第十八話
会話のない翌日。気まずい空気だけが、祐一と楓の間をねっとりと流れる。結菜は気付いていない。いや、気付かないふりをしているのかもしれない。どちらも平等に声をかけた。楓が早起きして屋上の準備をする。髪をゴムでまとめ、顔に日焼け止めを塗る。水筒に冷たい水を入れる。結菜は布団の中で、目だけを開けていた。
「ママ、もうおきるの?」
「うん。すぐ戻るからね」
「おくじょう?」
「当たり」
玄関で、楓がスニーカーの紐を結ぶ。祐一は、リビングの窓から朝の白い光が滑り込むのを、黙って見ている。起きてきた結菜が彼の袖を引いた。
「パパ。きょう、ママが「しずかに」って、いったら、どうする?」
問いは、祐一の胸をまっすぐ貫いた。返事が、口の形になって出ない。
「大丈夫。……大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように言うと、結菜は小さく頷き、祐一の胸に顔をうずめた。楓は鏡の前で最後の角度を確かめ、笑顔を作る。凝り固まった笑顔は、写真の中ではどれも同じに見えるのに。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
形式的な、心のない挨拶。ドアが閉まる。蝶番が、ごく小さな音を残した。普通の音。生活の音。祐一は、その普通を胸の中央で掴み直す。掴んだ手に、ノートの角が触れる。
廊下の向こうで、エレベータの到着音が――チン――と鳴る。また聞こえた気がした。「――乗りますか?」の声。男女ともつかない、中性的で硬い声。あの声には、楓が答える。「失礼します」と。そのはずだ。祐一は、玄関のドアへ視線を移さない。移さずに、ノートを開く。
書きながら、祐一はあることを思い浮かべた。このマンションを知るためには、まずマンションの図面がいる。
避難図は、強調だけを教えてくれた。次は、その奥だ。一瞬だけ映ったBの文字が、祐一の頭から離れない。『このマンションには地下がある。隠さなければならない、表には決して出てこない地下』が。それが何をどう通すための装置なのか。なぜ用意されたのか。
交差するのはきっと、あの挨拶。誰が、いつから、どこへ向けて。玄関。エレベータ。太い線。薄い線。紙の上の線と、建物の中の線。すべてを上手く重ねなければならない。
祐一は、ゆっくりとページに書く。
――マンションの設計図を手に入れる。
線は、太く、濃く引いた。インクの黒は、今のところは退かない。窓から差し込む白い朝が、紙の上で一度だけ光った。彼は胸の奥で、文字を固く結び直す。
耳の奥で、遠くのどこかで水の細く落ちる音がした。廊下のどこかで、二重の影が重なって、ひとつになった。新しいページの端に、薄い指の跡が一瞬だけ残り、それもすぐに白へ溶けた。
昼、掲示板に見覚えのない紙が増えていた。
――屋上開放 明後日 午前五時半~六時 参加者は挨拶を励行し、落とし物を拾わないでください。
紙は新しかった。ヨガの誘いだ。二日続けて見て、好評だったのだろう。しかし、この貼り紙を見るために、誰も足を止めない。止めないが、誰もが一瞬だけ視線を落とし、頷いた。頷く角度は、いつ見てもほとんど同じだった。
そうして、その姿を見て祐一が思うことも、いつもと同じだった。
『よくあること、だと彼らは言う。……だが、これはきっと、言葉の裏に決定的な何かがあるはずだ。知られてはいけない、見てはいけない何か、が』
祐一は、エレベータの前を通り過ぎ、階段へ向かった。踊り場の窓に、二重の影がまた浮かぶ。影の薄いほうが、祐一の動きに僅かに遅れてついてきた。彼は階段を一段のぼるごとに、心の中で繰り返した。「忘れない。記す。――そして、次は図面だ」と。
白い光が、階段の踊り場で一度だけ濃くなる。濃くなって、すぐに薄くなった。祐一はノートを胸に抱え、静かに息を吐いた。深く、長く。薄い紙の上の線が、彼の息を吸い込んで、微かに震えた。
次の朝の白は、いつも通りに均一で、机の上の紙だけを選んで明るくした。カーテンは片側だけ少しずれて、布の端から覗く空の青はまだ眠そうに暗い。フィカスの葉は同じ角度で光を撥ね返し、葉脈の一本一本がくっきりと浮かび上がる。食卓に置かれたマグカップの取手は五ミリだけ右へ回り、昨夜と確かに違う位置を示していた。
まだ、起きてこない楓。それに気づいた瞬間、祐一は自分が動かしたのだろう、と無理やり納得させる。それ以上考えると、一日の出発点が不意に音を立てて崩れそうだった。
と、そのとき、冷蔵庫のモーターが低い唸りを上げた。一定のリズムを刻んだかと思うと、途中で息を止めるみたいに途切れ、また再開する。それを合間に、コーヒーメーカーからぽとりと一滴が落ち、黒い液面に波紋を広げた。祐一は耳を澄ませたが、波紋の音など聞こえるはずもない。ただ、聞こえないはずの音を探してしまう自分に、うっすらと苛立ちが募った。
しばらくして起きてきた楓は、パジャマ姿のままソファに腰を下ろし、スマホの画面を指でなぞっていた。スワイプする指の軌跡が朝の光を遮り、リビングの空気を細かく切りわけていくように見える。画面に映るのは、昨夜投稿したばかりの写真の『いいね』の数。楓は時折、ほんの少しだけ光のない笑みを浮かべるが、その笑みは目の奥に届かず、表面を撫でるだけだった。
昨日は写真を撫でるように見ていたのに、今日は一枚も残さない。このマンションに越してきて、ルーティンから初めて外れた楓を、祐一は訝しんだ。だが、訝しむだけで何も言わない、言えない。そして、代わりに写真を撮ろうとしてやめた。
結菜はランドセルを床に置き、底から消しゴムをふたつ取り出した。角のすり減り方をじっと確かめ、どちらを学校に持っていくか真剣に悩んでいる。新品に近いものは「強い消しゴム」、すり減ったほうは「弱い消しゴム」と呼んでいるらしく、小さな声で何度も「どっちが勝つかな」と呟いた。
消しゴムの強さよりも、祐一は消しゴムの数を気にする。まだ底に残っていたのか、と。どちらを持って行くかの勝負は「弱い消しゴム」が勝った。「強い消しゴム」は結菜の手によって、再びランドセルの底へ落とされる。
祐一はリビングの端に座り、新しく買ったハードカバーのノートの最後のページに日付を書いた。最初は使った。よく考えて、今日は最後の出番。ペン先を下ろすとき、ほんの僅かに紙が震えた気がして、手を止める。もちろん紙は新品だ。震える理由はない。だが、白紙の表面が呼吸をしているような錯覚が胸の奥に残り、息を整えるのに数秒かかった。
『このマンションへ越してきてから、こんなことばかりだ』と、頭の中の祐一が言う。「うるさいな」――そうぶっきらぼうに呟いても、誰も気に留めなかった。
彼本人も、どうでもよくなっていた。今はタダ、とにかく図面がほしかった。
――先日、管理人室の奥に見た避難経路図が頭から離れなかった。線の強弱が極端で、玄関とエレベーターだけが太く濃く描かれ、その他の廊下や階段は途中で力を失った鉛筆のように細く薄い。「避難経路」を示す図なのに、外へ向かう矢印より、内側へ戻る線のほうが堂々としていた。まるで「外へ出す」ためでなく「呼び戻す」ための設計図のように。
「今日の帰り、管理人室に寄ってみる」
祐一が声をかけると、楓は画面から目を離さずに「うん」とだけ返した。その声は軽く、弾むように聞こえたが、よく聞くと砂を擦るようなざらつきが混じっていた。
代わりに、結菜が顔を上げた。
「パパ、きょう、エレベータ、すぐくるかな」
「……来なくていいかな」
祐一は反射的に口にした。すぐに後悔する。だが楓は鼻で小さく笑った。笑いは短いが、空気に小さな亀裂を残した。




