第十二話
楓と結菜が先寝た後で、祐一は一人共用の廊下に立った。
隣のドアの前には、もう紙袋はない。マットは完全にずれて、床の継ぎ目の上に斜めにかかっている。ドアプレートの名札は外されてはいない。名札の上の透明なカバーに、薄い曇りが出ている。中の文字は読めない。元々こうだったのかもわからない。
そのまま移動して、エレベータを呼ぶ。――チン。扉は開かない。到着音だけが、耳に届く。数秒後、すっと開いた。空っぽ。何も乗っていないはずなのに、その空気は何人分もの重さを持っていた。気のせいだと言い聞かせ、乗らずに扉を閉めた。今日はもう、階段を使うしかない。
管理人室の小窓は暗く、ブラインドの隙間は閉じられている。誰もいない。何かを確認したくて、掲示板の前で足を止めた。帰ってきた時に見た空白の紙に、筆圧の浅い明朝体が二行、増えていた。グレーなのか、黒なのか。色の判別がつかない。
――七階七〇二号室 小寺家 本日退去。
夫・小寺正臣(55)/妻・佐和(54)
仕事の速さに驚く。印字が乾ききらず、まだ僅かに光っていた。
これを見て祐一は「隣家である七〇二に、結菜のいう隣のお姉ちゃんはいない」ことを改めて知った。薄々わかっていた。だが、それならば、あの赤いヘアピンの持ち主は? 黄色いクレヨンはどうして隣家に? いったい、誰と遊んでいた? 疑問が絶え間なく降り注ぐ。
冷や汗をかき、頭に響くのは「しずかにね」の言葉。
この「しずかにね」という言葉が、誰のための、何のための規則なのか。何度考えても頭が痛くなるだけで、それ以上の収穫は得られなかった。
家に戻り、玄関の明かりを落とす。暗闇が均等に降りる。秒針の音は聞こえない。耳は、次の「チン――」か「こん、こん、こん――」を待つ。それは来なかった。代わりに、遠くのどこかで、水が細く落ちるような気配だけが、しばらく続いた。
翌朝、仕事へ向かうために廊下へ出ると、隣のドアプレートの名札がなくなっていた。すり替えられた透明なカバーが空を映し、床の白を薄く返すだけ。ドアの前のマットが消え、傘立ても消えた。そこに最初から何もなかったような平坦さだけが、白々しく残っている。
エントランスでは、いつもの男女が立ち話をしていた。
「今日だったのね。あら、昨日が正解かしら」
「ええ、また」
「もう誰も、気にしないわよねぇ」
今日の祐一には「この会話が何を示している」のか、内容を詳しく聞かなくともわかっていた。
「でしょうね」
「ほんとにね」
「ほんとですね」
同じ言葉が繰り返される。
祐一は、立ち止まって声をかけようとして、やめた。二人は、こちらを見ない。顔に揺らぎがない。笑顔は、左右対称だった。祐一は、掲示板の紙面を一瞥する。紙は自分が見たときのまま、異様な雰囲気を放っていた。一晩経ったというのに、なぜかまだ、インクは乾いていない。
貼り出された紙を凝視して、祐一はあることに気が付いた。お隣さんが『小寺』さんだったことに。そして、反対側の家庭の苗字も、知らないことに。
自宅に戻ると、ちょうど結菜がスケッチブックからページを破り、玄関の靴箱の上に立てかけていた。黒い円の中の白い空白が、外の光を受けて僅かに剥がれたように見える。
「ねえ、きのうのおねえちゃん、きょうもいないの?」
「……いないみたいだ」
「じゃあ、べつのひにする」
「そうだな。別の日にしよう」
楓は、窓辺のフィカスを少しだけ回し、朝の光をすくい直すように葉の角度を調整した。
「さぁ、今日は『#白い朝』と『#すきまの光』、それから……」
祐一は透明のゴミ袋の口を、いつもより固く結んだ。二重に結んで、結び目を手で押さえる。指先にビニールの冷たさが吸いつく。
頭の中では、ずっとここ数日のことを考えていた。
空になった部屋。空になった名札。空にならない紙の文字。……そして、空白を塗りつぶす黒い円。
祐一はそこに、気持ち悪さしか感じられなかった。
ドアを閉めるとき、蝶番が僅かに鳴った。昨日までは聞こえなかった音だ。普通の音。生活の音。祐一は、その普通を胸の中央で掴み直そうとした。掴んだ感触は薄いが、確かにあった。小さく、しかし確かな抵抗。
「おそらくきっと、今じゃない」
『何が』かは明確にしないまま、自分にそう言い聞かせて鍵を回した。金属が噛み合い、室内の空気と廊下の空気が、はっきりとわけられた気がした。
エレベータの前を通り過ぎると、箱がいつものようにほんの一瞬だけ「迎える」気配を漂わせた。同時に、廊下の空気が、撫でるように背中に触れた。
***
――ある日、集合ポストに、白い紙が一枚差し込まれていた。
薄いコート紙に、細い明朝体で「定例住民会合のお知らせ」と書いてある。日時、場所、議題――「清掃当番について/駐輪場の施錠確認/共用廊下の私物禁止」。
端正な列。端には小さく「地域慣行に基づく注意喚起」の一行が付け足されている。読み飛ばしてしまいそうになるほど小さいのに、なぜか目に刺さった。
掲示板にも同じ紙。ぴしっと四隅が真っ直ぐ貼られている。
祐一は、この紙に書かれた『地域慣行』を見て考えた。
家を探しているとき、不動産屋では何も言われなかった。大きな新築の集合住宅だし、特に事前の隣人調査も挨拶も行っていない。管理人に挨拶はしたが、それだけだ。
町内会の話も、子ども会の話も、そういえば、地域に関する活動について何も確認していなかった。ここは賃貸ではない。今後の住みやすさを考えて、行事には参加すべきだ。……そう考える彼の頭の隅で『本当はもう、引っ越してしまいたいくせに』と、誰かの声が響いた。
紙を手に戻ると、そばにいた楓がすぐに覗き込んだ。
「会合? 行ってみようよ。顔見せ、大事だもん。ご近所付き合い、最初が肝心。今まで開催見逃してたわけじゃないよね?」
「……多分」
「じゃあやっぱり最初が肝心ね。絶対参加しなきゃ」
「これ、今日だけど」
「予定ないからちょうどいいじゃない」
彼女は軽やかに言い、スマホの予定にすぐ登録した。結菜はソファの上でクレヨンの箱を開き、白い紙に大きな丸を描いている。丸の中に、小さな丸をふたつ――以前から描き始めた「顔のない誰か」の続きだった。目は描かれない。それなのに、輪郭だけが増える。
一度だけ「パパは怖いな。違う絵にしない?」と聞いてみたが、結菜の答えは「いや」の一言だった。困って何とか絞り出した「やめて違うのにしよう? 違う絵も見たいな」も「いや」で打ち消された。その弾みにぽきりと折れたクレヨン。それを見て泣く娘。それからもう何も言わない。
何度やめろと言ってもやめないことを、やめさせる自身もなかった。
夕方、共有スペースのドアが開く。折り畳み椅子がびっしりと並べられ、壁際には紙コップのお茶と、誰かが持ち寄った焼き菓子。手書きの「ようこそ」の小さなカード。子どもようなのか、塗り絵と迷路の紙が沢山。会場全体は、あくまで和やかに見えた。
蛍光灯の白が天井から降り、床のワックスが不規則に反射する。窓ガラスの内側には、薄く二重の影が張り付いているように見えた。人が歩いていないのに、影がふたつ。楓が以前言っていた現象を、祐一も今、はっきり見た。
楓は入口でスリムな主婦二人に声をかけられ、気が付くと自然に輪に溶けていた。
「引っ越してきたばかりなんです。篠原と申します」
「まあ、ようこそ。七階……でしたよね?」
「そうです。ご挨拶ができておらずすみません」
本当に申し訳なさそうな顔で、楓は頭を下げる。
「いえいえ。ここは戸数が多いですからね。よくあることですよ。お気になさらず」
「そうですよ。奥様……どうです? 生活にはもう慣れましたか?」
「お陰様で」
優しい返しに、今度は表情がぱっと明るくなった。
「景色もなかなか良いでしょう」
「はい。光がよく入って、写真がきれいに撮れるんです。すっかり、気に入りました」
「それは良かった」
笑い声が響く。
焼き菓子の缶からクッキーが紙皿に移される音。
連絡先の交換が、当たり前の段取りのように進んでいく。『ママ友グループ』のQRコードが、スマホに吸い込まれる。楓の頬は明るく上気していた。結菜は子ども用のマットに座らされ、紙コップのジュースを両手で持つ。彼女の視線は空中に浮かぶ何かを追うみたいに時々逸れた。




