第十四話
「ちなみに、その、七〇三に私たちの前に住んでいたご家族の名前は……?」
ここぞとばかりに、祐一は疑問を投げかけた。
「あぁ、確か……ええっと、何だったかしら?」
「覚えてらっしゃらないんですか?」
「忘れたほうが良いことも、忘れなければいけないこともあるのよ。管理人さんも、そう言っていたでしょう?」
女性の顔を見ると、本当に覚えていなさそうな表情だった。少なくとも、嘘を吐いているようには見えない。
「そうです、けど」
それ以上言いようがなくて、祐一は歯切れ悪くそう言った後、俯いた。
「そういえば、掲示板に貼ってあったわね。あなたのおうちのお隣さん。七〇二だったかしら?」
「あ、はい、そうです」
「お引越ししたみたいねぇ」
さらりと答える女性の言葉に、祐一は引っかかりを覚えた。『わざと、引っ越しとしたい何かがあるのでは?』と。
「急で、その、びっくりしました」
「そうでしょう? でもね、よくあるのよ。更新されたのね」
「……はぁ」
「よくある」というこの言葉。このマンションに来て、もう何度同じ言い回しを聞いただろう。
「それで、あなたはお隣さんのお名前、憶えてらっしゃるの?」
「それはもちろん」
言えなかった。
喉のすぐそこまで出かかっているのに、それ以上先に名前が出てこない。印刷された文字で、確かに隣人の名前を読んだ。苗字も、下の名前も。しかし、頭に浮かぶ名前は、ぼんやりした輪郭でそれ以上はっきりしなかった。名前が、文字が、わからない。
「どうかしたの?」
「あ、いえ……」
祐一は、「忘れてしまった」「覚えていない」とはとても言えなかった。
「大丈夫よ。でも、わかったでしょう? そういうことよ」
それだけ言って、女性はふらっと飲み物を取りに行ってしまった。
泣きそうになりながら楓のほうを見てみると、彼女は他の主婦たちと連絡先を交換し、手作りの小さなケーキを「よかったら」と渡され、嬉しそうに受け取っていた。『#マンションの輪』『#あたたかいコミュニティ』『#仲良しママ友』。彼女の頭の中に、今夜のハッシュタグがいくつも浮かんでいるのが、手に取るようにわかる。
疲れ果てた帰り際、エレベータの前で、いつも赤いリードの犬を連れているあの男性に会った。
「どうも」
「どうも。さっき、いいお話でしたねえ」
「今日は……いつもの相棒は、お留守番ですか?」
いい話に頷けなくて、祐一は咄嗟に話を変えた。犬の話に気をよくしたのか、男性は嬉しそうにしている。
「えぇ。流石にあの場へは連れて行けませんからね。今日は家内と留守番です」
男性は柔らかい声で言い、家へ帰るためにエレベータのボタンを押した。
「忘れる、ですって。確かに大事ですよ。ここでは、特に」
――チン。
扉が開く。男性は自然に「失礼します」と呟いて乗り込み、祐一たちに軽く会釈をした。祐一は、その一言が機械の内側で形を変えずに反響するのを、どうしようもなく意識してしまう。
さり気なく、楓も「失礼します」と乗り込んで、結菜も「おじゃまします」と言っていた。先に乗り込んだ三人が、まるで祐一の行動をテストするかのように、じっとこちら側を見ている気がした。
「失礼します」
心を無にして、祐一は言った。自分一人ではない。他の人間もいる。それがなぜかプレッシャーとなって祐一を襲った。同時に悔やむ。もう元には戻れなくなったことを。マンションの当り前を、家族の前で受け入れてしまったことを。
お風呂上り、楓は会合の集合写真や、差し入れのケーキを並べて投稿した。テーブルに置かれたマグカップの紅茶に、蛍光灯の白がきちんと落ちている。『#はじめての会合』『#ご近所さんと繋がる』『#安心』。予定していたハッシュタグの下に、矢継ぎ早に付けられた追加分。投稿してすぐに、通知音が、いつものごとく泡のように弾ける。
「ほら、いっぱい『いいね』きたよ」と、楓は画面を見せる。小さなハートが数字を増やし、コメントが並ぶ。『楽しそう』『素敵』『よかったね」『羨ましい』。
それを見せられて祐一は、何も言えなかった。辛うじて絞り出した言葉を、妻の顔を見ずに言う。
「良かったな」
祐一は寝る前、何となく楓のSNSのページを開いた。アカウントは教えてもらっていたし、今までも何度かチェックしている。しかし、このマンションに越してきてから、楓から見せられる以外は見ないようにしていた。何だか無性に、見てはいけないような気がしたからだ。
それを破って開いたページは白かった。写真の枠だけが残り、「この投稿は表示できません」の文字。再読み込み。変わらない。さっき確かに、楓は投稿したのに。反応があったのに。
「……消えてる」
ボソッと祐一が呟くと、楓は笑って肩をすくめた。
「バグだよ、きっと。最近多いんだって」
「報告しなくていいのか?」
「こんなの一個一個報告してたら、運営さん過労で死んじゃうよ。あ、バグじゃなくて、通信状況の問題かも」
「ネットの接続が弱い?」
「ここへ越してきてからだし」
引っ越しが契機なのは、あまりいい気分ではなかった。
「嫌なこと言うなよ」
「でもほら、昨日の朝の『#白い朝』も一回消えたけど、戻ったし」
「戻らないことも、あるのか?」
「さあ……ま、そこまで気にすることでもないでしょ。規約違反も何にもしてないし」
彼女は、それ以上興味を示さなかった。布団に潜り、すぐに眠ってしまう。
彼は、彼女が寝息の間にスマホを握り直す癖を思い出した。画面の中の世界の温かさに、彼女はもう守られているのだ。そこに、夫である自分の姿がなかったとしても。
祐一は自分の指で、楓のアカウントの古い写真を遡る。去年の誕生日。旅行。楓は「ここへ越してきてから」だと言っていたから、最近の投稿が抜け落ちているのかと思っただが、違う。
――いくつか過去の投稿も抜け落ちている。ただ確かに、数日前に見たはずの写真が、抜けた歯のように空白を晒していた。
今この画面をスクリーンショットに残そうとすると、保存された画像は真っ白だった。画面に一瞬、黒い文字だけが残る。『保存に失敗しました』。消えたのは彼らの記録か、目の前の証拠か。どちらも同じ意味を持つようで、違う種類の寒さが指先を刺した。
今日覚えた言葉。消える練習。忘れる練習。落とし物は拾わない。
相変わらず、要領を得ない。
リビングに戻ると、結菜がダイニングテーブルで新しい絵を描いていた。
最近、寝るのが遅くなっている。丸の中に、今度は細い線が一本、縦に引かれている。口にも見えるし、裂け目のようにも見える。
「誰?」
祐一が問うと、結菜は短く答えた。
「おじさん」
「どこで?」
「エレベータ。きょうも『しずかにね』っていった」
胸の内側に、冷たいものが落ちる。あのエレベータの中。自分と楓と結菜、そして、いつもの犬を連れている男性。それ以外に、誰かがいたとでもいうのか。
祐一は絵をそっとテーブルの端に置かせ、冷蔵庫にマグネットで留めた。並ぶ絵の数が、また一枚増える。
いつの間にか、冷蔵庫は結菜の画廊になっていた。描いたものはここへ。中身が何であっても。
そうして、とりあえず並べられた絵は、ときどき楓も見ているようだった。
だからといって、何か感想を述べるでもなく、質問するでもなく、ただ眺めているだけだった。少なくとも、祐一がその姿を見たときは。
気になるのは時間帯で、朝は見向きもしないくせに、夜になると急に、絵の前で立ち止まる回数が増える。
それがどうとは言えないが、祐一の中で黒い線が絡み合うには十分な出来事だった。




