表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
開かせるもの  作者: 三嶋トウカ
第三章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/42

第十九話


 ――会社を早めに出た。仕事の内容は頭に入っていなかった。

 そして、パソコンの画面を閉じたとき、自分の指がぴくぴくと震えていたことに気づいた。百均でコピー用紙とトレーシングペーパーを買う。包装された紙の束は意外なほど重く、腕で持ち替えるたびに微妙なずれを感じた。


 管理人室の小窓は開いていた。薄いブラインドの羽は一本だけ曲がり、外の光を不規則に切り取っている。中では作業着姿の管理人が、机の上のバインダーを左右に動かしていた。その仕草は無駄がなく、何度も練習した作業のようだった。


「すみません。竣工図、閲覧ってできますか」


 祐一はできるだけ穏やかな声を作った。

 管理人は目だけを動かした。


「どうして?」


 余裕のない声。そのたった四文字の質問に言葉が詰まる。


「好きなんです、ああいう図面。自分の住んでいるマンションも、見てみたくて。無機質な線が沢山あって、面白くないですか? 間取りも好きなんですけどね、気軽に見られないほうが、何だかそそられるっていうか。きっちりかっちりしたほうがより良いんですよ。わかります?」


 覚悟を決めた嘘は、舌をなぞって意味を紡ぐ。饒舌という言葉がピッタリなほど、すらすらと文字が並んだ。


「……竣工図は保管庫に。原本の閲覧は不可。写しは管理組合の承認が必要です」


 想定内の答えだった。祐一は頷き、別の角度から攻める。


「初回販売時のパンフレットや、重要事項説明書は残っていますか」


 管理人はほんの僅かに眉を動かし、次の瞬間、引き出しから薄いファイルを取り出した。透明ポケットの中に各階の平面図が挟まれている。


「こちらに残っているのは避難経路図と共用部の平面図、それと点検記録だけです」


 言いながら、カウンターの上にファイルを置いた。コピーは一枚十円。祐一は七階と一階、そして地下の項目があるかだけを確かめようとした。


「あまり、触れないほうが良いですよ」


 その言葉に、祐一の耳がぴくりと動く。


 内容に触れないほうが良いのか。それとも、物理的に紙には触るなという意味なのか。


 どちらともとれる言葉を、どうにか解釈しようと頭を回す。


 ――そのとき。

 とある文字が目に留まった。視線に釘が刺さったように。


 『地下:機械室』


 地下はない、と聞かされていた。販売時の重要事項説明でも「地階なし」と記載されていたはずだ。エレベータのボタンも、一番下は一階だ。地下駐車場だってありはしない。だが図の隅に小さく「機械室」とある。部屋の輪郭は極端に曖昧で、枠線は途中で途切れ、扉の記号もぼやけていた。紙の端は少し折れて、茶色く日に焼けている。


 あのBは、夢じゃない。その結論は、祐一をここから更に突き動かすのに、十分な結果だった。


「これ、コピーいただけますか」

「……どうぞ」


 祐一は確認した内容そのままに、七階と一階、そしてその「機械室」を含む一枚を選んだ。小銭を数え、コピーを受け取る。不意に触れた管理人の指先がひやりと冷たい。紙の白は新しいのに、インクの黒だけが古びているように見えた。

 戻る道すがら、エントランスの自動ドアがゆっくりと開いた。そこには誰もいない。祐一の歩幅も足りず、それが開く距離にはいないのに。遠目に見る鏡越しの自分の輪郭が、一瞬だけ二重にぶれた。気になって踏み込むと、白い光はすぐに平らに戻る。何でもない動きのはずが、視線だけが後に残った。


 玄関の鍵を回す音が、室内の空気を区切る。「おかえり」という楓の声は軽い。彼女は祐一が手に持っている物を見て、テーブルの上をさっと片づけた。祐一が持ち帰った紙のために空きを作ったのだ。

 コピー紙の白が、天井灯の真下で青白く光る。インクの線が吸い込まれない。紙の中に沈まず、表面に凸凹としたシールのように浮き、指先にざらついた引っかかりを残している。


「テーブル、広く使っていいよ」


 楓がトレーシングペーパーの袋を開けて渡す。祐一は息を整え、七階、一階、そして「機械室」と書かれた地下一枚を隣り合わせに並べようとする。まとわりつくように、紙同士がくっついていた。「水に濡らしてなんかないのに」とぼやきながら、一枚ずつ丁寧に剥がす。その上に半透明の紙を重ね、鉛筆を握る。太い線だけをなぞり出す――玄関、エレベーター。線は即座に濃くなり、他の廊下や階段は、意識していても視界から滑り落ちそうに薄い。縮尺の数字は明確なのに、距離そのものが曖昧に感じられる。壁の厚みでは説明できない「間」の伸び縮みがそこにあった。


「地下一階、あるんだ」


 楓が肩越しに覗き込み、短く言った。驚きも短い。写真を一枚撮って、タグを考えるときの目になっている。


「機械室って書いてあるだけで、具体的に何があるかは書いてないな」

「機械室に機械があるだけでしょ」

「その機械が何なのかが問題なんだよ」

「機械は機械でしょ。問題なんかないわよ」

「そうじゃなくて」

「何でそんなにこだわるのよ、しつこいし、あぁもう、ばっかみたい」


 棘のある言い方。呆れたように笑い、楓は角度を変えてもう一枚写真を撮る。『#白い紙』『#黒い線』と口の中で転がす。スワイプの音だけが、紙の上に降る埃を撫でていった。


 結菜が小さく息を吸い「きょうも、おじさんに会った」と言った。喉の奥に引っかかるほどの小さな声だったが、祐一の手は紙の上で止まった。鉛筆の芯が繊維に微かに引っかかり、砂粒みたいな音を立てる。


「どこで会ったの?」

「エレベータのなか」

「どんなおじさん?」

「いつものおじさんだもん。いつも『しずかにね』っておしえてくれるの」

「顔は? どんな顔をしてた?」

「パパ、しってるでしょ? わすれちゃった?」


 結菜は少し首を傾け「仕方ないな」とでも言わんばかりに、クレヨンを箱から引き抜いた。黒。四角い枠を描く。中に丸を置く。丸の中は白いまま――目のない空白。丸の外に細い線で腕だけを伸ばす。やっぱり、足は描かない。床から、ほんの少し浮いている。脚がないから、きっとこの人は「静かに」そこにいる。


 祐一は図面と絵を、同じテーブルの上で見比べた。四角い「箱」と、白い空白を抱えた「丸」。太い線と、薄い線。避難経路のくせに、逃げる先へ向かう矢印が弱い。逆に、こちらへ入ってくる線だけが濃い。


 その流れに、彼は気が付く。これは経路を示しているのではなく、何かを囲うように描かれていることを。


 喉の奥で言葉が固まり、ひび割れた。割れ目は紙の上に落ちず、胸の内側に残った。


「ねえ、夜ご飯、どうする? 今日はもう遅いし、簡単にパスタでいい? 美味しそうなレトルトのソース、もらったの。三階の奥さんに」


 楓の声が、割れ目の縁をなでる。「あぁ」と呟いてから、祐一は小さく頷いた。鍋の水が沸騰し始める音が、妙に低く聞こえる。ぶくぶくという泡の合間に、別の拍が紛れ込んでいる気がした。一定でない拍。遠い場所から響く足音のような、間延びしたテンポ。


 食後、図を片づけずに、祐一はノートを開いた。ペン先の重みだけで線を押し込む。


 ――門。玄関。エレベーター。太い線。薄い線。

 ――地下一階:機械室(輪郭が曖昧)

 ――外へ逃す図でなく、中に通す図。儀式の装置の可能性。

 ――娘の絵(四角=箱/丸=顔/白=空洞)との一致。


 インクが乾く前に、紙の白が微かに揺れた。自分の息か、エアコンの風か。揺れたのは錯覚だと、すぐに思い直す。思い直しても、手の甲の産毛は立ったままだった。


 ――夜更け、玄関のほうで、ごく軽い音がした。ノックではない。音の輪郭が薄い。音と音の間に、溶けない空白だけが残る類いの気配。楓はテレビの音量をふたつ下げて「気のせい」と言い、クッションに頬を預けた。


「いいか? 絶対ノックに応じるな。特に、結菜が――」


 口に出しかけると、楓は微笑を崩さずに言葉を切った。


「またそれ? ほんと、臆病だよね。怖がらせるようなこと、結菜の前で言わないで」


 言葉は穏やかでも、芯は冷たかった。強く握ったペンの跡が、ノートの裏にまで浮き出る。祐一は、図面の束を一旦裏返しにした。コピー紙の青みがかった白が、むき出しのままだと視界の端がさわさわと騒ぐ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ