第一話
とある新築マンションの掲示板に、一枚の紙が貼られた。白地に黒字。挨拶文も、余計な飾りもない。よく見る明朝体の文字。印字はまだ温かいようで、インクの匂いが微かに鼻の奥に残る。
――七階七〇三号室 佐伯家 本日退去。
父・佐伯康一(42)/母・美和子(39)/長男・陽翔(12)/長女・春香(9)
普通なら「退去しました」の一行で足りる。いや、そもそも、退去の告知すらない。だがここでは違う。
どの家族、誰が、何歳で、何人で――そこまでが毎回、書式のように掲示される。まるで「記すこと」自体が、どこかの段取りに組み込まれているみたいに。
夕刻、買い物帰りの老女が立ち止まった。紙面を見て、ほんの少し首を縦に振る。
「……今度は佐伯さんちか」
それだけ言い、抱えたレタスの袋を握り直すと、何事もないように去っていった。そこに、惜別の色はない。驚きも、噂話もない。ただ確認して、頷くだけ――それがここのやり方。
ランドセルを背負った男の子がエレベータ前で立ち尽くしていた。その目はガラスのように無機質で、なのに薄っすらと涙が滲んでいる。
「……春香ちゃん、もう遊べないの?」
隣の母親がとっさにその口を右手で塞ぐ。
「声に出しては駄目」
男の子は頷いて、足元だけを見た。黒い靴の先が、床の白光を跳ね返している。
七階の廊下は、いつも以上に静かだった。定時で点灯する蛍光灯の白が天井から降り、床のワックスが昼間の光景を忘れたように冷たく光る。七〇三号室の前に、人の気配はもうない。
それなのに、ドアの前に小さな赤いヘアピンがひとつ、ぽつんと落ちていた。花の形をした飾りがついて、まだ新品の明るい色を残している。誰のものかは、見ればわかる。いなくなった春香の髪にいつも留まっていたものだ。拾う人間はいない。落とし物に気づいた目は、そっと視線を滑らせて通り過ぎる。
――昨日まで、確かに暮らしていたのに。
朝の共有通路で、康一がゴミ袋を持って管理室の前を通るのを見たという人がいる。
夕方には、美和子が袋から長ネギを覗かせて帰ってきた、とも。
陽翔がサッカーボールを脇に抱え、春香がダンボールで作った秘密基地の話をして笑っていた、なんてどれもよくある、何でもない生活の切れ端だ。
それが一晩で、宙に浮いたまま取り落とされる。
管理人が掲示板の前に現れたのは、日は既に落ちてからだった。灰色の作業着の胸ポケットからスタンプを取り出し、無言で郵便受けを巡る。佐伯宛の封筒やチラシを束ね、赤いインクでひとつずつ押していく。
「退去済」
インクの乾く音もしない。印面だけが淡々と増えて、紙束が積まれていく。ぺたりと半乾きの赤が、滲んで輪郭をぼやかした。管理人の手つきは、長い間覚え込んだ段取りを、ただただなぞっているようだった。
廊下の角に差しかかった時、管理人はふと足を止めた。七〇三号室の前、薄く閉ざされた扉の奥から、こん、こん、こん、と規則正しい音がしたからだ。インターフォンではない。木を叩くような、乾いた音。
――それに応える声はない。
管理人は耳を澄ませ、短く頷いた。
「……応じなかったのなら、大丈夫でしょう」
誰に向けたとも知れない、その一言を廊下が飲み込む。
夜十時、十一時、十二時――時間に合わせるように、七〇三号室の紙製のカーテンがふっと膨らんでは、すぐ萎む。窓は閉まっている。風は入らない。
しばらくして、部屋の明かりが一瞬だけ点った。誰かがいるように見える。すぐ消えた。一時過ぎ、それを見てしまった住人は、立ち止まらない。立ち止まらず、見なかったふりを身につけた足どりでエレベータのほうへ向かう。押された呼び出しボタンのランプが、妙に長く点いたまま、なかなか消えない。
「失礼します」
住人は、誰も乗っていないエレベータに挨拶をして乗り込んだ。
翌朝、ドアプレートの名札が、何の前触れもなく剥がれ落ちた。糊が切れたみたいに、するりと外れ、床へひらりと落ちる。同時に、管理人室の居住確認表示盤の片隅で「703」という数字が一度だけ点滅し「空室」に切り替わる。誰かが操作したわけではない。合図のようでもあり、確認作業の終わりを告げるサインのようでもあった。
エントランスの掲示板の紙は、夜露を吸って端が少し波打っていた。そこに書かれたよっつの名前と年齢は、今も黒々としている。一人の男性が立ち止まり、紙をじっと見つめ、口を開いた。
「……そうか」
それだけ言って、また歩きだした。眉の間からは、何の感情も読み取れない。
午後、清掃員が通路を拭きながら、赤いヘアピンの手前でモップを止めた。ほんの一拍置いて、そのまま避けて通る。ピンは濡れずに取り残され、花の飾りだけが光を弾く。
夕方には、誰かが一度だけ呼び鈴を押したらしく、七〇三号室の前に短い電子音が散った。返事はない。廊下に誰もいない。陽翔の友だちだろうか、見知らぬ子どもの足音が、途中で足を緩めたような気配だけを残して遠ざかる。
夕暮れどき、管理人はもう一度掲示板の前に立った。紙の端を指先で押さえ、テープの糊の浮きを確かめる。掲示は剝がれない。この掲示は、まだ必要だ。それが終わるまでは、誰も何も言わない。
その後ろを、赤いリードをつけた犬を連れた男性が、ゆっくりと通り過ぎていった。
夜になって、七〇三号室の奥から、笑い声のようなものが一度だけした。子どもの声にも、大人の声にも聞こえる、浅く乾いた音。通り過ぎた住人が肩をすくめ、早足になる。
ここで安全なのは、気づかないことだ。口にしないことだ。みんなが「そうしてきた」ことは、誰もが知っている。
――こうして、また一組の家族が、音もなくいなくなった。残されたのは、掲示板の紙と、拾われない赤いヘアピンだけ。朝一番の陽射しがヘアピンの花に触れ、ほんの小さくきらりと光る。それなのに、誰も見ていない。誰も見ようとしない。
明くる日、掲示板の紙は角を新しいテープで留め直されていた。白地は一層白く、黒字は一層濃く見える。文字の列は、決まりきった形式で、決まりきった事実を並べている。それがここでの「知らせ」であり「手続き」であり「決まりごと」だ。
住んだ者は「このマンションにあわなければ必ず」去る。去った者の名は、正しく記される。他のことは、何もいらない。
紙は、風もないのに、微かに揺れた。廊下は静かだ。静かさだけが、ここではいつも正確に守られていた。




