第十六話
このマンションへ越してきてから、屋上へはまだ一度も行ったことがなかった。普通はきっと、そういうものだと祐一は考えた。
「あぁ、わかった。気を付けて」
「気を付けることある? マンションの中なのに」
だからだよ。
浮かんだ言葉はすぐに飲み込んだ。言えない。言わない。余計なことは不要。神経を逆撫でするだけ。それくらいわかっている。
「朝早いし、寝ていていいわよ。結菜も寝かしておいて」
「あぁ」
「戻ってきたらご飯作るから」
「いや、明日は俺がやる」
「そう? じゃあ頼んだわよ」
祐一の胸を小さな針がひとつ刺し、抜けないまま残る。
屋上の鍵は管理人が持っている。許可が、すぐに出た。朝ヨガの参加者は二十名。マンションの規模から考えれば少ないが、聞いた瞬間『やけに多いな』と思った。子どもは不可。大人のみ。『落とし物は拾わないでください』『エレベータ乗降時は一言ご挨拶を』。念を押すように、メールでも飛んできた昨日の議事録と紙。添付のPDFの末尾に、小さな但し書きが淡々と並んでいた。
ノートの次の行にそう書き足す。ペン先の重さだけが、心の皺を丁寧に撫でた。
「ただいま! パパは?」
ぱたぱたと足音を響かせながら、結菜がリビングへ入ってくる。帰ってきたことに、二人は気付いていなかった。この音で、ようやく気付いた。
「おかえり。パパなら帰ってきてるわよ」
「お帰り結菜」
「パパ! パパ! はやくこうえんにいこ! がんばって、はやくかえってきたんだから!」
祐一の顔を見て、ランドセルを放り出した結菜。サラリーマンみたいな言葉に、祐一はくすりと笑った。約束を守るために、彼はラフな格好へ着替え水筒にお茶を入れる。
「今が一番暑い時間帯だからな。ちょっとだぞ」
「はーい!」
待ちきれない結菜が、先に玄関で靴を履く。
――こん、こん、こん。
その音は、祐一の耳まで届いた。
水筒のふたを閉める手を止めて、じっと玄関を覗く。そして、努めて明るく大きな声で言った。
「結菜! 帽子を忘れているから、今すぐこっちに来なさい!」
返事はせずに、履いた靴をきれいに並べて結菜は戻った。顔は笑っていない。瞳は、墨の色。
「ママがよういしてくれたのに」
そう言って指さしたのは、ソファに座っていた楓ではなく、ドアの閉まった玄関だった。
開けられない。祐一はそう思っていた。ノック三回。日常茶飯事となったエレベータへの挨拶に比べて、思わず久しぶりだな、とも思う。
今はまだ、外へ出られない。出てはいけない。応じることになってしまう。しかし、結菜の表情は……。
「今日は特別に、シャボン玉でもしようか」
何とか絞り出した、苦肉の策。「今この瞬間、家から出ないため」の、自分のための案。
「いいの?」
「あぁ。あの、魔法のステッキみたいなシャボン玉。あれにしよう」
「ピンクいろの?」
「そうだよ。どこにしまったか、覚えてる?」
「おぼえてる! ゆいなのへや!」
精一杯の時間稼ぎ。だが、意外にこのあがきは効く。
とたとたと部屋まで走った結菜が、がしゃがしゃという音を何度も鳴らした後、誇らしげに魔法のステッキを掲げながら戻る。それまでの間、祐一はノックの音がまた鳴らないか耳を澄ましていたが、幸いなことに一度も鳴らなかった。
「パパ! あったよ!」
「よかったよかった」
「じゃあもう、いってもいい?」
「待ちなさい、タオルを持って。それからほら、帽子」
「はーい」
『これは、ノックの音に反応してドアを開けるわけではない』と、強く念じながらドアノブに手をかけた。結菜が帰ってきてすぐ。鍵は開いている。ゆっくりと下げると、呆気ないほど軽く指が落ちる。『これなら、大丈夫』。祐一は深呼吸して振り返り、楓に言った。
「いってきます」
公園でシャボン玉を膨らまし、砂場の周りを走ってお茶を飲む。水鉄砲を持ってきていた小さな子とおもちゃを交換し、しばらく遊ぶ。その子にさよならをして帰路に着くころ、シャボン液は空っぽになっていた。よく遊んだ証拠。
なんだかんだ、公園へいくと滞在時間は長くなる。「あとちょっと」の言葉。それがわかっているから、あえて早めに言う「もう帰るよ」の合図。
夜。夕食の匂いがまだ部屋に残っている時間、廊下の向こうでエレベータの到着音が一度だけ鳴った。――チン。音は単独で存在し、誰もそれに応えない。開く音がしない。閉じる音もしない。どうして鳴っているのかわからない。……怖いのは、慣れ。祐一は椅子を引き、廊下へ出た。目的地はエレベータ前。
開きっぱなしのドアの向こうで、見えない誰かが内側からこちらの存在を計っているような視線を感じた。
これが「いつものことだ」と思うくらいには、祐一は慣れてしまっていた。
「行かない。進まない。足を出さない。考えない。考えない考えない。考えない考えない考えない考えない考えない」
誰もいないとわかっているから、あえて声に出して呟く、その場で足を動かさないでいると、箱はふっと力を抜いた。何事もなかったように、張り詰めていた共用廊下の空気が平らに戻る。
祐一は踵を返し、玄関のドアをそっと開けた。居住空間と外部を隔てるためのドアが、こんなに頼もしく見えるなんて。
開かなければ、何も入れない。
音も、人も。
いつの間にか、絵絵の中での会話は減った。自分の発言権が減って、楓と結菜の会話は、聞いている側からすると微妙に噛み合っていない。それでも、家の中の空気はまだ回っていた。
それでも、寝るときは一緒だった。
――隣で静かに音を立てるふたつの寝息。眠れない夜が薄く延び、日付が変わる。深夜二時を僅かに過ぎたところで、寝ることを諦めて祐一は玄関のスニーカーを履いた。ノートとペン、小さな懐中電灯をポケットに入れ、ドアを静かに開ける。鍵が噛み合う音だけが、こちらの側に残った。
廊下は白い。夜なのに。非常灯の緑が海底の光のように揺れている。曲がり角の手前で、一度だけ足音がした。祐一が角を曲がると、足音は既に消えている。足音だけが「誰かがいた」ことを証明し、肝心の本人はどこにもいない。
エレベータホールの片隅に、白い子どもの靴が片方、ぽつんと置かれていた。マジックテープの端が少しほつれている。サイズは結菜よりも小さい。だから、もっと小さな子どもの物。手に取りかけて、祐一は指を止めた。昨夜の資料の注意文が、胸の前で紙のようにはらはらと浮かぶ。
『落とし物について、安易に拾わず最低三日は様子を見てから』
靴のそばに膝を落とし、腰のノートに時刻を書き込む。「00:18。白い靴、左。マジックテープに毛羽? 小さな砂粒がソールに付着。つま先に汚れあり。記名らしきものあり、但し掠れていて読めない」。今この瞬間を記すことしか、彼にできることはない。靴は、光の中で自分の存在を誇示しない。ただ、そこにある。あって、待っている。
ふとエレベータをのほうを見ると、今どこにいるのかを示す表示盤が、一瞬だけ『B』を示した。
祐一は見逃さなかった。見逃せなかった。
地下などないはずなのに、目に見えない段差に膝が沈むような気がして、祐一は咄嗟に息を止める。表示はすぐに『6』に戻り、やがて『7』で止まった。――チン。扉は開かない。開かないのに、開いたときのように空気がこちらへ流れてくる。
「……今は乗りません。階段を使います。健康のために」
喉の奥で言葉が溺れ、空気へ溶けた。言い終えた瞬間、箱はふっと肩の力を抜く。開かない扉の向こうで、小さな同意がひとつだけ生まれて、すぐに消えた。




