第十七話
宣言通り、祐一は階段を下りる。地面の擦れる音が夜に溶け、街の明かりがいやに眩しい。向かったのは管理人室。管理人室の小窓は暗い。ブラインドの羽はぴたりと揃えられ、隙間はない。誰もいないのに、開けられたままのブラインド。
窓の外から見える棚に、避難経路図が立てかけられている。白い紙に太い線。それは外に向かう矢印ではなく、内側へ戻る線のように見えた。玄関、エレベータ。太く、濃い。その他の廊下は細い線に過ぎず、階段の線は途中で力を失っている。祐一はガラス越しに、その図へ目を凝らした。懐中電灯を点けかけて、やめた。明るくしすぎると、見えなくなるものがある。
ただの図面に見えた。だが、祐一は一人考えていた。これは単純な図面ではなく「何かの通り道のようなもの」が描かれていると。
ノートに書く。
『避難図の線の濃淡。玄関/エレベータが太い。一瞬移ったBの文字。マンションに地下なし』
ペン先が紙へ落とす音は心地よく、紙は受け止めっぱなしで何も言わない。自宅への帰り道は、また階段。自分の存在が、このマンションの中で誇張される。
帰り際に、まだ残っていた白い靴をもう一度見る。誰も触れていない。触れていないはずなのに、マジックテープの位置が僅かに変わっている気がした。これも記す。「00:31。マジックテープの位置、微妙に移動」。根拠は薄いが、記すことでしか確かめられない。
部屋へ戻ると、楓は寝息を立てていた。手の中のスマホは画面を下に向けて落ちている。結菜は枕元に黄色いクレヨンを置いていた。お気に入りのクレヨン。お気に入りの色。
祐一はノートを閉じ、ペンをそっと置いた。
上手く眠れず、疲れのとれない翌朝。昨日使ったノートのページを開くと、文字のいくつかが薄くなっていた。書いたはずの「避難図の線の濃淡」の行が、鉛筆で書いた文字を消しゴムで半分だけ消したときのような薄さになっている。昨夜確かに強く押し込んだ筆圧の跡は残っているのに、インクだけが後退している。爪で紙の裏を軽く撫でると、圧だけが指先の腹へ確かに書いたことを訴えてくる。
「忘れる練習は、早いほどいい」
管理人の声が、紙の白い地の向こう側から聞こえた気がした。消えるのは記録か、記憶か。どちらであっても結果は同じだ。祐一は、消えかけの行をなぞる。ゆっくりと、何度もなぞる。インクは戻りきらないが、線の存在だけは祐一のために濃くなった。
楓は既にいなかった。ヨガへ向かったのだ。しかし、時計を見て祐一は首を傾げた。日出のころに行ったのならば、もう帰ってきてもおかしくないはず――と。時計の針は午前九時を回っている。今日が休みで良かった。
顔を洗い着替えた後、朝食の準備へ入ろうとした瞬間、結菜が目をこすりながら起きてきた。
「おはよう結菜」
「パパ! おはよう!」
そう言ってから、結菜は大きなあくびをひとつした。
「ご飯すぐに作るからな」
「うん! ねぇパパ、きょうのえ、みたい?」
「どんなのを描いた?」
「えっとね、エレベータ」
結菜のページには、以前よりも立体的な箱が描かれていた。四角い線の内側に、黒い丸。丸の中はやはり空白のまま。四角の上に細い線で、半端な三角形が載る。屋上の端に並ぶフェンスだと、すぐに気付く。子どもらしい、どこかが欠けているデザイン。結菜の指が、その線をなぞる。
「ここでね、ママのおともだち、やるんだって」
「あぁ、そう言ってたな」
屋上の朝ヨガ。まだ戻らない妻。エレベータで上がる。鍵は管理人。挨拶は必須。記号のように並ぶ段取りが、脳の裏側をすべる。
「おとなりのおねえちゃん、きのうもいなかった」
「……そうか」
「でもね、エレベータのなかで『またね』っていった」
「……そうか」
祐一の耳は、もう当たり前のようにその言葉を受け入れた。
出来上がった朝食は、フレンチトースト。結菜と楓の大好物。先に結菜へ食べさせながら、戻らない妻にメッセージを残す。返事のないまま、祐一は自分のぶんを平らげた。そのまま時間だけが過ぎて、午後二時を回ったころ。玄関の鍵がガチャリと音を立てた。
「ただいま」
「ママ! おかえりなさい!」
楓だった。
「なぁ、いったい今までどこにいってたんだ? 連絡もなしに」
感情が表へ出る。怒りと呆れが声に乗ったが、楓は悪びれるわけでもなく、あっけらかんと答えた。
「五階の奥さんに、朝食昼食誘っていただいたのよ! 仲良くなれて嬉しい」
「それならそうと、一言連絡くれればいいだろ? 朝食作って待ってたのに」
「それくらいいいじゃない。そんなことより、見てよこの写真。素敵でしょ?」
「そんなこと」と、軽んじる言葉が祐一の胸を抉る。楓が押し付けたスマホの画面には、まるでビュッフェのように並んだ様々な料理と、アフタヌーンティのように盛りつけられたスイーツの数々。
「ほんとに素敵だったわ。仲間に入れて幸せよ、私」
うっとりと目を細める楓に、それ以上祐一は何も言えなかった。
置き去りにされた白い靴は、その日の昼も夜も、同じ場所にあった。二日目。拾わなかった。拾わないという行為が、立派な意志であることを初めて知る。拾えば落とし物。拾わなければ、ここでは「規則」。三日目の夕方、靴は消えていた。消えた、というよりも、最初からそこにはなかったみたいに、床の白だけが均一に続いている。跡はない。砂粒の集まりもない。ノートに「白い靴――三日目の夕方に消失」と書く。書きながら、自分の指の体温が紙の地にじわりと染みるのを感じた。
その帰り道、七階の曲がり角で、また二重の影が重なった。薄いほうの影が僅かに遅れて、濃いほうへ吸い込まれる。吸い込まれる音はない。祐一は足を止め、「影が厚い時は、動かないべきか」とノートに短い一文で書いた。誰かが言っていた「コツ」という言葉が、ようやく意味を持つ。理屈はない。習慣だ。儀式だ。馴染みのない言葉が、当然のように心に浮かぶ。それもここでは、馴染みある言葉なのだと知らせるために。
「こんばんは」
背後で声がして、ハッと振り向くと、いつもの犬のリードを持つ男性が立っていた。なぜか犬はいない。赤いリードだけが、飼い主の手の中で細く光る。
「こんばんは」
平静を装って挨拶を決める。
「こんばんは」
「白い靴、なくなりましたね」
「……見てましたか」
「たまたま、目に入って。なくなるものなんですね」
「ええ。三日目が過ぎたら、だいたい、ね」
男性は柔らかく笑い、そのまま廊下の奥へ歩いていった。すれ違いざまに、祐一の肩に空気が触れる。触れたのは、空気だけだ。なのに、疑問が彼の脳裏を過ぎる。
ところで、あの人はどの部屋の人だったっけ……?
その夜、楓はキッチンで明日の朝ヨガの準備をしていた。明日も休み。水筒、薄手のタオル、レギンス。鼻歌に混じって、彼女の楽しげな独り言が、白い壁に軽く跳ね返る。
「明日も鍵は管理人さんが開けてくれるんだって。五分だけエレベータが混むから、早めに降りて並ぶのがコツなんだって」
「コツ?」
「みんな言ってたよ。あとね、乗る前にちゃんと挨拶。忘れ物しない。落とし物は拾わない。深夜に玄関は開けない。……まあ、もう普通だよね」
どこが普通だ?
喉元まで出かかった言葉を、祐一は飲み込んだ。今、これを言っても、楓には届かない。だって、自分だって実践している。いや、させられている。これは強制だ。しなければ、未来が見えない。届かない言葉は、口にした瞬間から空気の白さに溶けていく。楓は画面の向こうから届く『楽しみ』『いいな』『羨ましい』の表面的な文字列だけを、確かに受け取っている。そこに祐一の言葉は混ざらない。
「……今夜、廊下が静かだったら、少しだけ見てくる」
「また? ほんと、臆病なんだから。怖がってばかり。そんなの見にいって何になるのよ」
「ただ、夜が心配なだけだよ」
「何も起きてないじゃない。ホラー映画の見過ぎ? そっちのほうが気味悪いわよ」
冷たい目。言い返す言葉を準備できないうちに『怖がり』『弱虫』『意気地なし』のラベルが脳の表面に貼りつく。剥がせない。剥がそうとすると、下の脳みそごと持っていかれる。
「さ、結菜、歯磨きしよう」
楓が声をかける。結菜はスケッチブックを閉じ、クレヨンをしまった。赤いヘアピンは、今日も探せなかった。あのピンはどこにあるのか。ポケットに指を入れかけて、祐一はやめた。あのとき拾い上げた赤が、持ち主を探しているように思えて、ぞっとした。




