自然と乾く。
祐一は思った。何度か外には出ていたが「お隣のお姉ちゃん」は、一度も見ていなかった。あの警告をくれた女性だろうか。しかし、幼い結菜がお姉ちゃんと呼ぶには、失礼かもしれないがいささか年が上な気もする。もしかして、結菜だけ外に出た? いや、まさか。ただの見間違いだろう、と。
「きちんと挨拶、してみようか」
自分に言い聞かせるように言うと、結菜は笑って頷いた。




