第十九話
――会社を早めに出た。仕事の内容は頭に入っていなかった。
そして、パソコンの画面を閉じたとき、自分の指がぴくぴくと震えていたことに気づいた。百均でコピー用紙とトレーシングペーパーを買う。包装された紙の束は意外なほど重く、腕で持ち替えるたびに微妙なずれを感じた。
管理人室の小窓は開いていた。薄いブラインドの羽は一本だけ曲がり、外の光を不規則に切り取っている。中では作業着姿の管理人が、机の上のバインダーを左右に動かしていた。その仕草は無駄がなく、何度も練習した作業のようだった。
「すみません。竣工図、閲覧ってできますか」
祐一はできるだけ穏やかな声を作った。
管理人は目だけを動かした。
「どうして?」
余裕のない声。そのたった四文字の質問に言葉が詰まる。
「好きなんです、ああいう図面。自分の住んでいるマンションも、見てみたくて。無機質な線が沢山あって、面白くないですか? 間取りも好きなんですけどね、気軽に見られないほうが、何だかそそられるっていうか。きっちりかっちりしたほうがより良いんですよ。わかります?」
覚悟を決めた嘘は、舌をなぞって意味を紡ぐ。饒舌という言葉がピッタリなほど、すらすらと文字が並んだ。
「……竣工図は保管庫に。原本の閲覧は不可。写しは管理組合の承認が必要です」
想定内の答えだった。祐一は頷き、別の角度から攻める。
「初回販売時のパンフレットや、重要事項説明書は残っていますか」
管理人はほんの僅かに眉を動かし、次の瞬間、引き出しから薄いファイルを取り出した。透明ポケットの中に各階の平面図が挟まれている。
「こちらに残っているのは避難経路図と共用部の平面図、それと点検記録だけです」
言いながら、カウンターの上にファイルを置いた。コピーは一枚十円。祐一は七階と一階、そして地下の項目があるかだけを確かめようとした。
「あまり、触れないほうが良いですよ」
その言葉に、祐一の耳がぴくりと動く。
内容に触れないほうが良いのか。それとも、物理的に紙には触るなという意味なのか。
どちらともとれる言葉を、どうにか解釈しようと頭を回す。
――そのとき。
とある文字が目に留まった。視線に釘が刺さったように。
『地下:機械室』
地下はない、と聞かされていた。販売時の重要事項説明でも「地階なし」と記載されていたはずだ。エレベータのボタンも、一番下は一階だ。地下駐車場だってありはしない。だが図の隅に小さく「機械室」とある。部屋の輪郭は極端に曖昧で、枠線は途中で途切れ、扉の記号もぼやけていた。紙の端は少し折れて、茶色く日に焼けている。
あのBは、夢じゃない。その結論は、祐一をここから更に突き動かすのに、十分な結果だった。
「これ、コピーいただけますか」
「……どうぞ」
祐一は確認した内容そのままに、七階と一階、そしてその「機械室」を含む一枚を選んだ。小銭を数え、コピーを受け取る。不意に触れた管理人の指先がひやりと冷たい。紙の白は新しいのに、インクの黒だけが古びているように見えた。
戻る道すがら、エントランスの自動ドアがゆっくりと開いた。そこには誰もいない。祐一の歩幅も足りず、それが開く距離にはいないのに。遠目に見る鏡越しの自分の輪郭が、一瞬だけ二重にぶれた。気になって踏み込むと、白い光はすぐに平らに戻る。何でもない動きのはずが、視線だけが後に残った。
玄関の鍵を回す音が、室内の空気を区切る。「おかえり」という楓の声は軽い。彼女は祐一が手に持っている物を見て、テーブルの上をさっと片づけた。祐一が持ち帰った紙のために空きを作ったのだ。
コピー紙の白が、天井灯の真下で青白く光る。インクの線が吸い込まれない。紙の中に沈まず、表面に凸凹としたシールのように浮き、指先にざらついた引っかかりを残している。
「テーブル、広く使っていいよ」
楓がトレーシングペーパーの袋を開けて渡す。祐一は息を整え、七階、一階、そして「機械室」と書かれた地下一枚を隣り合わせに並べようとする。まとわりつくように、紙同士がくっついていた。「水に濡らしてなんかないのに」とぼやきながら、一枚ずつ丁寧に剥がす。その上に半透明の紙を重ね、鉛筆を握る。太い線だけをなぞり出す――玄関、エレベーター。線は即座に濃くなり、他の廊下や階段は、意識していても視界から滑り落ちそうに薄い。縮尺の数字は明確なのに、距離そのものが曖昧に感じられる。壁の厚みでは説明できない「間」の伸び縮みがそこにあった。
「地下一階、あるんだ」
楓が肩越しに覗き込み、短く言った。驚きも短い。写真を一枚撮って、タグを考えるときの目になっている。
「機械室って書いてあるだけで、具体的に何があるかは書いてないな」
「機械室に機械があるだけでしょ」
「その機械が何なのかが問題なんだよ」
「機械は機械でしょ。問題なんかないわよ」
「そうじゃなくて」
「何でそんなにこだわるのよ、しつこいし、あぁもう、ばっかみたい」
棘のある言い方。呆れたように笑い、楓は角度を変えてもう一枚写真を撮る。『#白い紙』『#黒い線』と口の中で転がす。スワイプの音だけが、紙の上に降る埃を撫でていった。
結菜が小さく息を吸い「きょうも、おじさんに会った」と言った。喉の奥に引っかかるほどの小さな声だったが、祐一の手は紙の上で止まった。鉛筆の芯が繊維に微かに引っかかり、砂粒みたいな音を立てる。
「どこで会ったの?」
「エレベータのなか」
「どんなおじさん?」
「いつものおじさんだもん。いつも『しずかにね』っておしえてくれるの」
「顔は? どんな顔をしてた?」
「パパ、しってるでしょ? わすれちゃった?」
結菜は少し首を傾け「仕方ないな」とでも言わんばかりに、クレヨンを箱から引き抜いた。黒。四角い枠を描く。中に丸を置く。丸の中は白いまま――目のない空白。丸の外に細い線で腕だけを伸ばす。やっぱり、足は描かない。床から、ほんの少し浮いている。脚がないから、きっとこの人は「静かに」そこにいる。
祐一は図面と絵を、同じテーブルの上で見比べた。四角い「箱」と、白い空白を抱えた「丸」。太い線と、薄い線。避難経路のくせに、逃げる先へ向かう矢印が弱い。逆に、こちらへ入ってくる線だけが濃い。
その流れに、彼は気が付く。これは経路を示しているのではなく、何かを囲うように描かれていることを。
喉の奥で言葉が固まり、ひび割れた。割れ目は紙の上に落ちず、胸の内側に残った。
「ねえ、夜ご飯、どうする? 今日はもう遅いし、簡単にパスタでいい? 美味しそうなレトルトのソース、もらったの。三階の奥さんに」
楓の声が、割れ目の縁をなでる。「あぁ」と呟いてから、祐一は小さく頷いた。鍋の水が沸騰し始める音が、妙に低く聞こえる。ぶくぶくという泡の合間に、別の拍が紛れ込んでいる気がした。一定でない拍。遠い場所から響く足音のような、間延びしたテンポ。
食後、図を片づけずに、祐一はノートを開いた。ペン先の重みだけで線を押し込む。
――門。玄関。エレベーター。太い線。薄い線。
――地下一階:機械室(輪郭が曖昧)
――外へ逃す図でなく、中に通す図。儀式の装置の可能性。
――娘の絵(四角=箱/丸=顔/白=空洞)との一致。
インクが乾く前に、紙の白が微かに揺れた。自分の息か、エアコンの風か。揺れたのは錯覚だと、すぐに思い直す。思い直しても、手の甲の産毛は立ったままだった。
――夜更け、玄関のほうで、ごく軽い音がした。ノックではない。音の輪郭が薄い。音と音の間に、溶けない空白だけが残る類いの気配。楓はテレビの音量をふたつ下げて「気のせい」と言い、クッションに頬を預けた。
「いいか? 絶対ノックに応じるな。特に、結菜が――」
口に出しかけると、楓は微笑を崩さずに言葉を切った。
「またそれ? ほんと、臆病だよね。怖がらせるようなこと、結菜の前で言わないで」
言葉は穏やかでも、芯は冷たかった。強く握ったペンの跡が、ノートの裏にまで浮き出る。祐一は、図面の束を一旦裏返しにした。コピー紙の青みがかった白が、むき出しのままだと視界の端がさわさわと騒ぐ。




