第二十四話
朝を迎えても、フィカスの向きは変わらないし、マグカップも同じ向きにある。
だけど、楓のSNSは動かない。ただ、ところどころ白抜けした投稿が、当たり前のように鎮座しているだけ。
気が付くと、エントランスの掲示板に、もう一枚紙が増えていた。
――屋上開放 明朝 午前五時三十分~六時。参加者は挨拶を励行し、落とし物を拾わないでください。
今までのヨガのお知らせとは違う。内容が書いていない。紙は新しい。やはり、誰も足を止めない。そのまま誰もが一瞬だけ視線を落とし、頷く。頷く角度は、気持ち悪いほどにほとんど同じ。
祐一は、売主のパンフレットをもう一度開いた。キャッチコピー。謳い文句。家族の笑顔のコラージュ。ページの下隅に小さく「設計監修:加賀美設計室」。すべては表に出ているのに、何ひとつまともに語ってはくれない。
その夜、結菜は眠る前に、また絵を一枚増やした。四角い箱の上に、細い線で斜めの格子――屋上のフェンス。丸い顔は白いまま。丸の左に小さく「ママ」と書かれている。右には「おじさん」。丸の外側に、ほんの短い線がひとつ。これは、手か、指か。
「どこで描いたの?」
「ここ」
「誰と」
「ひとり。……でも、いたよ」
空気が、音もなく張り付く。祐一は無言で絵を冷蔵庫の磁石で留めると、目を逸らした。
明日の朝、屋上が開く。管理人が鍵を開け、住人が挨拶をして上がる。ルールと、習慣。コツ。笑い。
深夜には相変わらず『チン』と、エレベータの到着音が一度、遠くで鳴った。しっている、箱は開かない。開かないのに、内側だけが呼吸する。息を吸って、吐く。こちら側に残った人数を数えるように。
無意識のうちに玄関のドアを開け、廊下に半歩踏み出しかけた足を、祐一は無理やり引き戻した。踵のゴム底が床を撫でる。薄い音。普通の音。生活の音。祐一は、それを胸の中央で掴み直す。
懐中電灯、小さなカメラ、トレーシングペーパー。空がまだ明るくなる前に、管理人室が開くよりも前に、エントランスの避難図をもう一度写すと決めた。太い線と、薄い線。玄関。エレベータ。曖昧な機械室。紙の上の線と、建物の中の線を重ねる。
耳の奥で、遠い水の音が、また今日も一筋落ちた。廊下のどこかで、二重の影が重なって、いつの間にかひとつになる。
「おはようございます」
背後で声がして振り向くと、管理人が立っていた。柔らかい声。いつもの笑顔。
「熱心ですね」
「おかげさまで」
「線は、線です」
「わかってます」
会釈。やり過ごして、もう一度、太い線を重ねる。紙の端に小さく「加賀美」と書き込む。誰に見られても問題のない、ただのメモ。けれど、祐一は心の中で『これは印だ。次に向かう先を示す印。本体ではない』と感じていた。
屋上開放の時間が近づく。住人が、少しずつ集まってくる。軽い挨拶。軽い笑い。エレベータの前に、自然と列ができる。「失礼します」「お願いします」「お先に」「どうぞ」。軽い言葉。薄い礼。箱は、素直だ。音が鳴り扉が開く。閉まる。開く。また閉まる。呼吸のように。
祐一は列から離れ、階段を上がった。踊り場の窓に、二重の影がまた浮かぶ。薄いほうが遅れて、濃いほうへ。吸い込まれる音はない。
屋上に出ると、朝の白は普段よりもさらに薄く、街の輪郭だけが遠くで光っている。フェンスの向こう側に、まだ冷たい風。ヨガマットの並び。管理人が鍵を持ち、参加者の数を指で数える。小さく頷く。頷く角度は、掲示板の前と同じだ。
何てことはない。内容は書かれていなかったが、行われているのはいつものヨガだった。それよりも、初めて入る屋上に浮足立つ。
結菜は、まだ寝ていた。だんだんと色々なことがどうでもよくなってきて、結菜が学校を休んでも、自分が会社を休んでも、別に問題ない気がしてきた。まだ、余裕のある時間帯なのに。
そして、帰ってこない楓の姿は、どこにもなかった。
代わりに、今までの投稿に写っていた顔が、いくつも並んでいる。「おはようございます」「昨日はどうも」「いい写真でしたね」。笑い声。軽さ。誰かが「うちも来月かしら」と半分冗談で言い、別の誰かが「普通にしていれば大丈夫ですよ」と返す。前にも聞いた話。頭の中で声がリンクする。
祐一はフェンス越しに朝の街を見た。風が頬を撫で、眼球の表面を冷やす。視界の端で、二重の影がまた重なる。今度は、人の影ではない。フェンスと、空。薄い線が遅れて、濃い線へ吸い込まれる。
祐一はノートを開き、ページの上で文字を固く結ぶ。
――加賀美設計室。所在地、電話。
――旧案件(団地からレジデンスへ。現マンション)
――面談。記録。手がかり。
その文字は祐一の知らないところで、風に乗って空に溶けた。
屋上から戻った祐一はノートを胸に当て、深く息を吐いた。薄い紙の上の線が、呼吸に合わせて微かに震えた。
日が過ぎても朝の白は、やはり同じ濃さで落ちてくるのに、食卓の配置だけが昨日と違っていた。
ダイニングの椅子が一脚、ぽっかり空いている。座面に置かれた薄いクッションの浅いくぼみだけが残り、そこに誰かがもういないことを、わざわざ示していた。
祐一は、三人分に並んだ皿とカトラリーを、無言で二人分へ戻した。箸置きをひとつ片付け、マグカップを棚へ戻す。手順は身体が覚えつつある。その代わり、戻すたびに胸の奥で何かが軋む音がする。
フィカスは同じ向きに。誰も写真は撮らない。カーテンを開けたときだけ、陽の光を気にしてフィカスを動かすことにした。
「いただきます」
結菜はきちんと手を合わせ、小さく頭を下げた。向かいの空席――祐一の隣の席にも一瞬だけ視線を落とす。何も言わない。
パンの端が乾いていくのを見ながら、祐一はふと、机の足元で薄い紙切れが擦れる音に気づいた。昨夜、片付けたはずのメモ――薄い一筆箋が、テーブルの裏から落ちてきた。手を伸ばすと、指に紙の無機質さが移った。
『引っ越す』
楓の字だ。丸み。止め。跳ね。払い。
読み慣れた癖が、読み慣れない意味を持ったまま、まだ家のどこかに居座っている。
「パパ」
結菜が声を落とす。
「きのう、ここ、みっつだったよ」
視線の先には、マグカップの輪染みがみっつ。昨夜拭いたはずなのに、薄く戻っている。輪のひとつは楓の愛用のカップの直径にぴったりだ。
祐一は笑ってみせる。
「拭き残しだよ。後でちゃんと拭こう」
言いながら、心のどこかがそっと否定した。拭き残しではなく、戻ってくるのだ。朝が来るたび、三人家族の形に。
登校前、結菜が食器棚を覗き、箸を三膳取り出したのを見て、祐一は静かに二膳へ戻した。結菜は怒らない。怒らず、ちらりと空席を見てから、頷いてランドセルを背負う。ずっと続いている儀式を、ひとつだけ減らしたみたいに。
結菜が箸を増やしても、祐一が箸を減らしても、マグカップの跡の数は変わらない。朝になれば三人家族、気が付いて消せば二人家族。そしてまた、朝になれば三人になる。
学校までの一本道は、今日も白かった。朝の光が均一で、影の濃さだけが場所ごとに異なる。横断歩道の白線は途中で薄くなり、足を乗せると、跳ね返される気がする。『そんなはずないのに』と自嘲気味に笑いながら、祐一は白を追いかける。
「パパ、きょうは、はやくむかえにきてね」
「うん」
いつもは、こんなことを言わない。少しだけ祐一は、結菜の言葉に引っかかりを覚える。
「――なんかね、みんな、へんなの」
「どんなふうに?」
「ママいなくなったっていったら「あ、ひっこしたんだ」って、わらうの」




