第二話
とあるマンション、その一室。これから幸せな生活が約束されたはずの、家族の象徴。
まだダンボールの山が崩れずに残るリビングの窓から、真新しいマンションの中庭が見下ろせた。芝生は青々としていて、植栽には白い名札が差し込まれたまま。
篠原祐一は、そこに新しい暮らしを重ねる自分たちの姿を思い描こうとした。妻の楓は「思ったより広いね」と笑い、幼い一人娘の結菜は玄関から出て廊下を走り回っていた。
最新式のオートロック、宅配ボックス、静音設計のエレベータ。二十四時間いつでも出せるゴミ置き場に、まるでホテルの一室のような客室と、パーティー用に貸し出し可能な大きな部屋。広告通りの快適さが整った、新築の大規模マンションだった。
仕事の疲れも、ここなら少しは癒されるだろう。祐一はそんな楽観を胸に、重い冷蔵庫を所定の位置に収めると、大きく息を吐いた。
引っ越し作業を終えるころ、管理人室に挨拶へ立ち寄る。初老の男性が家族を出迎え、笑顔を浮かべながらも少しばかりに硬い口調で言った。
「夜のエレベータには気をつけてください。……必ず、乗り込む意思を明確にして、一言声をかけてから乗るようにお願いします」
「意思、ですか?」
「都市は更新されます。流れに、飲み込まれぬように」
唐突な忠告に、祐一は苦笑した。意味がわからない。わからないが、親切心なら無碍にするわけにもいかない。
何より、自分たちは新参者だ。関係をいきなり悪くするのは得策じゃない。
「ええ、まあ……はぁ」
と、曖昧に答えるしかなかった。
その後、廊下で隣人とも顔を合わせた。小柄な女性が「引っ越しご苦労さまです」と声をかけてくれたが、帰り際に不意に顔を寄せ、小声で囁いた。
背筋に冷たいものが走る。残された言葉に、何の冗談だろうと祐一は曖昧に笑い返したが、女性はすぐに表情を消し、頭を浅く下げてから無言で部屋へと戻っていった。
夜。思ったよりも時間がなく、最後まで荷解きが終わらないまま、ダンボールの山に囲まれて一家は夕食をとった。微かに香るまだ新しい建材の匂いと、ほとんど使われていなさそうな設備たち。
結菜は眠そうにしながらもはしゃぎ、楓に「変な話を聞かされたんだけど」と、隣人の言葉を打ち明けた。彼女は肩をすくめ「何よそれ、山奥の田舎じゃあるまいし」と冗談めかしたが、お互い胸の奥に僅かなざらつきが残った。
そして深夜。楓と結菜が眠りについた後、祐一は一人台所でダンボールを片づけていた。時計の針は零時を回っていた。眠い目をこすりながら、可能な限りダンボールを開封する。休みは少ない。日中は近所の施設を見に行きたいし、その道のりも確認しておきたい。やることは沢山あった。
時計の針は聞こえないくらいの僅かな音を立てて、いつの間にかちょうど一時を指している。祐一以外リビングで聞こえるのは、冷蔵庫の駆動音と自身がダンボールを開ける音。ガムテープを破り、手近に片づけられるものから淡々と進めていく。
と、そのときだった。
――こん、こん、こん。
インターフォンではなく、木を叩くような素朴で乾いた音が玄関から響いた。三度。間を置かず、規則的に。
祐一は立ち上がり、耳を澄ます。足音も声もない。ただ、扉の向こうに何かがいる確信だけがあった。しかし、どう考えても人が訪ねてくる時間帯ではない。急用でない限り、失礼にもほどがある。それにあの軽いノックの音に、緊急性は感じられなかった。
祐一が固まって動けないでいると、寝室から玄関に向けて小さな影が走り出す。眠れなかったのか、それともたまたま目を覚ましてしまったのか、結菜が笑顔で玄関へ向かっていた。
「ママがかえってきたんだよ!」
伸ばした手がドアノブにかかる。祐一は咄嗟に抱きとめ「開けちゃだめだ!」と強い口調で言った。娘は驚いて泣き出し、家中にその声が響いた。慌てて楓が起き出してくる。「どうしたの?」と問いかけるが、玄関の外には何の気配もない。インターフォンのモニタも沈黙したままだった。
……ママが帰ってくるわけがない。ママは、楓は今ここにいる、目の前に。なぜそんなことを娘が言い出したのかわからず、勝手に「怖い夢でも見たんだろう」と判断した。
――こん、こん、こん。
二度目のノック。同じく乾いた音だった。
しかし、祐一は気付く。このマンションの玄関のドアは、アルミサッシだ。木製じゃない。それなのに、聞こえてくるのは木を叩く音。そんな音、聞こえてくるはずがない。何度か間をおいて、ノックの音が響く。決まって一度に三回。
「なぁ、音、聞こえるよな?」
不安になった祐一がポツリと呟く。
「んー、聞こえてるけど。本当にノック? 風の音かもよ? だって、こんな時間だし」
大きなあくびをして、楓は呑気なことを言っている。
やがて音はやみ、静寂が戻る。楓は「ただの悪戯じゃないの?」と宥めたが、祐一の胸に刻まれた感覚は消えなかった。
確かに、そこに誰かがいたのだ。
それから、五分、十分、ニ十分。もう音は鳴らなかった。
腕の中で眠ってしまった結菜をベッドへ運び、まだ片付いていないダンボールを見つめながら、祐一も眠ることにした。一瞬だけ荷解きを再開しようと思ったが、またあの音を聞きたくないという気持ちが勝った。少なくとも、ちゃんとした理由がなければ、こんな時間にノックの音など聞きたくない。どう考えても普通じゃない。
翌朝、祐一の目覚めは最悪だった。夢の中で、玄関ドアをノックするあの音が響いていたからだ。普段なら夢を忘れる彼でさえ、あの音だけは鮮明に覚えていたのだ。何度も脳内で繰り返し鳴っては、目で玄関を追う。
夢を見て思った。『もし誰かが助けを求めているのなら、一緒に大きな声で叫んだはずだ。「助けて」「開けて」「誰か」と、腹の底から』と。
それに、切羽詰まった状態にしては、音の鳴らし方が丁寧だった。一定のリズムで、決まった回数。事件事故なら、そんなことを気にする余裕はない。昨日感じた違和感はこれだった。だから「あれは出なくて正解だった」と無理やり自分を納得させた。
しかし、彼の頭に浮かぶのは、お隣さんのこの言葉だった。
「……もし玄関をノックされたら、絶対に開けないでくださいね。いいですか? ノック、ですよ」
間違いなくこれだ。これ以外にない。そう結論付けた。だが、なぜお隣さんがそんなことを知っていたのかわからなかった。
忠告をくれたのは、恐らく隣に住んだよしみだろう。なぜ出てはいけないのか、理由はまだわからないが、円滑な人間関係のために必要なら、自分だって新規の隣人にこの話をすると思う。そう感じていた。あれは善意なのだ。善意だからこそ、真意は伝えなかった。つまりは、下手に足を突っ込んではいけない、ということ。
そこまでは理解した。理解したが、どうにも腑に落ちない。
と、そこで、祐一は昨日管理人もおかしなことを言っていたのを思い出した。
「夜中のエレベータには気をつけてください。……必ず、乗り込む意思を明確にして、一言声をかけてから乗るようにお願いします」
ノックと何か繋がりがあるのならば、これは管理人に聞くべきだ。そう判断した祐一は、まだ眠っている楓と結菜を置いて一人、管理人室へと向かった。
「あのー、すみません」
「おや、篠原さんじゃないですか。おはようございます」
「あ、おはようございます」
「どうかしましたか?」
「それが、その」
管理人は、昨日と同じ笑顔で迎えてくれた。だがしかし、じっとりとした空気がそこにはあった。
管理人室にある小さな窓。その窓から祐一に向かって吹く風は、空調で整えられた軽やかなものだった。少なくとも、昨日は。
意を決して話すこちらの説明を聞くと、管理人の男性は真顔で一言だけ告げた。
「応じなかったのなら、大丈夫です」




