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開かせるもの  作者: 三嶋トウカ
第四章

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第二十五話


 笑う、という言葉は軽いのに、結菜の声は軽くない。校門で別れ際、担任がこちらへ来た。柔らかな笑顔で、祐一に連絡帳を差し出す。


「お母さま、大変でしょうけど……引っ越し先でもどうかお元気で」


 見覚えのある文字。結菜の名前は、楓が書いた。

 家の中をひっくり返せば、まだ他にもあるかもしれない。だが、時間が経ってしまったから、もう消えてなくなったかもしれない。祐一の頭は、もうどうしようもないこととして、処理しかけていた。必死に、「まだ大丈夫」な部分を手繰り寄せる。

 そんなことを考えていても、祐一は担任へ笑顔を返す以外、何もできない。笑顔の奥で、筆跡をなぞる自分の指が震える。


「……違います。転居じゃありません。消えたんです」


 意を決して口にする。が、担任はただ笑うだけで、言葉を返そうとはしない。


「だって、俺も結菜もここにいるんだぞ? どうして楓一人で引っ越すことになるんだ」

「何か、言いましたか?」


 心の中で塗布止めておくはずの言葉が、勝手に喉を通って出てくる。

 すべての言葉を聞いたはずなのに、担任は笑顔を崩さなかった。


「……いいえ、何も」

「そうですか。では、また」


 まだ、言いたいことはあった。しかし、それ以降の言葉は喉の内側でだけ形になる。そして、歯の裏で、すぐ崩れる。


 結菜を見送り帰ろうとすると、用務員の男性がホースのシャワーで花壇に水を撒いている場面に遭遇した。水の弧が光の中で均一で、その均一さが祐一を苛立たせた。

 そのまま撒いた水が虹を作り、気が付いた男性がそれを見て笑う。その笑顔に無性に腹が立ち、地面を強く蹴って踵を返した。


 外側は、外側で整っている。

 それに含まれないマンション――内側は、いったいどうなっているのか。外からは、どう見えているのか。

 考えても追いつかないことに頭を悩ます。追いつかずに目の前で崩れては、また新たな考えも追いつかないことが浮かぶ。

 帰り道、マンションの管理会社からメールが届いていた。楓宛ではない、自分あてに届いている。今までは、楓が受け取っていたはずなのに。


 『件名:退去に関するご案内』


 本文は定型で、淡々とした語尾が並ぶ。


 『――このたびは、丁寧な退去のご連絡、誠にありがとうございます』


「連絡なんてしてないぞ……」


 親指でメール画面を消し、すぐに電源を落とした。バックライトが消えて、画面の黒が自分を映した途端、なぜか楓の横顔がよぎる。それは、見てはいけない角度だった。見た瞬間、楓の顔が影と重なり、白いもやがかかって消えた。


 一階エントランスの掲示板に、他の掲示物と並んで、小さな紙が一枚増えていた。


 ――全員揃うまで、退去とはなりませんのでご安心ください。

 ――よくあることです。


 白地の紙の端が、ほんの僅かにめくれている。貼り直した跡のようにも見え、最初からそうだったようにも見える。

 本音を言えば『言っている意味がわからない』だった。そして『何度同じことを言えば、気が済むのだろう』だ。だが、それが当たり前のこのマンションで、祐一は異端になりきれなかった。

 よくあること。同じ注意が入るのはよくあること。住人がいなくなるのもよくあること。

 気持ちの悪いほどに便利な道具へとなり下がった言葉が、頭の中に住み着いて離れない。拒絶しようにも、言いくるめられてしまう。


「すみません」


 管理人室の小窓をノックすると、灰色の作業着の男が出てきた。相変わらず、胸ポケットには赤いスタンプ。


「妻が、いなくなりました」


 話の始めに、楓がいなくなったときと同じ台詞をあえて吐く。


「……存じております」


 ほんの少し、管理人の眉毛の端が動いた。


「では、妻……妻の楓の前後に、いなくなった住人は?」

「と、おっしゃいますと?」

「……退去した住人は」


 使いたくない言葉を口にする。乾いた舌が口内に貼り付いて、その先は言えなかった。

 歯噛みする祐一を見て、管理人は首を傾げる。三秒置いてその首を元の位置に戻し、口を開いた。


「記録は、退去の手続きが伴うまで動きません」

「退去じゃ」


 ない、と続けようとして気付く。まだ、正式な退去のお知らせは自分の元に来ていない。正式に紙が貼り出されてもいない。だって、さっき貼り出してあった紙にも、こう書いてあったじゃないか。『全員揃うまで、退去とはなりませんのでご安心ください。』と。


 つまりは――


 楓は、このマンションのどこかに、まだいるということなのではないだろうか。


「……言葉は、どちらでも」


 乾いた声。掟の宣言。だが、今日に限って、その言葉は救いに見えた。まるで、一本の細い糸のような。

 祐一は、管理人の胸ぐらを掴みたい衝動を抑え、頭を下げて背を向けた。背中へ落ちてくるのは、いつもと同じ言葉。


「ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です」


 忘れる練習は、早いほど良い――と、いつもなら付け足す声が、なぜか今日は聞こえなかった。


 その晩、家の空気は細く張り詰めていた。

 食器は二人分だけ。椅子は二脚を寄せて、空席は壁に向けて押しやった。テーブルの真ん中に、結菜が書いた小さな紙切れを置く。


 『あけない ひろわない よるはあいさつする(ちいさいこえで)』


 幼い字が頼りない。その頼りなさが、逆にお守りのような安心感を与えてくれる。

 祐一はそれをドアの内側に貼った。貼っている間、静かな空気の水位が上がる。耳の内側まで満たされたころ、あれが来た。


 ――こん、こん、こん。


 軽やかで硬いのに、沈むような重さがある。一定の間隔。心臓と合ってしまいそうなテンポ。

 結菜が布団の中で耳を塞ぐ。唇を微かに噛んでいる。

 ようやく、家族の意志が合わさった気がした。


 祐一はドアの前に立ち、覗き穴を覗いた。外と中を隔てる、丸いガラスの輪郭が冷たい。

 誰もいない。誰もいないのに、誰かがいるとしか言いようのない密度が、扉の外側で立ち上がっている。金属の向こうで、音の出所がこちらを待っている。


 応じなければ、ノックはただの音だ。応じたら、その瞬間変わってしまう。それこそ、迎え入れるための、門に。


 思うだけで、言葉に出来ない。それでも、喉の奥で言葉を反芻し、息を詰めた。

 三回目のノックと、己の呼吸の終わりが一致した瞬間、祐一は自分の呼気を嚙み殺すように止めた。


「……もう二度と、応じない」


 音はそれから二度ほど続き、やがて、ぴたりと止まった。止まった後に、扉の表面だけが一度微かに沈み、元へ戻る。呼吸の終わりのような、血の気が引く瞬間。

 床板の下を、白い水がゆっくり流れていく映像が、頭の奥に浮かんだ。映像は最後の一滴の手前で切れる。


 次の日の朝、結菜は無言で祐一に手を差し出した。小さな手の平は冷たく、指先は少し汗ばんでいる。


「おとうさん、やくそくして。ドア、あけないって。ママでも、ドア、あけないって」


 今までは開けようとしていた娘からの、正反対のお願い。祐一はその手を握り返した。握る力が強すぎないように注意して、しかし離すことのないように。


「ああ。約束する。二人で一緒にいよう」


 言いながら、自分の声がこの家の空気へ吸い込まれていくのを感じる。空気は、吸い込んだ言葉の重さを、その言葉の数だけ増やしていく。

 結菜が言葉を書いた紙切れは、ドアの内側で朝の白を受け、少しだけ反射した。楓の手が紡いだ写真の場所のように、一瞬だけ明るく見えた。


 朝食後、祐一は玄関の内側にチェーンを追加でかけた。金属の重さが、頼りない心に重石を足す。このチェーンをかける作業は、もう日課へ変わった。

 その音に、共同廊下の白が煙のように濃くなる。濃くなって、すぐに平らへ戻った。

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