第二十話
迷いはすぐに喉に引っかかった。「見せるべきか、見せないべきか」。手元にある地下一階のコピー。輪郭の途切れた「機械室」。楓が、SNSのために写真を撮っただけで、しっかりと中身を確認していないことはわかっている。
自分が感じている違和感。再度彼女へ伝えても、笑って終わるか、心配を装って薄めてしまうか。奇をてらって結菜に見せれば、黒い丸が増えるだけかもしれない。どちらに転んでも、図はまた「気のせい」か「黒い丸」に吸収される。そう考えると、紙の端を持つ指が、じっとりと冷える。
そのとき、廊下の奥で――
――チン。
またエレベータが来た。誰かが呼んだのかもしれない。けれど、その音以外の静寂が目立つ。誰かが呼んだわけではなく、エレベータ自ら迎えに来たように。
そうでも無ければ、こんなに到着音が響くわけがない。
「わかってる。挨拶は必須。だが、今は乗らない。俺は、家の中。乗らない、乗らない」
喉奥で呟き、ソファの背に両手を置く。指先で布の織り目を確かめる。現実に触れている感覚を、ゆっくりもう一度、拾い直す。楓は画面を見ながらうとうとし始め、結菜はスケッチブックを枕にして眠っていた。機械室の不思議は、宙に浮いたままどこにもいけない。
そんな宙ぶらりんな感情をどこにも置けず、祐一はまた夜遅くに部屋を出た。楓も結菜もすやすや眠っている。
乗るつもりもないのに、エレベータのボタンを押す。今日は調子が悪いのか、共用部分の蛍光灯がちかちかと揺らいでいた。
表示盤の数字が「7」でしばらく止まっていた。止まっているのに、ドアは開かなかった。祐一はじっと表示盤を見つめる。数秒ののち、『6』にゆっくりと変わる……誰も乗せていないのに、下階へ向かっている。
いつの間にか、祐一が押したボタンは光が消えていた。そのまま、一階で止まる――かに見えた瞬間『B』が一拍だけ灯った。消える。空気が止まる、また一拍灯る。『B』がその存在を、祐一に教えていた。目の錯覚、と片付けるには、指先の血があまりにも早く冷えた。次の瞬間には、何事もなかったように『1』に戻っている。そして、そこから動かなくなった。
「地下一階。機械室――絶対に何かがある」
確信を口にして、祐一は階段を下りた。管理人室の小窓は暗く、やはり、ブラインドの羽はぴたりと揃っている。視線の先に、避難経路図が立てかけられていた。帰りに見たそれとは別の縮尺。気のせいかと思ったが、気のせいじゃないと本能が訴えている。太い線は、やはり玄関とエレベーターに集約され、その他は細い。線の端に、丸い印がいくつか押されている。判読不能なスタンプ。印の縁に、かすれた文字――「設計:加賀美」。姓だけが、辛うじて読めた。
「こんなもの、俺がコピーさせてもらった紙にはなかったぞ……? どういうことだ? それに、加賀美……?」
誰もいないのをいいことに、一人ごちる。加賀美、覚えのない姓だ。だが、妙に引っかかる。ノートに「加賀美/スタンプ」と書き、下に小さく「販売パンフの社名要確認」と添える。紙と紙の間から、見えない砂が一粒落ちたような気がした。
自宅へ戻ると、誰も聞いていないのに「ただいま」と言った。「ここは自分の家である」と、誰かに教えるように。寝る前、祐一はノートの最後の行に、もう二文だけ書いた。
――機械室の図、コピー入手。家族には未提示。
――しばらくは、記録のみ。見せない。
ペンを置く。深く息を吸う。紙の白と、夜の白は、同じ温度だった。
――二日後。変わらず白は均一で、テーブルの紙だけを選んで明るくした。
だが、一昨日の夜のノートの一行が、また薄くなっていた。筆圧の跡だけがくっきり残り、インクの黒が後退している。爪の背で裏を撫でる。沈んだ圧は確かにそこにある。文字の形は存続しているのに「黒」が削がれていく。祐一は同じ行をなぞった。なぞれば戻る、というわけでもない。ただ、線の存在だけは濃くなった。前に薄くなった文字は、戻っていなかった。
キッチンでは、楓がトーストにバターをひと筋落としていた。光がナイフの刃に反射し、流れるようにパンの表面を滑る。「今日、屋上の鍵、いつもよりも遅めに開くみたい」と言って、ママ友グループの通知を見せる。「挨拶を忘れずに」「落し物は拾わないでください」と、いつかの文面がそのまま転送されている。祐一の胸に、冷たい針がもう一本刺さる。
「結菜の迎え、俺がいくよ」
「大丈夫? 帰れる?」
「帰る。残ったら在宅にすればいいから」
祐一はきっぱりと言い切った。
「じゃあ、お願いね。助かったわ。ホラ、いつものヨガのメンバーに、お茶会に誘われてたから」
「夕方にお茶会? ヨガにもいくのに?」
「……別に両方行ったっていいでしょ?」
短いやり取り。ここのところ、会話の最後で残るようになった小さな棘が、祐一の心をちくちくと刺した。そんなことはつゆ知らず、楓はただ頷き、機嫌よく窓際のフィカスの葉をまた一度だけ回した。
「パパ、きょうは、エレベータ、のらない?」
唐突な問い。祐一は、迷わないで答えた。
「できるだけ階段にする」
「なんで?」
「……健康のためだよ」
結菜は「ふうん」と短く言い、スケッチブックに小さな四角をふたつ描いた。ひとつは濃く塗りつぶされ、もうひとつは輪郭だけが残る。どちらがエレベーターで、どちらが玄関か、問いかけずともわかった。
日中、祐一は仕事を早めに切り上げた。結菜を迎えに行くためだが、その前に、販売時のパンフレットを扱った不動産会社に電話を入れる。受付の声は明るい。だが「竣工図の写しは管理組合の承認が必要です」と機械的に繰り返すのみで、詳しいデータには辿り着けない。しかし「古いパンフレットのPDFならお渡しできます」と送られてきたファイルを開くと、小さな文字が目に入った。
『意匠監修:加賀美設計室/加賀美暁』
「加賀美……あの名前」
夜、プリントアウトした紙を、コピーの横に並べた。紙の質が一枚ごとに違う。同じ白のはずが、温度が違う。パンフの白は、表面だけがきれいだ。避難図の白は、中から光っている。違う光だ。紙の下で、何かが息をしている。まるで誰かの意図が透けて見えるように。
楓と結菜が風呂場へ行っている間、祐一は再度一度だけ家族に見せるか迷った。地下一階のコピー、パンフレットの末尾の名前、二回目の『B』の表示。どれも、言葉にして口にした瞬間、その存在が消されてしまう予感がした。薄まって、取り込まれて、笑いと呆れに回収される。怖がらせるな、怯えるな、と、楓は言うだろう。結菜は新しい黒い丸を増やすだろう。
祐一は、コピーを下にして重ね直した。見えないように。自分の目からも。
お風呂を上がった結菜が、スケッチブックのページを一枚破り、冷蔵庫にマグネットで留める。知らないうちに冷蔵庫の壁面に増えた、同じような絵。黒い丸の中の白が、蛍光灯の下でほんの少しだけ浮いた。
「ママ、あした、しずかにね、っていうの?」
結菜が聞く。楓は「何のこと?」と笑い、結菜の頭を撫でた。その笑顔は、写真の中では完璧にあたる種類の笑顔だ。現実の光の中では、少しだけ棘が刺さって見えた。
夜半。家中の音が均等に薄まり、秒針の刻みも壁紙の模様も同じ平面に溶ける。祐一はもう一度、コピーを取り出した。地下一階。機械室。周囲の枠が途切れ、扉の記号は擦れ、太い線は滲んでいる。パンフの末尾に印刷された「加賀美」の姓が、避難図の古いスタンプと、紙の上で静かに重なった。耳馴染みのない名前。知り合いにはいない。それなのに、どこかで会ったことのあるような気がして、祐一は唇を噛む。
意図しか読み取れない避難図。しかし、その意図が判別できない。
「……くそっ!」
言葉は、そこで止めた。それ以上は線にのみ込まれてしまう。うっかり出した瞬間、リビングの温度が下がる気がした。丁寧に紙を重ねあわせ、ノートで蓋をするように整えて置く。今日はもう二言、三言だけ。寝室へ向かうと、ドアを開けると同時に楓が寝返りを打つ。結菜は寝言で「しずかにね」と言い、再び静かになった。
祐一は、ノートへ気持ちを書き記す。
――見せない、教えない、伝えない。
――今は、書き留めるだけ。
――すべては、わかってから。
ゆっくりとペン先を離す。インクだまりへそっと触れた人差し指につく黒。親指と重ね合わせると、掠れた黒が広がる。地下に広がる不吉な音が、遠くから薄く、届いた気がした。




