第二十六話
昼、仕事を早退してまた役所へ向かった。住民票の世帯構成は変わらない。窓口の職員は、光の当たり具合によって年齢が変わって見える。
「すみません、家族が一人いなくなった場合の手続きは?」
「いなく……? 転出届を出されれば、転出される方が自動的に世帯主となります。一人暮らしですか?」
「転出じゃないんです」
「……でしたら、世帯の分離ですか? 住所の変更がない場合はこちらで」
言葉は丁寧で、意味だけが丁寧ではない。
印字された各種届出の説明書には「転居」「転出」「転入」といった語が整列する。そこに当然ながら「消失」はない。
転出したわけでも、退去したわけでもない。消失したのだ。
消失した事実も消失している。つまりは、輪郭だけ残って、いなかったことと同じなのだ。
帰る途中、通りのベンチで男性が、赤い犬のリードを持って座っていた。見覚えのある手首。リードの色。簡単な挨拶を交わす間柄。
「こんにちは」
男性の笑い皺はいつもより深く、優しい。
「こんにちは」
「退去に、時間がかかりそうですか?」
「それは、誰の?」
聞き返すと、リードの先で「わん」と犬が鳴いた気がした。目の前に、犬はいないのに。
「紙が、まだありませんでしたので」
「妻でしょうか。それとも、私たち家族でしょうか」
結菜はまだ小さい。離婚するわけでもないのに、単身赴任するわけでもないのに、一人だけ外へ出るのはあり得ない。
男性の言う、紙が貼り出される可能性。それは、このマンションから楓の存在が跡形もなくなったとき。もしくは、祐一たち家族の存在が、跡形もなく消え去ったときだと、彼は認識していた。
これには、妙な確信があった。だが、何の根拠もない。根拠はないのに、すべて表を向いたカードを選ぶ神経衰弱のように、間違える要素がないと感じた。
「言葉は、どちらでも」
管理人と同じ言葉が、別の口から滑り出る。
男性は立ち上がり、空のリードを一度だけ軽く持ち上げた。犬はいない。いないのに、リードの先の空気だけが弾む。
「忘れる練習は、早いほど良いですよ」
祐一は頷かない。頷かず、視線をリードの先から外す。
「犬は、元気ですか」
もうきっと、あの犬には会えない。祐一は本能で悟る。
「……犬でも退去するということを、私は初めて知りました」
男性の表情は笑っている。笑っているのに、両の目から涙が頬を伝って流れた。
「……忘れていいんですか?」
祐一は遠慮せずにそう言った。
「どう見たって、忘れてなんかないじゃないか」と、大声で言いたかったが言えなかった。犬がいないのに握られた真っ赤なリード。欠かさない散歩。そういえば、マンションで会うとき、歩幅は犬のスピードに合わせている気がした。
「越してきたのは、私たちですから」
そう言って、男性は軽く会釈をすると、マンションで会ったときと同じ歩幅で歩き出した。リードの先は引きずられて、カラビナがコンクリートにぶつかり「からから」と音を立てる。それでも、いるはずの犬に配慮している、そんな空気があった。
距離を置いて歩き、時間差で帰宅してすぐ、祐一はノートを開いた。罫線の薄い紙の上で、今日の断片が黒い点になり、線になり、列になっていく。
・ダイニング:三人分。いつの間にか戻る。輪染みみっつ。
・学校:連絡帳「転居先でも」/教師の笑顔。
・ノック:三拍。応じず。だが外には誰かいる。
・父娘の約束:紙/ドアの内側。
・区役所:手続き語彙。
・犬の男性:赤いリード/言葉の一致。
・犬:なし。
ペン先の重さが、紙の繊維に刻み痕を残す。その痕が、消えることを引き延ばす唯一の術に思えた。
書き終えてページを閉じる瞬間、玄関の方角から、ごく小さな呼吸が聞こえた気がした。耳に触れた微細な出入り。――人か、犬か、それとも、何者にも成らざる者か。扉の向こうの誰かが、こちらの記録の速度を測っているような音だった。
夜半、用もないのに共同廊下へ出た。遅い時間に、一人結菜を家に残すのは気が引ける。たとえ、同じマンション内だったとしても。それでも、好奇心には勝てなかった。
非常灯の緑が、海底の光のようにゆらめく。曲がり角で足音が一度だけして、すぐに消えた。足音だけが「誰かがいた」を証明し、肝心の本人はどこにもいない。
もう、驚かない。よくあること、が、頭の奥に馴染んでいく。
エレベータの表示盤は、何も示していなかった。
それなのに、祐一が前に立つと、数字がゆっくり動き出し、7、6、5と降り、4で止まり、一度だけ『B』を示した。すぐにまた7へ戻る。
扉は閉じたまま。内部だけが、一度膨らんで、しずかに萎む。呼吸だ。
この地下へ行きたいのに、祐一は行き方がわからなかった。会談は一階で行き止まりだし、エレベータのボタンにも地下はない。しかし、もし楓がこのマンションの中にいるとしたら。科の性があるのは、この地下だけだと思っていた。
「……どうやって行けばいいんだよ……」
弱弱しく言う。唇はほとんど揺れずに、喉の奥は貼り付いていた。
――『乗りますか?』
その声は、どこからでもないところから、機械の音に紛れて落ちてきた。男女の区別がない。金属と人の中間の硬さ。
引っ越しの翌日に聞いた、あのときの声と同じだった。
「……乗りません」
あの時と違うのは、はっきりと意思表示を示したこと。
自分自身に向けて、そして、この装置に向けて。
エレベータは、何も言わずに、もう一度だけ膨らみ、やがて平らへ戻った。扉の線が、白い壁に吸い込まれていくのを見届けて、祐一は踵を返した。
背中へ、誰かに数えられている気配がひとつぶん、遅れてついてくる。
――『乗りますか?』
遠くから聞こえた。先ほどよりも遠くなったエレベータから。
「……楓?」
無機質で男女ともわからなかった声が、明確な色を持って祐一の脳を刺激する。
誰かの気配も忘れて振り返る。急ぎ足でエレベータへ戻るも、もうその声は聞こえなかった。
深夜、眠れないままリビングのソファに座り、楓のSNSアカウントを開いた。
昨日戻っていた投稿が、今夜はまた抜け落ちている。空白の枠だけが並び『「この投稿は表示できません』の文字。読み込み直す。何度試してみても、元に戻る条件が変わらない。
スクリーンショットを撮ると、保存された画像は真っ白だった。画面に黒い小さな文字が残る。
――保存に失敗しました。
知っている。何度も見た。何度も見たのに、試すことを止められない。
それでも、ほんの一瞬、サムネイルの中で楓の指がケーキを指して笑っているのが見えた気がした。次の瞬間、白。
アルバムの顔認識の一覧から、楓の顔だけが項目ごと消えている。
ここからも、楓の存在が消えてしまった。その事実に、祐一はスマホを伏せた。伏せても何も変わらないのに、その行為が正義だと思った。
気分を変えようとリビングへ向かい、カーテンの隙間から外を覗いた。窓の外、同型のマンション。今自分の手でよけたカーテンが、風もないのにふっと揺れる。
――誰かが、こちらを見ている。
一瞬、楓の面影。次の瞬間、ただの影に変わった。影のほうが本物で、楓の面影が錯覚だという確信が、なぜか生まれてしまう。
――同じ形の建物に、同じような家族が住み、同じように誰かを失っている。
そう思うと、胃の中の隙間が冷たくなった。
窓の鍵を確認して、カーテンを隙間なく閉じる。小さなカギと大きなカーテンが、こちら側をこちら側として区切る。小さな勝利。小さな支え。
結菜は寝つきが悪くなった。枕元には、クレヨンの入った箱。自分で折ったクレヨンの繋ぎ目を、愛おしそうに指で撫でている。
「パパ」
「うん」
「ママ、かえってくるんだよね?」




