第二十二話
――翌朝、楓は早く起きた。それでも、上手く寝られなかった祐一のほうが早い。髪をゴムで束ね、薄いレギンスを穿き、笑顔を鏡で確認する。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
形式的な挨拶。お互いの顔は見ない。聞こえる蝶番の普通の音。祐一は、ドアが閉じるその瞬間、遠くで――チン――という音を確かに聞いた。何度聞いても、何度でも気のせいにしたい種類の音だ。
不用意なことをしない間は何も起きない。そう信じようとしたが、昼を過ぎても楓が戻らない。そこではたと気付く。
――不用意なことはしていた、そうだ、開けた、玄関のドアを。ノックの音をきっかけに「応じてはいけない」と言われていた玄関のドアを。
楓は、開けてしまった。
額に冷や汗が噴き出る。嫌な予感しかしない。一瞬でも忘れていた自分に腹が立ちながら、祐一はスマホを握った。
送ったメッセージは既読にならず、電話はコール音だけが続く。結菜はテーブルの上でクレヨンを並べ直し、足りない黄色のクレヨンを探す仕草を繰り返した。先の欠けたクレヨンは、もうどこかへいってしまったようだ。
「ママ、どこ?」
「……すぐ戻る」
「クレヨンは?」
「……戻らない」
結菜の顔が見れなかった。
そんな祐一の気持ちを知ってか知らずか、結菜は話し続ける。
「ねぇ、ゆいな、あかいヘアピンにあう?」
「どこにやった?」
「かえしたよ? おねえちゃんに」
「どこでだ!」
自分のものとは思えない声。口を開いた結菜の目からすっと光が消えて、代わりに沈黙が顔を出す。
結菜は、ぎゅっと口を閉じてから、クレヨンの箱を開けた。そして、一つひとつクレヨンを手にとっては、綺麗にまかれた包装を剥がし、真ん中で折る。ぽきっ、ぽきっと小気味よい音は、祐一の心を丁寧に引っ掻いた。
すべてのクレヨンを折り終わり、結菜は指についた色をテーブルの上の画用紙で落とす。掠れた色が汚らしく重なり合い、ただそれを見つめることしかできない祐一の心に、更なる影をぽんと伸ばす。
そこでようやく、結菜が満足そうに「パパ、できたよ」と笑った。
午後二時を回ったところで、玄関の鍵が回る音がした。祐一は椅子から立ち上がり、ドアへ向かう。ノブに手をかけて、ゆっくりと開けた。誰もいない。廊下の白だけが、平らに延びている。足音はしなかったのに、廊下の空気が歩くように波打って、すぐに戻った。床の継ぎ目の線が、水面みたいに一瞬だけ揺れた。
誰かのいた気配。――いや、今も誰かがいる気配。でも誰もいない。
ふと視線を落とすと、足元に薄い便箋が滑り込んでいた。花火柄の一筆箋。そこに一行、手書きの文字。
――『引っ越す』
楓の字だった。
見覚えのある形。癖のある丸み。無視された止め跳ね払い。けれどこれは、彼女の意志で書いて置いたものではない――祐一の全身が、手紙の存在を拒絶した。紙の熱が指先から逃げる。逃げて、床へ落ちる。音も立てずに落ちた紙は、遠くで聞こえた足跡の音に混じって、すぐに馴染んだ。
祐一は思わず口を開けて文字を見る。一文字ずつ何度も往復すると、耳の奥で「引っ越す」と、楓の声が響いた。
「……ママは」
結菜の声が震える。祐一は言葉を探したが、喉だけが鳴った。台所の蛇口をひねる。水の音は妙に輪郭がはっきりしている。
結菜の問いには答えられなかったが、祐一は気付いていた。
楓はもう、消えてしまったことに。
彼女は「ノックに応じたから」消えたのではない。ここに住んでいるから、消えた。そうでも考えないと、目の前の整合がとれない。
開けた瞬間に、彼女はいなくならなかった。応じたから消えたなら、あの瞬間消えてしまったはずだ。今朝も起きて、着替えた彼女と挨拶して、目も合わせないままヨガへ行って、それから――
おかしい、おかしい。部屋には楓の痕跡がすべてある。タンスの服、洗面所のヘアゴム、朝の紅茶の薄い茶色の跡。痕跡は残り、本人だけがいない。
「かえってくる?」
「……結菜は、どう思う?」
縋るような声で聞き返す。同時に『親として最低だ』と祐一は自分を責めた。そんなこと、小さな子どもに聞くべきではないのに。
「じぶんではあけられないから、だれかにひらいてもらわないといけないの」
流ちょうに話す言葉は、意識が宿っていないように聞こえた。
「それは、どういう意味?」
「わかんない」
首を傾げる結菜の目は、彼女がいつも描く絵と同じように、空洞と黒でできていた。
声も出せずに、祐一は結菜のそばを離れる。
「パパ、少しだけお昼寝しても良いかな? ほんのちょっと」
「じゃあ、どうがみててもいい?」
「あぁ、もちろんいいよ」
ソファに座って動画を見始めた結菜を横目に、祐一は玄関まで走る。二か所の鍵を閉めて、ドアチェーンをかけ、散らばった靴をすべて靴箱へしまった。
万が一誰かが訪ねてきても、結菜がうっかり外へ出てしまわぬように。
それだけして、祐一は三十分部屋にこもった。
扉越しに微かに、動画の音声が聞こえる。返ってこない返事を求めて、祐一は何度もメッセージを送り、コール音を鳴らしたが、いつまで経っても楓からの反応はなかった。
――夕方、掲示板の前で、いつもの男女が立ち話をしていた。
「誰か、また?」
「さあ。……もう気にすることもないわよ。よくあることだもの」
「それもそうだったわね。よくあることだし、気にするほどじゃあないわよね」
聞き飽きたと言えるほど、また同じ言葉。
「ほんとよぉ」
「よくありすぎて、くどいくらいだわ」
「間違いないわね、くどいくらい」
よくある。よくある。よくあるよくあるよくある――
同じ言葉だけが階段のように続いて、どこにも辿り着かない。管理人室の小窓は開いていて、管理人は点検表に赤いスタンプをひとつ押す。滲む赤が紙の繊維をじわじわ満たす。
二人は祐一の顔を見て軽く会釈をすると、そそくさとどこかへ行ってしまった。
「すみません。あの」
「どうしました?」
目も合わせずに、管理人は返事をした。
「妻が、いなくなりました」
祐一の声は、驚くほど落ち着いていた。管理人は、少しだけ首を傾げる。
「どのように」
「……わかりません。メモが一枚」
管理人は頷いた。頷く角度は、掲示板の前で足を止めない住人と同じだった。
「こちらでは、退去の手続きが伴わない限り、記録は動きません」
「退去じゃない。消えたんです」
「言葉は、どちらでも」
微笑。胸ポケットの白いハンカチで指先を軽く拭い、普段と同じ調子で言葉を落とす。
「ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です」
「……忘れられるわけないだろ? 今朝までいたんだぞ?」
「練習すれば、みなさん上手になります」
「そういう話じゃないんだよ! 今朝までいたのに、忘れるとか従うとか、いったい何の話をしているんだ!」
「よくあることです」
話が通じない。その状況が、祐一を苛立たせる。
「違う! 今朝! ヨガへ行ったんだ! 鍵を開けただろう、あんたが、屋上の鍵を!」
「えぇ、開けました、確かに」
「妻はその後どこへ行ったんだ!」
「……さぁ」
管理人は、一度だけ祐一の顔を見た。無表情で。そして一言だけ言うと、また下を向く。
「さぁ? 顔くらい見ただろ?」
「人数に、誤りはありませんでした。カゲの数は、いつもと同じです」
「……は?」
「忘れる練習は、早いほどいい」
管理人は、また祐一の顔を見て、そのまま視線を落とすと、すっと窓口のガラスを閉めた。そしてブラインドを引く。「用事は済んだ」と言わんばかりに、祐一を拒絶している。
グッと手を握って、祐一は管理人室を去った。話にならない。怒りのまま足で床を鳴らす。怒りの載った硬い音が響くが、それ以外何も残らない。
祐一は家へ戻ると、ノートを開き「引っ越す」の文字をそのまま模写した。止め、跳ね、払い、それから全体の角度。インクの黒で徹底的に再現する。その上に、鉛筆の硬い線で書き足す。
――住んでいたから、消えた。
夜、結菜は枕元で、小さな声で言った。
「ママ『しずかに』って、いってたでしょ?」
「静かに……」
確かに言っていた。溜息を吐いて、その後「静かにね」と言った。そしてまた、溜息。
「なぁ、どうして静かにしないといけないんだ?」
結菜が知っているのだろうか。
「だって、しずかにしないと、あいさつがきこえないでしょ? あいさつは、しなきゃいけないんだよ」
真っ黒に濡れた目が、祐一を見据えて言う。そしてそのまま目を閉じた。
祐一は天井の白を見上げ、寝息を立てる結菜にブランケットをかけると、自分もゆっくりと目を閉じる。耳の奥で、遠くのどこかへ水が一筋だけ落ち続ける音。落ちる音は、やがて胸の端に染みて、消えた。




