第十五話
――こうして、いつも通りやってくる朝の白は、もうとっくに見慣れたはずなのに、今日のそれは少しだけ濃かった。
南向きの窓辺で、楓がフィカスの葉の角度をまた一度だけ変える。もう何度も見た姿。未だに納得がいかないのなら、初めのダンボール箱の山みたいに、フレームの外へ押し出してしまえば良いのに。そう思っても、祐一は口には出せなかった。
楓がスマホ越しに覗く世界は、光を選ぶことができる。彼女は真面目な顔をして、マグカップの取手を指で三ミリ回し、テーブルランナーの皺を爪先で伸ばすと『#白い朝』『#すきまの光』『#陽の当たる植物』と入れて投稿した。
「うん、いい感じ」
どうやら昨日の投稿は、朝知らないうちに戻ってきたようだ。笑って教えてくれた楓の表情にほっとする。これで投稿がもし戻ってこなかったら……そんなことは考えないことにした。
結菜はランドセルの中身を全部出して、底に眠っていた消しゴムの角を指で撫でた。何個か出てきた消しゴムの中で、ひとつだけ昨日よりも角が小さくなっている。「どっかいっちゃった」と言うたびに買った消しゴム。おそらく、すべてランドセルの底に張り付いていたのだろう。
「パパ、きょう、こうえん、いける?」
「あぁ、いいぞ。今日は午後途中で帰ってくるからな。結菜が学校から帰ってきたら、一緒に行こう」
返事をしながら、祐一は自分の胸に張り付く音を、剥がそうとしていた。
――チン。
呼んでいないのに耳の奥へ落ちてくる乾いた合図。昨夜の会合の余韻が、白い朝の中でまだ続いている。
従うこと。忘れること。拾わないこと。
祐一は洗面所で顔を洗いながら、昨日の話を思い出していた。
『それで、あなたはお隣さんのお名前、憶えてらっしゃるの?』
楓には聞けなかった。「お隣さんの名前、何だったっけ?」と。
初めて名前を見たときに、頭の中で何度も呟いた。何度も何度も、壁に貼られた紙を見ながら。これは、祐一が記憶を定着させるためによくやる手法だった。それなのに、あのときは間違いなく覚えていたのに、今はもう忘れてしまっていた。それは「忘れてしまった」というよりも、まるで「初めからなかった」かのようだった。
従うことはまだわかる。エレベータに乗り込むとき挨拶する。これは絶対に従うことだ。従う相手は……おそらく、あの初めに聞いた声の主。もしくは、このマンションを支配する者。いささかぶっ飛んだ話だが「人間ではない何か」を、こうも感じてしまった後では、それが一番しっくりくる。悲しいことだが、祐一は疑いが拭えないままだった。
そして、拾わないこと、は、文字通り「拾わない」のだ。――しかし、これが厄介で、祐一はもう拾ってしまっていた。「黄色いクレヨンの欠片」と「赤いヘアピン」だ。前者はまだ良い。拾ってすぐに、その場へ戻した。問題は、赤いヘアピンのほう。これはまだ、この家にある。「おねえちゃんにかえす」と、結菜が持っていってしまった。探しても見当たらない。見つけられない。
「……どうするべきなんだ?」
誰にもこの疑問をぶつけられない。
「ねえ、今度ちょっとだけやるって話になったんだけど、屋上での朝ヨガ、参加しようかな。まだまだ暑いけど、早い時間なら気持ち良さそうだし」
楓が口を開いた。視線は、スマホに向かったまま。
「……行くのか?」
「行くよ。ここでちゃんと暮らしたいもん」
ようやく、楓と目が合った。彼女の笑顔は、祐一からの同意を求めていない笑顔だった。
彼女は既に、この場所の歩き方を覚えつつある。反対に、祐一の足元は、裏側に沈みかけている。
いまいち気持ちが上がらない。朝なのに、どっと疲れが溜まっている気がする。しかし、仕事へは行かねばならない。
「いってきます」
玄関から声をかけてみると、誰の返事もなかった。
祐一はもう一度言うこともなく、そっとドアを閉めた。
エレベータの前を通り過ぎると、箱はいつも通り祐一を迎えようとした。まるで挨拶をしてくれているようで、彼は一瞬嬉しくなったが、自分の考えに怖くなって首を振った。
箱の中野数字は何も示さないのに、内側だけが扉の形に向かって膨らむ。包み込むような圧迫感。それを振り切るように、祐一は階段へ向かった。踊り場の窓に、二重の影がまた浮かぶ。影の薄いほうが、祐一の動きに僅かに遅れてついてきた。
集合ポスト前の掲示板には、昨夜の議事録がもう貼られていた。事務局の手際の良さは、ほとんど儀式の段取りの正確さに似ている。「ゴミ置き場の清掃」「駐輪場の施錠」「共用廊下の私物」。最後の行だけフォントが僅かに濃い。
――ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です。
足を止めなかった住人が、歩きながらほんの僅かに頷く。やはり、頷く角度はほとんど同じだった。機械化されたような、いつもの、光景。
今日はいつもより日差しが強い気がした。
マンションから外へ出たときは、ふっと空気が軽くなる。それなのに、今日の外の空気は、やけに重心が低かった。出社前に、いつものコンビニでアイスコーヒーを買う。プラカップに落ちる黒い雨の音。まだらに広がるミルクの白。レジの青年がふと顔を上げ、祐一の顔を見て、それから何気なく言った。
「最近、よくいらっしゃいますよね。この近くですか?」
「ええ。そこのマンションに」
「あぁ……最近更新が多いですもんね……」
青年の表情が、一瞬だけ凍って、それから何でもない笑顔へ戻る。戻った、はずなのに、戻り切れていない何かが彼の目の端に残った。話題はそれきり終わり、釣り銭がコインの重さだけで手のひらに置かれる。
コンビニを出て、自分の住んでいるマンションを見た。立地にしては大きなマンション。生活するには、場所も環境も申し分ない。勝ち組……とは言わないが、羨まれてもおかしくないと思っていた。それなのに、受ける視線はなぜか差別的で、懐疑的だ。
気を取り直し、電車に乗る。いつものルーティン。だが、今日は誰かに見られている気がした。
会社では午前の会議が一本、午後にもう一本。午後の会議が終われば帰宅。会議の内容は薄っぺらいのに、疲労の色が濃く滲む。昼休みにぼんやりとスマホの画面を眺めると、昨夜の会合の集合写真が楓のアカウントに載っていないことに気が付いた。確か、写真を撮って、家へ帰ってすぐ載せていたのに。代わりに、空白の四角だけがいくつも並ぶ。
リロード。何も変わらない。
スクリーンショットを撮ろうとすると、保存された画像は真っ白だった。『保存に失敗しました』の黒い文字だけが画面の中央に浮いている。またこの文字。昨日見えたものが、今日も見えるとは限らない。
会議を二本終えて帰路へつく前に、祐一は文房具店でノートを買った。罫線の薄い、表紙の硬いもの。ざらざらとした紙質は、ボールペンの引っ掛かりがいい。単純に好みで決めた。
家に戻るなり、ダイニングテーブルにそれを開き、日付を書いて箇条書きを始める。
・七〇二――退去掲示。名札の消失。
・空になった室内。家具跡、生活痕なし。
・落ちていた黄色いクレヨンの先、赤いヘアピン。
・会合:「従う」「忘れる」「拾わない」。深夜の挨拶の励行。
・二重の影。
・エレベータの「迎える」気配。
・結菜――「おじさん」「しずかにね」。
・楓――過去投稿の消失(バグ?)。ママ友コミュニティへ馴染む。
ペン先が紙を撫でる音が、やけに頼もしく感じた。かりかりと音を立てて、滑るように紙へと載るインクの黒。指が覚えている線の強さで、紙の繊維に、今日の断片を押し込んでいく。忘れることを薦められた場所で、記すことを始める。忘れない。わすれない。逆らい方が他に見つからない。
「何それ、日記?」
「……記録。仕事みたいなもの」
「ふーん。家でやるの? 会社で書けば?」
「……場所が違うからいいんだよ」
楓の言葉に、祐一は少しむっとしながら答える。
「そんなもの? 家庭に仕事、持ち込まないでね?」
「それは、別に」
しっかりと顔は見られなかった。楓はソファに腰をおろし、ママ友グループの通知を追っている。屋上の朝ヨガの話が、一気に具体化しているらしい。あの誘いはほんのお遊びだと思っていたが、思った以上にみんなやる気があったようだ。『#朝の風』『#青空の下』『#澄んだ色』。彼女の笑顔は軽く、よく響く。
「ねえ、明日の朝、屋上、許可取れたって。行ってくるね。日の出の時間、ちょうどいいみたい」




