第二十一話
珍しく今朝は雨だった。
窓ガラスを殴る大粒の雨が、大きな水跡を残している。ぱたぱた、こつこつと雨粒がぶつかっては、潰れた涙のように下へ下へと流れていく。真っ黒な分厚い雲につられて、部屋の中も薄暗い。楓はお気に入りのフィカスの葉を一枚だけ指先で撫で、新しいマグカップの向きを調整している。カップが変わっても、やることは変わらない。スマホのカメラ越しに、同じ構図を試し、同じ角度を確かめ、いつものタグを打つ。
『#白い朝』『#すきまの光』『#最高の景色』
また戻った、楓のルーティン。ここ数日、見えなくなっていた投稿は、何事もなかったかのように戻っていた。だけれど、戻る投稿と戻らない投稿があり、その差は楓にも祐一にもわからない。抜けた歯の跡みたいに、空白がそのまま残るものもある。
それなのに、楓はもう気にしない顔をしていた。「消えちゃうなら、新しいものを投稿すればいいじゃない」と、気味が悪いほど前向きな言葉を放つ。有言実行で、彼女のタイムラインには、自分の投稿した画像で溢れていた。それを見て、満足そうに笑っている。
「図面、もっとちゃんと手に入れてくる」
弁当をテーブルに置きながら祐一が言うと、楓は画面から目を離さず「いってらっしゃい」とだけ返した。結菜はスケッチブックの新しいページに、四角い箱と丸をもう一枚描く。丸の中に、今度は細い縦線が一本。また、エレベータだと思った。だが、その線が合わさったせいで、口にも、裂け目にも見える。
――辿り着いた役所の建築指導課は、蛍光灯の白が乾いていて、紙の端がすべて同じ厚さで並んでいる場所だった。無機質で、色がない。かさかさと、紙の擦れる音がたまに聞こえ、辛うじて鳴るパソコンのキーボードを叩く音が、人の気配を感じさせた。
目の合った窓口の男性は、声に温度がなかった。
「建築確認申請の写しと検査済証の写しは開示できます。ただ、竣工図書の詳細は別保管です。設計者情報は個人情報に当たるため、黒塗りになります」
「設計者の名前だけでも」
「……黒塗りになりますね」
祐一は頷いた。頭の中で、黒い矩形が紙面の上で増殖していく光景が広がる。別の角度を探す。販売当時の広報資料、施工会社のニュースリリース、街の図書館の縮刷版。指の腹に古い紙の粉がつき、喉の奥が微かに甘くなる。口にしたわけではないのに、舌の上が粉っぽい。眉を寄せて、唾を飲んだ。
――『旧蛍中野団地跡地、再開発 設計は加賀美設計室』
――『蛍中野地区のランドマーク誕生へ 監修・加賀美 篤』
――『竣工インタビュー/加賀美 隼「玄関動線の再定義」』
同じ姓が、世代を跨いで紙面に現れ、同時に消える。載せられた写真は似ていない。肩書は何となく似ている。「監修」「監理」「設計顧問」。さらに古い巻を繰ると、昭和の終わりごろの小さな記事が見つかった。『加賀美誠一』。傍らに載るのは、古い団地の建て替え広告。曖昧な笑顔の家族のイラストの横に「新しい暮らしへ」。その裏側で、古い暮らしは一体どこへ消えたのか。どこへいってしまったのか。
「家系――」
祐一はぽつりと呟いた。彼は図書館の隅の、陽の当たらない机でノートを開く。
――加賀美(設計者から代々)。団地→マンション→建て替えの繰り返し?
――強調される門? (玄関/エレベータ)。
――都市更新の名で埋め込まれた何か(何かはまだわからない)。
閉館時刻を告げるチャイムが鳴るまで、紙の匂いを吸い込み続けた。指につくインクも気にせず、ひたすらに線を追う。それに刻まれた何かのために。
外へ出ると、夕方の風は少し湿っていて、町の音が密だった。雨はやんだが、地面の水溜まりは祐一を映している。わざと踏み込むと捻じれて消えた。
商店街の外れで、中古の本屋を見つけた。ダンボールの中に突っ込まれた安い冊子の束をめくると「蛍中野市七不思議と周辺」という薄い小冊子が出てきた。ざ
らざらのコミック紙。むらのあるインク。日に焼けた跡。末尾の聞き書きが、妙に正確な場所を刺してくる。
――『夜のエレベータ、先に乗ってる誰かがいるから『失礼します』って言うんだよ』
――『昼間は気にしなくてもいいけれど、癖をつけるなら挨拶しなさいって、隣の家のお婆ちゃんに言われたの』
――『玄関はね、三回ノックが来ても開けるなって。うちは二回だったけど。二回なら平気よね?』
――『マンションの人? どこかの部屋のついで? それなら、インターフォンを鳴らすんです。必ず、インターフォンを』
――『落とし物は拾っちゃだめ。拾ったら、その人の顔を忘れられなくなるから』
――『知らない人の落とし物だと困るので、基本は拾いませんよ。昔は、管理人室へ持っていったみたいですね。やめた理由は知りません』
どれも曖昧な噂なのに、ここ数日の出来事にぴたりと合う。いくつ拾っても、それは今祐一が住んでいるマンションの話だった。
エレベータに乗る前の挨拶。
出てはいけないノック。
拾うべきではない落とし物。
最後の奥付には「取材・編集 K.K」とだけ書かれていた。偶然の一致だと切り捨てるには、頭文字が嫌に目に残った。
帰宅すると、楓はママ友グループとやり取りをしていた。屋上の朝ヨガ。管理人が鍵を開ける。もっと涼しくなってからのはずが、最初の一回はお試しだったはずが、いつの間にかルーティンへと変わる。
参加者二十名。エレベータは混むから早めに並ぶ。挨拶の励行。落とし物は拾わない。毎日の生活で刷り込まれた文言が、別の声で再び祐一の背中に焼き付く。
――こん、こん、こん。
ノックがきた。間隔は均等。指の関節ひとつではなく、それ以外の固いもので叩いたような音。音は軽いのに響きは重い。
楓が反射的に立ち上がり、玄関へ向かう。祐一は椅子の脚を鳴らして叫んだ。
「やめろ!」
自分でも驚くほど大きな声。びくりと結菜が肩をすくめる。楓は先の凍った針のような目で振り返った。
「……臆病」
言い終える前に、ノックは止んだ。二拍置いて、ドアの向こう側の温度だけがすうっと下がる。下がった冷気が、隙間から床へ流れ込む。結菜が小さく呟いた。
「ママ、どうしてあけなかったの? ママがママをいれたって、ほかのひとじゃないのに」
意味のわからない言葉に、楓の背中が僅かに揺れたが、振り向かない。笑って、スマホの画面を上へスワイプする。指の腹に黒い画面の熱が移る。そんな二人をじっと見て、祐一は何も声をかけられない。
――こん、こん、こん。
次のノック。同じ濃度の音。
――こん、こん、こん。
スマホを触る手をぴたりと止めて、楓は再度ドアを見る。足音は鳴らない。そして、当たり前のように手をドアノブへとかけた。
「ダメだ!」
もうそれしか言えなかった。祐一の足は動かない。
ガチャリ。
ドアノブが下がりきり、手前に引いた音。音の軽やかさとは裏腹に、扉の隙間から部屋へと流れる空気は重く冷たい。目の前が一瞬赤くなったのは、きっと錯覚だ。赤くなるはずがない、そう祐一は自分に言い聞かせる。
「弱虫」
楓の笑う声が耳に刺さる。九十度開けた扉の向こう、マンション共有部分の廊下。冷たかった空気は途端に生ぬるくなり、祐一を椅子から立たせた。
「楓、閉めろ」
「どうして?」
「頼む、閉めてくれ」
「何よ、誰もいないじゃない」
『違う、誰もいないから問題なんだ』と、言いかけてやめる。それでも何とか言おうとしたとき、祐一の視界に入ったのは、間違いなく人の影だった。
「本当に意気地がないのね。はぁ、どうしてこんなふうになっちゃったのかしら」
首を振って楓はドアを閉めた。まだ生ぬるい空気は残っている。
お茶を取りにキッチンへ向かう楓が、祐一の隣を通る時大きな溜息を吐いた。『本当に、貴方のことがわからない』とでも言いたげな顔をして。
「静かにね」
またひとつ溜息。
「溜息を吐きたいのはこっちだよ」とは、言えなかった。それから会話もないまま、深夜、二重の鍵を確かめ、祐一はノートの端を小さな文字で埋めていく。
――協力的かつ、非協力的。味方不明。
――ここは、忘れさせる。忘却。
――否、忘れない。書く。
――加賀美(代々)。
――門の設計。
――更新。
――繰り返し。
――同じ形と土地。
――偶然ではなく、必然。
――開かせる。それを開ける。
――知らない、わからない。結果なし。
寝る前に、覗き穴から廊下の様子を窺う。誰もいない。見えるのは夜景を分割する壁と、蛍光灯の光。一点を見つめる歪な視界に、それ以上のものは映らない。
「大丈夫、大丈夫」
ぶつぶつと独り言を言いながら、祐一は何度も穴を覗く。外の様子は何も変わらない。
落ち着かない様子のまま、普段はかけないチェーンをかけて、祐一は眠りについた。




