第十一話
食後、祐一は廊下に出た。隣のドアの前に立ち、インターフォンを押す。
――ピンポーン、ピンポーン。
電子音は、今まで聞いたことないほど明瞭だった。しかし、返事はない。ドアノブには、空の紙袋がかかったまま。
「すみませーん! 隣の七〇三の者です。あの、紙袋かけっぱなしですよ! すみません!」
声をかける。だが、広がるのは沈黙。ドアの表面は、やけに無機質な光を放っている。覗き穴に目を当てた。暗い。当り前だ。だが、暗さが硬い。
『硬い暗さって何だ』と、自分で思いながら、祐一は何日か前にベランダから見た、夜の芝生の影の硬度を思い出す。
中の様子が確認できない物かと、耳をドアに近づける。家電の低い唸りも、足音も、テレビの気配も、何もない。自分の息の音だけが、こちら側にあった。
ノックをしようとして、踏みとどまった。ノックは勘違いされる可能性がある。自分なら間違いなく、人だとは思わないだろう。このマンションでは、これだけノックのことを言われるのだから。
他の手段を探し、ドアノブに触れる。――もしかしたら、中で倒れているかもしれない。ノブの金属の冷たさが皮膚に貼りつく。ぴりっとした気持ちで軽く下げようとすると、ほんの僅かに、下側へ押し込まれた。抵抗がない、止まらない。どうやら、鍵は、かかっていないらしい。
オートロックとはいえ、どう考えても不用心だ。もし、犯罪者が中に入りでもしたら。迷いが、喉のあたりで伸び縮みする。管理人の顔がよぎる。「気をつけてくださいね」と言い残して去った隣の女性の顔がよぎる。逡巡の末、祐一は小さく頭を下げ、もう一度声をかけた。
「すみません。失礼します。……あの――」
音の代わりに、空気が動いた。内側へ押したぶんだけ、ドアが開く。ほんの五センチ。黒い線のようだった隙間が、淡い灰色に広がる。さらに、十センチ。声をかけながら、隙間をもう少しだけ開く。
――部屋は、空っぽだった。
新築の匂い。塗装の匂い。床のワックスが均一に伸ばされ、鏡のように天井灯を返す。コンセントの差込口は白く、擦った跡がない。壁紙の角は、まだ折り目を保っている。継ぎ目なんて見えない。窓辺のカーテンは、新品の紙がかけられ折山も崩れていない。そのまま吊ってから誰も触れていないみたいに、几帳面に垂れている。フローリングはワックスの跡だけぬめりと光り、共用部分の明かりに照らされても、傷を探し出せなかった。
リビングへのドアは開いている。奥は良く見えないが、やはり何度見ても紙製のカーテンの折山が美しい。それはわかる。
わからないのは、なぜ誰も住んだことのないような綺麗さなのか。
祐一は思い出していた。『昨日の夜、帰る時には電気が漏れてた』ことを。
靴を脱いで上がるべきか一瞬迷い、しかし敷居から先へは行かないと決めて、玄関のタイル越しに視線を滑らせる。靴箱の天板には何も置かれていない。
次の瞬間、突然大きな雷光が走り、自分の影が廊下へ伸びる。その瞬間だけ、奥まで部屋が見えた。――床に「何かを置いていた四角い痕跡」が見当たらない。ふと目に入った、トイレの電気スイッチ。保護シートが貼られている。それ以上はわからないが、今確認できる「誰かが住んでいた形跡」が、まるでゼロだった。
拍を置いて「ゴロゴロ」と唸るような音が聞こえてから「ドオン」と雷が落ちた。
視線を落とした時、玄関の角に小さな色のかけらが落ちているのが目に入った。黄色いクレヨンの先。爪の先ほどの大きさ。拾い上げると、指先がうっすら色づく。新品の箱から出したばかりの、あの濃さ。
祐一は、そっと元の場所に戻した。部屋の空気が、一拍遅れて肌に絡む。その遅れ方が、不自然だった。
「何、やってるんですか」
背後で声がした。管理人だった。灰色の作業着。胸ポケットに差した赤いスタンプ。息を弾ませもせずに、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
「あ……すみません。鍵が……開いてたので」
「迷惑ですよ。退去の手続きの途中なんです。こちらで確認しますから、早く出てください」
管理人は淡々と、靴を脱がずに敷居の内側に立ち、室内を目だけでひと撫でした。それから玄関の外に出ると、ドアを静かに閉じ、鍵穴に差し込んだマスターキーを一度だけ回した。カチリと小さな音。それは、金属の噛み合う正確な音だった。
「退去って、さっき」
「はい」
「いつですか?」
「――もう、終わりました」
終わりました。過去形。管理人はそれだけ言い、視線を落とすことなく言葉を続けた。
「ここでは、手続きと確認がすべてです。どうぞ、お気になさらず」
祐一が次の言葉を探す前に、管理人は小さく会釈をして、足音を残さず廊下の角へ消えた。足音が消えるのではなく、最初から鳴っていなかったかのように、何も澱を残さなかった。
納得のいかないまま、我が家のドアへ手を書けようとしたとき。
その足で何か硬いものを踏んだ。驚いて足を退けると、そこにあったのは赤色のヘアピンだった。
「結菜のか?」
祐一はそれを拾い上げると、ズボンのポケットにしまった。
「……ねぇ、開いてたからって、勝手に他人様の家の中覗くのは良くないよ」
楓は、写真加工アプリで彩度を上げながら、軽く言った。まだ閉めていないカーテンの奥から、月明かりが覗いている。
「でも、部屋は……空っぽだったし。家具の跡も、傷も、冷蔵庫の擦れも、何もない。新築の匂いのままだったんだぞ」
「うちと一緒じゃない。引っ越してすぐに、そうだったでしょ」
「いや、うちだって、もう床に細かい傷が入ってる。カップを置いた輪もある。あっちは、ゼロだった」
「ゼロ?」
「ゼロだ。まるで最初から空室だったみたいに」
はぁ、と大きな溜息を吐いてから、楓は肩をすくめた。
「だから! 大袈裟なんだってば。ものすごくミニマムな暮らししてただけなんじゃないの?」
「そういうんじゃないんだよ! もっとこう、存在感って言うか、違和感って言うか」
見る見るうちに、楓の表情が険しくなった。
「はぁ、またこの話しなきゃいけないの? いい加減にしてよ。だいたい、他人様の家に勝手に入るって、本当にあり得ない。不法侵入じゃん。犯罪だよ?」
「そんなつもりはなくて! ただ、中で倒れているといけないから、ちょっと覗いてみただけだし」
「余計なお世話でしょ、そんなの。管理人さんに、警察へ通報されたらどうするつもりなのよ、呆れた」
言葉の端と態度に滲み出る、明らかな軽蔑。
「俺は別に……」
「大げさなんだって。全部おっきく取り上げすぎ。そんなことより、ねえ、この写真見て。廊下の影、二重に見えるやつ。また撮れちゃった。『#偶然』『#二重の影』『#錯視かな』『#謎』で、良い線いけると思うんだ」
「……錯視じゃないかもしれない」
「だからさぁ……ほんと、最近の祐一、どうかしてる。臆病っていうか、神経質すぎ。ねえ結菜、パパってさ、すぐ怖がるよね」
「うん……」
結菜の返事は慎重だった。机の引き出しからスケッチブックを持ってきて、クレヨンを並べる。黄色が、ほんの少し短い気がした。
「何描くの?」
「おじさん」
「……また、おじさん?」
「うん。きのうもきょうも、エレベータで、いたもん」
祐一の喉の奥が、きゅっと狭くなる。
そんな祐一の反応を気にすることなく、結菜はぐるっと円を描き、その中を黒で塗りつぶした。顔の位置にあたる部分は空白のまま。白い紙の白が、そのまま「目のない場所」になっている。身体は細い一本線。足はない。見ようによっては、床から少し浮いている。
祐一は、言葉が見つからなかった。結菜の手は止まらず、同じ形を、ページをめくるたびに繰り返す。ページが進むごとに、その黒い円の縁だけが微妙に歪んだ。楓は、画面の向こうから流れてくる『かわいい』『上手』の文字列の中でうっとりと笑っている。
並ぶのは、目のない顔。浮いた足。真っ黒の線。
スケッチブックの隅に、幼い字で「しずかにね」と書いてある。結菜の字だ。その横に、小さい四角。扉。さらに、小さい四角。――箱。エレベータに見える。
「ねえ、おとなりのおねえちゃんは? ねえねえ、ゆいな、あした、あいにいっていい?」
「いや……」
答えに詰まり、祐一は席を立った。ズボンのポケットに入れた拾い物が、のそりと動いてその存在を主張する。
「あぁ、そうだ結菜。これ、結菜のか? 外に落ちてたぞ」
ポケットから、赤いヘアピンを取り出して結菜に渡した。
「あ! それ!」
「やっぱり結菜のだったか? だめだぞ、気を付けないと――」
「おとなりのおねえちゃんの!」
思いがけない言葉に、瞳孔が委縮する。喉が渇く。口の中がざらついた砂の味に変わる。
「あした、かえさなきゃね!」
無邪気に笑う結菜が、まるで化物のよう見えた。気持ちを落ち着けようと、震えた手でコップを持ち水道の蛇口を捻る。流れる音が、砂の落ちる音に聞こえた。




