第二十五話
笑う、という言葉は軽いのに、結菜の声は軽くない。校門で別れ際、担任がこちらへ来た。柔らかな笑顔で、祐一に連絡帳を差し出す。
「お母さま、大変でしょうけど……引っ越し先でもどうかお元気で」
見覚えのある文字。結菜の名前は、楓が書いた。
家の中をひっくり返せば、まだ他にもあるかもしれない。だが、時間が経ってしまったから、もう消えてなくなったかもしれない。祐一の頭は、もうどうしようもないこととして、処理しかけていた。必死に、「まだ大丈夫」な部分を手繰り寄せる。
そんなことを考えていても、祐一は担任へ笑顔を返す以外、何もできない。笑顔の奥で、筆跡をなぞる自分の指が震える。
「……違います。転居じゃありません。消えたんです」
意を決して口にする。が、担任はただ笑うだけで、言葉を返そうとはしない。
「だって、俺も結菜もここにいるんだぞ? どうして楓一人で引っ越すことになるんだ」
「何か、言いましたか?」
心の中で塗布止めておくはずの言葉が、勝手に喉を通って出てくる。
すべての言葉を聞いたはずなのに、担任は笑顔を崩さなかった。
「……いいえ、何も」
「そうですか。では、また」
まだ、言いたいことはあった。しかし、それ以降の言葉は喉の内側でだけ形になる。そして、歯の裏で、すぐ崩れる。
結菜を見送り帰ろうとすると、用務員の男性がホースのシャワーで花壇に水を撒いている場面に遭遇した。水の弧が光の中で均一で、その均一さが祐一を苛立たせた。
そのまま撒いた水が虹を作り、気が付いた男性がそれを見て笑う。その笑顔に無性に腹が立ち、地面を強く蹴って踵を返した。
外側は、外側で整っている。
それに含まれないマンション――内側は、いったいどうなっているのか。外からは、どう見えているのか。
考えても追いつかないことに頭を悩ます。追いつかずに目の前で崩れては、また新たな考えも追いつかないことが浮かぶ。
帰り道、マンションの管理会社からメールが届いていた。楓宛ではない、自分あてに届いている。今までは、楓が受け取っていたはずなのに。
『件名:退去に関するご案内』
本文は定型で、淡々とした語尾が並ぶ。
『――このたびは、丁寧な退去のご連絡、誠にありがとうございます』
「連絡なんてしてないぞ……」
親指でメール画面を消し、すぐに電源を落とした。バックライトが消えて、画面の黒が自分を映した途端、なぜか楓の横顔がよぎる。それは、見てはいけない角度だった。見た瞬間、楓の顔が影と重なり、白いもやがかかって消えた。
一階エントランスの掲示板に、他の掲示物と並んで、小さな紙が一枚増えていた。
――全員揃うまで、退去とはなりませんのでご安心ください。
――よくあることです。
白地の紙の端が、ほんの僅かにめくれている。貼り直した跡のようにも見え、最初からそうだったようにも見える。
本音を言えば『言っている意味がわからない』だった。そして『何度同じことを言えば、気が済むのだろう』だ。だが、それが当たり前のこのマンションで、祐一は異端になりきれなかった。
よくあること。同じ注意が入るのはよくあること。住人がいなくなるのもよくあること。
気持ちの悪いほどに便利な道具へとなり下がった言葉が、頭の中に住み着いて離れない。拒絶しようにも、言いくるめられてしまう。
「すみません」
管理人室の小窓をノックすると、灰色の作業着の男が出てきた。相変わらず、胸ポケットには赤いスタンプ。
「妻が、いなくなりました」
話の始めに、楓がいなくなったときと同じ台詞をあえて吐く。
「……存じております」
ほんの少し、管理人の眉毛の端が動いた。
「では、妻……妻の楓の前後に、いなくなった住人は?」
「と、おっしゃいますと?」
「……退去した住人は」
使いたくない言葉を口にする。乾いた舌が口内に貼り付いて、その先は言えなかった。
歯噛みする祐一を見て、管理人は首を傾げる。三秒置いてその首を元の位置に戻し、口を開いた。
「記録は、退去の手続きが伴うまで動きません」
「退去じゃ」
ない、と続けようとして気付く。まだ、正式な退去のお知らせは自分の元に来ていない。正式に紙が貼り出されてもいない。だって、さっき貼り出してあった紙にも、こう書いてあったじゃないか。『全員揃うまで、退去とはなりませんのでご安心ください。』と。
つまりは――
楓は、このマンションのどこかに、まだいるということなのではないだろうか。
「……言葉は、どちらでも」
乾いた声。掟の宣言。だが、今日に限って、その言葉は救いに見えた。まるで、一本の細い糸のような。
祐一は、管理人の胸ぐらを掴みたい衝動を抑え、頭を下げて背を向けた。背中へ落ちてくるのは、いつもと同じ言葉。
「ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です」
忘れる練習は、早いほど良い――と、いつもなら付け足す声が、なぜか今日は聞こえなかった。
その晩、家の空気は細く張り詰めていた。
食器は二人分だけ。椅子は二脚を寄せて、空席は壁に向けて押しやった。テーブルの真ん中に、結菜が書いた小さな紙切れを置く。
『あけない ひろわない よるはあいさつする(ちいさいこえで)』
幼い字が頼りない。その頼りなさが、逆にお守りのような安心感を与えてくれる。
祐一はそれをドアの内側に貼った。貼っている間、静かな空気の水位が上がる。耳の内側まで満たされたころ、あれが来た。
――こん、こん、こん。
軽やかで硬いのに、沈むような重さがある。一定の間隔。心臓と合ってしまいそうなテンポ。
結菜が布団の中で耳を塞ぐ。唇を微かに噛んでいる。
ようやく、家族の意志が合わさった気がした。
祐一はドアの前に立ち、覗き穴を覗いた。外と中を隔てる、丸いガラスの輪郭が冷たい。
誰もいない。誰もいないのに、誰かがいるとしか言いようのない密度が、扉の外側で立ち上がっている。金属の向こうで、音の出所がこちらを待っている。
応じなければ、ノックはただの音だ。応じたら、その瞬間変わってしまう。それこそ、迎え入れるための、門に。
思うだけで、言葉に出来ない。それでも、喉の奥で言葉を反芻し、息を詰めた。
三回目のノックと、己の呼吸の終わりが一致した瞬間、祐一は自分の呼気を嚙み殺すように止めた。
「……もう二度と、応じない」
音はそれから二度ほど続き、やがて、ぴたりと止まった。止まった後に、扉の表面だけが一度微かに沈み、元へ戻る。呼吸の終わりのような、血の気が引く瞬間。
床板の下を、白い水がゆっくり流れていく映像が、頭の奥に浮かんだ。映像は最後の一滴の手前で切れる。
次の日の朝、結菜は無言で祐一に手を差し出した。小さな手の平は冷たく、指先は少し汗ばんでいる。
「おとうさん、やくそくして。ドア、あけないって。ママでも、ドア、あけないって」
今までは開けようとしていた娘からの、正反対のお願い。祐一はその手を握り返した。握る力が強すぎないように注意して、しかし離すことのないように。
「ああ。約束する。二人で一緒にいよう」
言いながら、自分の声がこの家の空気へ吸い込まれていくのを感じる。空気は、吸い込んだ言葉の重さを、その言葉の数だけ増やしていく。
結菜が言葉を書いた紙切れは、ドアの内側で朝の白を受け、少しだけ反射した。楓の手が紡いだ写真の場所のように、一瞬だけ明るく見えた。
朝食後、祐一は玄関の内側にチェーンを追加でかけた。金属の重さが、頼りない心に重石を足す。このチェーンをかける作業は、もう日課へ変わった。
その音に、共同廊下の白が煙のように濃くなる。濃くなって、すぐに平らへ戻った。




