第十話
出がけにゴミ袋の口を固く結び、玄関のドアを開ける。ゴミ捨ては、もう祐一の日課になった。たった数日で、当たり前のように決まった彼のルーティーン。
今朝の廊下の空気はいつもより軽く、いつも気になるニオイがない。それに、靴音が吸い込まれるみたいに反響が小さい。
ふと目をやると、隣のドア前のマットが半歩分だけずれていた。傘立てに刺さっていたはずのフリルのついた白い日傘と、オレンジ色の雨天用の傘が見当たらなかった。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
「パパ、いってらっしゃい!」
エレベータは、押す前にすっと開いた。箱の中は空で、鏡に映る自分は寝不足の目をしていた。乗り込み、閉まる扉の鏡面がこちらを押し返すように感じる。
「挨拶――しないと」
喉の奥に張り付いた声。乾燥のせいだけじゃない。じっとりと額を伝う汗を指で拭い、今にも消え入りそうな声で「失礼します」と呟いた。
誰もいない箱の中は、空調音だけが響いている。喉の渇きを覚えながら、ただひたすら、一階へ着くのを待った。
開いたドアの先。――誰もいない。マンション自体に、人の気配がまったくないわけでもないのに、毎回どうして、こんなにすれ違う人が少ないのだろうか。祐一は、ここへ越してから見かけた人の顔を必死に思い出した。戸数の数に比べて、その顔の数は圧倒的に少ない。広くとられたゴミ捨て場も、ゲスト用の滞在ルームも、大きなパーティールームも、宝の持ち腐れのように思えた。
足取りが急に重くなり、目線は勝手に集合ポストへ向かっていた。我が家七〇三のポストは、昨日確認したばかりだ。ピザ屋のチラシに塾の紹介、新しくできる歯医者の広告と、選挙前の応援のお願い。水道の切り替え完了のお知らせだけが、有意義な内容だった。……次点でピザ屋。
その場を通り抜け、駐輪場へ向かうために裏へ抜ける。朝早くから、チラシを入れている青年がいた。ふと、視線は隣家――あの女性のポストへ移る。意識していないのに、祐一の足は止まっていた。
我が家の部屋番号ではない。隣家の部屋番号が貼られたポストの受け口から、白い封筒の角が覗いている。それから、茶色い封筒と、潰された下のほうにはカラフルなチラシたち。受け口からはみ出ているということは、中に入り切らなかったということか。『それなりに大きなポストなのに。入りきらないなんて。昨日だって、見かけたのに。出さなかったのか? どうして?』と、祐一はざわざわと蝕むように這い上がる違和感を押し込めて、一緒ん件名見ないふりをした。
――午前中の仕事を片づけ、早めの昼休み。社の屋上で紙コップを握り、空を見上げる。息を飲むほどの快晴。雲ひとつない。目に映る光はやはり白かった。
思い出す、引っ越してから、スマホに通知が重なっていく音。楓の投稿に『綺麗』『憧れる』の文字が並ぶ。嬉しそうに笑う楓の顔。画面に流れる文字列と、呼ばれていないエレベータの到着音と、廊下の気配の薄さが、互いに関係ないまま脳内で折り重なっていく。
頭で思い描く、楓と結菜の笑顔。ここでふと、祐一は疑問を持った。
自分が今まで見てきた楓の笑顔と、ここ最近の楓の笑顔が、どうにも違っているような気がする、と。
よくよく、今朝見た楓の顔を思い出してみる。
ゆっくりと細められた瞳、均等には上がらない口角、目の下のクマ。それを作るのは、追い続ける称賛と羨望。耳に届かない声。越してくる前の表情を、祐一はひとつも思い出せない。
午後、会社へ戻る前に、楓からメッセージが届いた。
『午後のうちに管理人さんから全戸にお知らせがあるって。『設備点検のお知らせ』だってさ。エレベータの点検も書いてある』
短い文面。読みながら、喉の奥で何かが小さく鳴った。
点検。
エレベータの。
「もしかして、日中帯だったりする? 流石にそれで帰れないから、夜じゃないなら楓にお願いしても良い?」
スワイプする指が震える。どうしてだか、自分でもわからない。
『そうだよね。時間的に祐一の帰ってくる時間よりも前だから、私が話聞いておくよ。紙配られるだけだと思うよ』
「ありがとう。頼んだよ」
『うん。じゃあ、午後も頑張って』
祐一は、楓との間の張りつめていた糸が、いつの間にか消えていることにほっとした。機嫌が直ったのか、そもそも気にしていなかったのか。それはわからない。
午後の打ち合わせが一本延び、日が傾いてから帰路につく。商店街を抜けると、夕飯の支度の匂いが空気を厚くする。
マンションに着くと、エントランスの掲示板に新しい紙が増えていた。『設備点検のお知らせ』。活字が整然と並んでいる。その隣に、薄いグレーの経線を引いた空白が一枚、留められたばかりのように真新しく光っている。まだ何も書かれていない。
空白であること。
それが、妙に気になった。
自動ドアが祐一以外を迎えようとして開く。しかし、彼以外人はいない。足早にドアから離れ、管理人室の小窓はブラインドが斜めに降りているのを横目で見た。斜光の筋が床の白さを少しだけ濃くしていた。エレベータホール、上りのボタンを押すと、階数表示がひとつずつ降りてくる。5、4、3、2――
扉が開いた瞬間、箱の中に設置された大きな鏡が、祐一の後ろを滑る白い影を映した。突然の、人影。それも、女の人だ。小柄で、髪が肩に触れている。浮かぶのは、隣家の女性の顔。声をかけようと振り返ったが、影は角を曲がった瞬間に、空気になぶり消された。
間違いなく、誰かがいた。だが、それが誰なのかはわからなかったし、生きているのかどうかもわからなかった。
扉が閉まり、上へ運ばれる。もちろん自宅の階で降りる。廊下の照明は時間のせいか白さが薄れて、少しだけ黄味を帯びていた。隣のドア前のマットがさらにずれている。
相変わらず、傘立ての中身はない。今日の天気は、朝から晩まで快晴。傘の代わりか、ドアノブに紙袋がぶら下がっていた。紙袋の口は閉じられておらず、こっそり覗いてみると、中身は空っぽだった。底の内側に小さな赤い繊維が一本、残っている。
「おかえり」
「ただいま」
靴を脱ぎながら、そのことを楓に話す。
「隣、何か変だ。朝は傘がなくなってて、今はドアに空の紙袋がかかってる」
「傘くらい、なくなっててもおかしくないでしょ? 会社へ持って行ったかもしれないし、部屋の中へ入れたかもしれないし」
「傘立てだけ残して?」
「祐一、神経質になってない? じゃあこれは? 引っ越し。 よくあるじゃない。最後にゴミをまとめたり、誰かにお裾分けしたり。傘、あげたのかもよ? 傘立ては邪魔だったから、置いていったとか?」
「……引っ越し、か」
あり得ないことはない、と、少し考えこむ。そこへ、楓が言葉を続けた。
「この規模だと、人の出入りも多いって。ほら、あの大きい掲示板、いつも何か貼ってあるし。あ、点検の話も貼ってあったよ。紙ももらったけど。置いておくから後で見ておいて」
楓はあっけらかんとして、プライパンの蓋を開けた。バターの香りが鼻に触れる。
「ね、となりのおねえちゃん、きょうはいる?」
「いや、お隣さんは……」
今日も聞かれるとは思わなかった。そして、今日も答えられなかった。
七〇三が我が家。
七〇二が、あの初日にノックについて言っていた女性の家。男性が出入りしているのを見たことがある。年齢的に御主人だろう。挨拶はしたものの、男性はいない時間帯だった。
七〇四は、老夫婦が二人で住んでいる。息子さんが二人、独り立ちして既に家庭を持っていることは挨拶のときに聞いた。滅多に帰ってこないと言っていたから、この家ではないはずだ。……だが、そうなると。
「はい! できたよ! にゃんこオムライス!」
「うわあぁ! ママすごい! ママじょうず!」
祐一への質問はすっかり忘れたように、結菜が目を輝かせた。
「でしょ? 早速アップしないとね。あ、結菜、まだ食べないで! タグは……『#にゃんこオムライス』に、他は何にしよう?」
写真を撮るために、皿の角度を少し調整する楓。何枚か写真を撮り、満足したのか結菜に「食べていいよ」と言う。小さなフォークで猫の頬に添えられた、ハート型のケチャップを食べやすいように伸ばす結菜。その姿を祐一は、優しく笑いながら眺めていた。




