第二十三話
――翌日、祐一は再び外へ出た。
図書館、役所、そして別の図書館。建築士名簿の古い冊子に指を滑らせると、茶色のページに黒い名前が刻まれている。年代ごとに、加賀美という姓が、さりげなく、しかし確実に現れる。所在地の欄は、市内。業務内容は、住宅、集合住宅、再開発事業。家系図の線ではなく、仕事の履歴の線で、世代が繋がっていく。
ノートに書き写す。門のようなものの強調。外へ逃がすための矢印ではなく、内へ迎え入れるための矢印。書きながら、昨夜の行のいくつかが薄くなっているのに気づく。筆圧の跡は残り、インクだけが退いている。爪で紙の裏を撫でると、圧だけが指先の腹に訴えかけてくる。
祐一は薄くなった行を、ゆっくりなぞり直す。忘れない。インクは戻りきらないが、線の存在は濃くなった。
帰りに、住宅地図専門の古書店に寄った。レジの奥に、古い地番図のコピーが束になって置いてある。店主に頼んで、この地区の古い版を出してもらう。透明の下敷き越しに、今と昔の線を重ねる。角が少しずれただけで、通りはほとんど同じ場所を走っている。違うのは、寄せては返す建物の形だけだ。
――旧蛍中野団地、蛍中野レジデンス、現在のマンション(名称変更・建て替え)。
波のようだ。建てて、壊して、建てて。たびたび登場するのは、見逃せない同じ姓の設計者。その波の節目に必ずあるのは、玄関とエレベータを強調する線だった。
家へ戻ると、リビングのテーブルに結菜の新しい絵が増えていた。四角い箱。丸い顔。白い空白。そして、丸の下に短い線の束。足ではない。垂れ下がる何か。注釈のように幼い字で「しずかにね」と添えてある。
「誰に言われた?」
「おじさん。ママも」
短い返事。祐一は言葉を見失った。居心地が悪くなり、楓の持ち物を探す。彼女の痕跡は変わらず家の中にある。浴室の棚に置かれた、お気に入りのボディクリームの白いボトル。ベッドサイドのリップクリームと、コンセントに繋がったままのスマホの充電器。買い換えたマグカップに、何度も角度を変えられたフィカス。毎朝覗いた覗いた全身鏡と、同じ種類の髪ゴムの束。
だが、スマホだけがどこにもない。
探す気力もなく、ただ時間だけが過ぎる。
夜、いつもの犬のリードの男性と、七階のエレベータホールでばったり出会った。今日は犬はいない。それなのに、真っ赤なリードだけが手の中で細く光る。
「こんばんは」
「こんばんは。……奥様、見かけませんね」
さらりと言われ、祐一は一瞬、喉が詰まった。
「ええ……出かけたままで」
「そうですか、お宅も。……よくあることです」
男性は柔らかく笑い、祐一の肩に空気だけ触れさせて通り過ぎた。すれ違いざま、廊下の壁に濃い影と薄い影が二重に揺れる。薄いほうが遅れて、濃いほうへ吸い込まれる。音はない。
――この人は、どの部屋の人だった? やっぱり、思い出せない。今回も。
男性の影が完全に消えて、祐一の問いはすぐ霧散した。
翌日の管理人室。窓口の小さなベルを鳴らすと、管理人が出てきた。灰色の作業着。胸ポケットのペン先が光る。
「昨日は失礼しました。……ひとつ、教えてください。避難経路図について」
「はい」
「地下一階。機械室と書かれているのに、販売時の重要事項説明には地階なしとあった。これは、どういう」
「最新の図面に基づいて掲示を更新しております」
事務的な返答だった。
「この機械室には、何が?」
「機械です」
管理人は笑顔を崩さない。
しかし、祐一は引き下がるつもりがなかった。
妻は消え、戻ってこない。理由もわからない。警察に届けは出した。だが、記入した住所を見て、警官の顔色は変わり冷たくなった。
ここで引き下がっては、きっと楓はもう二度と戻ってこない。そんな気がした。だから、疑問をぶつけることにした。
「――まるで、門のように見える。このマンション、玄関とエレベータの線が、比べて太すぎる。他は曖昧だ」
「図面は図面です」
「この建物は、何かを通すか……それとも、囲うための装置じゃないんですか」
言い切った瞬間、管理人の笑顔が少しだけ深くなった。笑ったはずなのに、目が笑っていない。
「言葉は、どれでも」
「妻がいなくなった」
「承知しています」
「承知、している?」
「ここは大きな建物です。情報の更新は、常に行われます。どうぞ、掲示板をご覧ください」
掲示板には、昨日と同じ黒い文字が貼られていた。『ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です』。その下に、紙が一枚増えている。
――〈ご報告〉七階にお住まいの方のうち一世帯につき、引っ越しの準備が始まります。手続きは追って通知します。よくあることですので、ご安心ください。
活字は淡々としている。よくあること。よくあること。よくあること――
「また、これか」
思わず口にする。
祐一は、紙の四隅の画鋲の銀色に視線を固定した。吐き気が、少し引いた。
「よくあることで、済ませるつもりはありません」
「そうお考えになる方も、よくあります」
管理人は、祐一の目を正面から見た。そこに敵意はない。ただ、重さがなかった。
「忘れられない人間は、どうなる」
「練習が足りないのです。都市は更新されますから」
「意味がわからない。練習では、妻は戻らないんだぞ」
「戻すことは、目的ではありません」
目的。祐一の背筋に、冷たいものが走った。
「何のための建物なんですか」
「住まいです」
「誰の」
「言葉は、どれでも」
会釈。窓は閉じられ、ブラインドの羽がぴたりと揃う。隙間はない。
疲れ果てた夜。祐一は居間の灯りを落として、窓の外の黒を見た。ただ広がる闇。月の明かりさえも、分厚い雲に覆われていて届かない。
もやもやとした気持ちを抱えていると、結菜が背後から抱きついてきた。
「パパ、ママ、どこ」
「……探すよ」
「エレベータ?」
問う声に、祐一は首を横に振った。今はまだ、そこではない。そこへ行けば、何かが決定的に変わる。戻れなくなる。
「……結菜は、どうしてそう思うんだ?」
「おうちのドアをあけたから」
その答えに、祐一は無性に苛々した。
「家のドアと、マンションのエレベータが、いったいどう関係してるんだよ」
「おねえちゃんがいってた」
「どの」
「おとなりの、おねえちゃん。あかいの、かえした」
血が冷える。結菜が何度も言う『お隣のお姉ちゃん』を、今まで祐一は一度も見たことがない。
だが、結菜の言葉に、ひとつだけ会ったかもしれない可能性を見出した。
もしかして、あの、楓がドアを開けたときの、影――
「お姉ちゃん、他に何か言ってたか?」
「……ひらかせるもの」
「何?」
耳の中を言葉が滑る。
間違いなく聞いたはずなのに、言葉が脳に定着しない。
「ドアと、エレベータを」
「結菜、ごめん。さっきの、もう一回」
「じぶんではひらけない。だから、ちからをかりるんだって」
「ドアと、エレベータの前。何て言った?」
聞きたい言葉が出てこない。苛々するが、その苛々を結菜にぶつけるわけにはいかなかった。
「わかんない」
「……ごめん、もう寝ようか」
その言葉に、結菜は気絶したように祐一へ身体を預ける。一度後ろ手に支えてから抱え上げると、結菜の身体は完全に力を失っている。そのまま寝室へと運び、ベッドへ寝かせた。
祐一は寝つけずにノートを開く。ペン先が紙を撫で、黒い線が増えていく。
――加賀美(四人いる?)。再開発案件。
――広告文言は「新しい暮らしへ」。
――古い暮らしの行き先は不明。
――地域怪談(冊子K.K):「失礼します」「三回ノック」「落とし物は拾わない」。
――門の設計意図。外ではなく内へ。
インクが怪しく光る。紙の白が、夜の白と同じ温度になる。祐一は、行間に小さく書き足した。
『住んでいたから、消えた。まるで、贄のように』




