第十三話
疎外感を感じた祐一が結菜に話しかけようとした瞬間、拍手が起こり議事が始まった。管理組合の役員が前へ出て、事務的な語調で読み上げる。
「では、第一議題から始めます。ゴミ置き場の清掃当番表の見直しについて。現状は一階から順に……」
誰かが「うち、共働きなんですけど、朝の清掃を夜に替えるのは」と手を挙げ、別の誰かが「夜は虫が出やすいから」と納得させる。そこまでは、どこのマンションにもある風景だった。
――そんなときふと、後ろの席で小声が落ちた。
「ねえ、二階のなんとかさんち、たった二週間で入れ替わったんですって」
入れ替わり。聞き覚えのある言葉が、祐一の耳に触れる。
「二階なんて、エレベータ使わなきゃいいのに」
「それが、ノックにお子さんが出ちゃったみたいよ」
「あらやだ、それじゃあ仕方ないわね。でも、鍵かけておかなかったのかしら?」
「二個あるうちの、上の鍵忘れてたらしいわよ」
「じゃあ開けられちゃうものね、子どもだって」
聞くつもりがなくとも、言葉の羅列が無遠慮に殴りかかってくる。
「そうなのよ、うちも気を付けなきゃ」
「孫が来たときは、チェーンまでしておかないとね」
「落とし物はあった?」
「なかったって話よ」
「それなら安心だわ」
その言葉に、前列の女性が振り向いて「まあ、二階は珍しいわね」と拍子抜けするほど明るい声で応じ、周囲に控えめな笑いが広がる。そんな声も気にせず、議事は滞りなく回り続ける。「自転車の放置」「宅配ボックスの開閉」「夜間の騒音」。そこに、何の接着剤もないのに「入れ替わり」「ノック」「エレベータ」「落とし物」という語が、自然な頷きとともに溶けてくっついていく。
自分の耳に届いた言葉を確かめたくて、祐一は思わず身体を前に傾けた。楓がその腕をつつく。「やめて」という目で。彼女は笑顔のまま、紙皿のクッキーを祐一に差し出し、また主婦との会話に戻った。
「涼しくなったら、屋上で朝ヨガしない? 写真、絶対に映えるから。共有スペースも良いけど、やっぱり青空の下がお勧めよ」
「いいですね。子どもが学校の間なら行けそう」
控えめだが、精一杯の肯定で楓は答えていた。
「子どもがいるとそうなるわよね。わかる」
「なかなか一人の時間が取れなくて……。やることも多いし」
「ほんとよね。お手伝いさんほしいくらい」
「もっとのんびりしたいわよね」
一人の時間、のんびりしたい。楓の言葉に、祐一の心がざわついた。深い意味がないことはわかっている。あくまでも世間話。
それなのに、あのSNSに張り付いて、違和感しかない笑顔を貼り付ける楓の顔が浮かんだ。『あの時間を削ってしまえば良いのに』と。
議事は第二、第三と進む。なぜか出入口の近くで、エレベータの到着音が一度だけ鳴った。
――チン。
誰も動かない。音に反応したのは祐一だけで、すぐに彼も何でもないふりをした。音は、会議の進行の一部のように滑り込んで消えた。
配られた資料の最後のページに、小さな枠があった。「地域慣行に基づく共用部利用時のお願い」。行頭だけ太字だ。
深夜帯(22:00~翌5:00)に共用部をご利用の際は、必ず乗降の意思表示を明確にし、一言の挨拶を励行してください。
玄関の来訪に対しては、充分な確認を行い、みだりに応じないようご注意ください。
特に、マンションの人間が玄関ドアをノックすることはありません。
また、軽い会釈や敬語は、誰にでも好意的に見られますので可能な限り付け足すことをお勧めします。
深夜帯以外の挨拶も、特にできない理由がない限り推奨しますが、日の高い間であれば、違和感を覚えなければ気にせずとも問題ありません。
落とし物について、安易に拾わず最低三日は様子を見てから、その場に残っていた場合のみ、管理人室へ届けてください。
ただの規約のようだが、祐一には別の意味を持っているように見えた。
例えば、何かの儀式のような。
隣の男性が何気なく言う。
「ここ、伝統的にそうなんですって。古くからの、ね」
笑い皺だけが柔らかい顔に浮かぶ。
しかし、言っていることはおかしかった。このマンションは、新築だ。伝統は、どの部分にかかっているのだろうかと、祐一は彼の次の言葉を待つ。
「深夜帯は、ね。きちんと挨拶。うん、うちもやってますよ。コツを掴めば大丈夫」
目線が合わない。
「あぁでも、日中帯でも必要な時は結構教えてくれるから、助かりますよ。意外と大丈夫ですから」
意味がわからない。混乱する脳みその中で、ひとつだけ光が見えた。
――『乗りますか?』
引っ越してきた翌日、確かに祐一にだけ聞こえた声。
思い出す。――誰のものでもない、無機質な問いかけ。男女ともとれる、中性的でいて硬い声質。機械だと言われたら「そうだね」と言えるし「誰か乗ったんだね」と言われたら、それはそれで「そうだね」と答えてしまいそうな、何とも言えない音。
――それが今、隣の男性から放たれた言葉とともに、ゆっくりと糸になって結ばれていく。ようやく、あの声の主と、言葉の意味が殻の部分だけ固まった気がした。
会の途中、結菜が小さくしゃくり上げた。「おねえちゃん、かえってこない」と、椅子の上でこぼれる声。
祐一は結菜を自分の膝の上に座らせると、すぐ耳元で「大丈夫」と囁き、背中をさすった。座っていた椅子の上には、あの目のない男の落書き。もう、言われなくてもわかる。楓は遠くから「結菜、後でおやつ食べようね」と、支えるでもなく気にかけるでもない声を投げた。彼女は今、主婦の一団と「夏祭りの提灯」と「より映える写真の撮り方」について楽しそうに話している。
祐一はそんな楓に対し、憤りを感じていた。「そんなことをするよりも、楓のそばに来て頭を撫でてやればいいのに」と、喉のすぐそこまでてかかった言葉を、何とかもう一度呑み込む。背中をさすりながら、結菜が落ち着くのを待つ。睨むように楓を見てみたが、彼女が祐一と視線を合わせることはなかった。
その後は、娘の泣き声など誰も気に留めずに、恐ろしいほど順調に滞りなく会合は進んだ。
事務局の声が締めに入る。
「最後に、管理人さんから一言いただきます」
人の列が自ずと割れ、管理人が前へ進んだ。背筋はまっすぐで、作業着の胸ポケットに差したペン先が光る。彼は会場をゆっくり見回し、言葉を選ぶ間を置いてから、短く言った。
「ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です」
すっと、空気が重くなる。誰かが静かに頷き、誰かが目を伏せる。同意の波が、紙コップに注がれたジュースの表面張力のように、会場全体を薄く覆った。
「従うこと」が何を意味するか、祐一にはもうわかっていた。「ノック」それから「エレベータ」。しかし、こっちはわからなかった。
「忘れる、とは――?」
祐一は、気づけば立ち上がっていた。声は出た。けれども、周囲のざわめきの厚みがその音だけを吸い込んで、壁まで届かなかった。
管理人は微笑を崩さない。
「忘れる練習は、早いほど良いのです」
それ以上、彼は説明しない。だが、少し悩む素振りを見せて、一言だけ追加した。
「心配しなくても、みなさん自然と上手になっていきます。もちろん、あなたも」
誰かが拍手を始める。拍手はあっという間にホールを満たし、祐一の疑問は、薄い紙の間に挟まれて見えなくなった。
会合が終わると、皆が菓子のテーブルへ移動し、笑顔のまま紙皿を持った。
誰かが「うちも来月かしら」と冗談めかして言い、別の誰かが「いやいや、普通にしていれば大丈夫ですよ」と返す。「うっかりには気をつけないと」の言葉に「習慣にしていれば平気です」と声がかかる。笑いの弾み方に、軽さだけではない何かが混じっている。祐一には、その混じりものの正体が、喉の奥でひっかかったまま動かない。
「ご主人、どちらのお部屋?」と年配の女性に話しかけられた。「七階です」と答えると、「ああ、あの光の綺麗な廊下ね」と返ってくる。
「もしかして……七〇三号室にお住まいなのかしら?」
「そうです。よくご存じですね」
「えぇ、前の住人の方とはよくお話ししたのよ。お子さんたちが、まるで孫のようでね。楽しかったわ」
「……どんな方でしたか?」
聞かずともよいことを、つい聞いてしまう。祐一は、不安が拭えなかった。もしかしたら、自分たちの前に住んでいた人たちは、お隣さんと同じように――
「そうねぇ、ご夫婦は、とても仲が良かったと思うわ。それから、しっかりしている真面目なお兄ちゃんに、小さい子と遊ぶのが好きな妹ちゃん。赤いペアピンの良く似合う」
その言葉に、祐一は手に持っていた紙コップを、うっかり握り潰してしまいそうになった。
「赤い、ヘアピン?」
「……あら、嫌だわ。……知っているの?」
ついさっきまで和やかにおっとりと話していた女性は、目を吊り上げで祐一を品定めするように見据えた。
「い、いえ。娘が……赤が好きなので。同じだな、と」
嘘を吐いた。苦し紛れの、小さな嘘。
「ふふふ、そうなのね。ごめんなさい、何かあったのかと思ってしまって。何でもないわ、気にしないでね」
「はい……」
女性の表情は、元の穏やかな笑顔に変わった。




