第三話
それ以上、何も答えようとはしなかった。祐一はその冷たい響きに、ようやく「深く聞くべきではないのかもしれない」という結論に至った。興味本位に首を突っ込むべきではない話だった。
「でも、三回、鳴ったんです」
言うべきか悩んだが、祐一は食い下がった。
「……そうですか。でも、応じなかったんですよね?」
淡々とそう告げる声は、笑っているはずの口元と裏腹に、氷のように冷たかった。
管理人室から戻ると、妻の楓が朝食の準備をしていた。起きるまで何事もなかったかのように「おはよう」といつものように笑っている。
「散歩?」
「あ、あぁ。ちょっと公園が気になって。結菜を連れてってやりたいし」
「大きいところ? あそこ、遊具が綺麗で良いわよね、ネットに囲われた砂場もあるし」
「そうだよな」
管理人室へ行っていたことは伏せたまま、祐一は楓の調子に合わせて話した。
一夜明けたリビングは、昨夜の恐怖を嘲笑うかのように明るかった。南向きの大きな窓から射し込む光が、まだ積み上げられたダンボールの山を白く照らし、部屋の隅々を浮き立たせている。食器の片付けが間に合わず、新聞紙が出しっぱなしになっていたが、代わりに、結菜のおもちゃはしっかり全部出してある。新品のカーテンの隙間から差す陽射しに、埃がきらきらと舞っていた。
楓はトーストを皿に置き、コーヒーを注ぎながら忙しげに立ち働いている。結菜は椅子に腰かけ、頬をパン屑で汚しながら笑っていた。
――普通の朝だ。
そう頭で繰り返しても、祐一の胸には夜の記憶がこびりついて離れない。
「こん、こん、こん」
乾いた木の音。あの音は、夢にまで追ってきた。眠っている間も、誰かが絶え間なく叩き続けていたように思える。
「パパ、ねえ、ママってふたりいるの?」
結菜の唐突な声に、祐一のフォークを握る手が止まった。楓は苦笑し「何それ、変な夢でも見たんでしょう」と軽く流す。しかし、当の結菜は真剣な顔をしていた。瞳が真っ直ぐにこちらを見つめる。
昨夜、玄関を開けようとした時と同じ顔で。
ぞわり、と背筋に冷たいものが走った。
――娘は、あの「誰か」をママだと思ったのか。――本当に? ママは目の前にいたのに。
「なぁ結菜、昨日の夜、ノックの音……聞こえたか?」
恐る恐る祐一が問う。家族三人聞いたはずだ、間違いなく、あの音を。
「んー? ママ、でしょ?」
大きな目をぱちくりさせて、結菜はそう言ってのけた。『それは違う』と、なぜか言えなかった。不思議そうな顔をして、結菜はヨーグルトを頬張っている。
何となく喉の通りが悪くなったパンを何とか平らげ、コーヒーでさらに奥へ押し込んだ。味はよくわからない。
それから気分転換に廊下へ出ると、隣室の女性と鉢合わせた。昨日、声をかけてきた住人だ。
「昨日はお騒がせしました」
祐一が口を開くと、女性の表情が一瞬で凍りついた。唇を動かすより先に、冷たい目が祐一を射抜く。そして、じっくり舐め回すように篠原家全員をその目で追いかけると、ふっと息を吐き出した。
「……気をつけてくださいね」
それだけを残し、素早くドアの中へ消えた。バタンと音を立てて閉まるドア。夜中のノックの音とは、どう聞いても似つかない。
あの視線が、まだ肌を突き刺している気がする。強い視線。恐怖よりも先に、畏れが立った。
それにしても、気をつける、とは? 一体、何からだ。――それとも、何を?
言いようのない不安が、祐一の背中を寒くさせる。それなのに、妻も娘も涼しい顔をしている。廊下には、彼の鼓動だけが響いていた。
今日の昼食はピザに決めた。近くに店舗がある。結菜はピザが好きで、祐一の「今日のお昼はピザにしようか」の言葉に、ぴょんぴょんと跳ねて喜びを表していた。そして、そこから楓に「下の人に迷惑だから、飛び跳ねるんじゃないの」ときっぱり怒られて、結菜が不貞腐れて頬を膨らますところまでがセット。いつもの流れを祐一は微笑ましく見つめながら、一瞬だけノックのことを忘れた。
ピロリン――ピロリン――ピロリン――ピロリン――
ピザ屋だ。インターフォンのモニタには、見覚えのある制服を着た男性が映っている。
「――はーい」
『トレッタピザです!』
「今開けます!」
点滅するモニタ下のボタンを押すと、オートロックが開いた。それを確認したピザ屋の配達員が、モニタの外へ消えてゆく。
――ピーンポーン。――ピーンポーン。
「はい」
『お待たせしました、トレッタピザです!』
「行きます!」
楓がぱたぱたとスリッパを鳴らして、玄関のドアを開けに向かった。しばらくして戻ってきた彼女の手には、大きなピザの箱と、サイドメニューの入った小さな箱のふたつがあった。
「ピザ、久しぶりだね」
「ゆいな、ピザだーいすき!」
「ママもだーいすき」
結菜は楓の周りをくるくると回り、感激のあまり小さく踊っているようだった。
――オートロックの開錠。――インターフォンの音。そして――玄関ドアの開く音。また昨日のノックの音が蘇る。しかし、折角のピザだから、と、祐一は考えることをやめた。
それから、昼過ぎに家族でゴミ捨てに出たときだった。ピザを食べた後もそうだが、引っ越しでは大量のゴミが出る。わざわざ持ってきたのに、開封した瞬間いらなくなるものだってある。こういうとき、いつでもゴミ出しできるのは本当にありがたい。
一階へ向かうために、下を向いた三角付きのボタンを押す。ちかちかとエレベータの前でランプが点り、表示された数字を大きくしながら箱が上がってくる。
『チン――』という到着音。同時に『ウィーン――』と音を立てながら、ゆっくり左右へ扉が開く。……だが、開いた扉の中は無人だった。
それだけなら、別に気にも留めなかった。七階に用のある人が、いなかっただけである。
……それなのに、乗り込もうとした瞬間。
――『乗りますか?』
祐一の耳の奥底に、確かに声が落ちてきた。誰のものでもない、無機質な問いかけ。男女ともとれる、中性的でいて硬い声質。機械だと言われたら「そうだね」と言えるし「誰か乗ってるんだね」と言われたら、それはそれで「そうだね」と答えてしまいそうな、何とも言えない音。
「今、聞こえたか?」
思わず楓に尋ねるが、彼女は首を傾げただけだった。その横で、じっとエレベータを見ていた結菜が小さく口を開く。
「はい」と言いかけたのだ。祐一は反射的に娘を抱き寄せ、声を荒げてしまった。
「ダメだ!」
結菜の目が驚きに丸くなる。……違う、怒りたいわけじゃない。ただ、怖かったのだ。
管理人の言葉が脳裏を過ぎる――深夜に乗るときは必ず挨拶を。
あれは単なるマナーではなく、何かを避けるための儀式に違いない。直感的に、彼は一歩後ろへ下がる。
今は昼間だ。深夜ではない。それに「はい」という言葉は、肯定を意味しているから、挨拶に足りうるのではないだろうか。
しかし、無性に落ち着かなくなった祐一は、いつまで経っても閉じないエレベータの扉を見つめるだけで、決して乗り込もうとはしなかった。
「ねぇ、閉じないね? このマンション、エレベータ長く開いてるのかな? 荷物下ろす時は便利だけど」
結菜が不思議そうな顔をしている。
「そうだね。……もしかして、壊れたのかな」
そう言うのが精一杯だった。
「あぁ、そうだ。壊れたなら、乗るべきじゃないな。階段で降りようか、運動だ」
祐一は、やっとのことで次の言葉を絞り出した。
楓は嫌そうな顔をしたが、結菜の「ゆいながいちばんはやいよ!」と、二人を置いて駆け出す無邪気な姿に、祐一は気味の悪さを一瞬忘れ「待ちなさい!」と言いながら、娘の後を追いかける。渋々、楓も二人の後を追った。




