第二十七話
祐一は、返事を飲み込んだ。飲み込み切れずに、喉の奥で「帰ってくる」が擦れて音になりかける。言葉は、扉でもある。
結菜の手を握る。小さな骨が、皮膚の下で確かに触れる。生きている。今ここにいる。
眠りに落ちる瞬間、結菜のまつ毛が震え、唇が動いて、何か言いかけた。言葉にはならず、すぅ、と呼気だけが出た。呼気は白くないのに、白く見えた。
――翌朝の白は、少し濃かった。
空席は、昨日と同じ角度で壁に向いている。テーブルには二人分の食器。輪染みはふたつ。そう、減った。ついに、ふたつになった。いや、なってしまった。
だが、シンクの底に、薄く茶色の跡――マグカップの縁の幅で――が、改に顔を出していた。祐一はスポンジでそっと擦った。跡は簡単に消えた。消えたが、彼の指先の腹に、見えない茶が移る。
集合ポストの場所で、いつもの男女が立ち話をしていた。
「また、どこか」
「さあね。よくあることよ」
「本当に、よくある」
「いやだわ」
「いやですね」
目の前を祐一が通り過ぎても、二人は顔をこちらへ向けない。笑いの角度は左右対称だった。
だが、その会話が、正しいかどうかがわからない。
――ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です。
濃さだけが、毎朝ほんの少しずつ増している気がした。
忘れることを強いる文が、忘れられないように濃くなっていく。矛盾ではない。掟というものは、いつだってそうやって定着する。
結菜を送り出したあと、祐一は机に設計図を広げた。会社は休んだ。チェーンをかけ、靴はしまってある。忘れてはいけない。
玄関。エレベータ。太い線。薄い線。
指でなぞるたび、線は自分の脈と同じテンポで脈打つように見える。いつものノックのリズムと重なる。三拍。間。三拍。
――きっともう、逃げ場は、ない。
だからこそ、暴くしかない。
避難図では足りない。竣工図が要る。建築確認の写しでは黒く塗られた名前の下へ降りる必要がある。
加賀美。代々。建て替え。更新。
都市の内側に埋め込まれた、開けさせるための装置。玄関は閾で、エレベータは門。
地下一階。機械室。印刷のかすれた枠。途切れた扉の記号。
あの一瞬だけ映った「B」の文字。あれは表示のエラーではない。ここに地下がある。表に出ない形である。――そう思うほかない。
ペンを取り、ノートの新しいページに大きく書く。
――忘れない。
――書く。
――暴く。
――娘を守る。
書いた四行が、紙の上で小刻みに脈打つ。そう見える。
窓の外、隣のマンションが砂嵐のように揺れる。揺れたと思ったときには、元に戻っていた。
エレベータの到着音が、遠くで一度だけした。祐一は目を閉じ、深く、長く息を吐いた。吐いた息はすぐに消えたが、輪郭だけ残った気がした。
夕方、結菜を連れてスーパーへ行く途中、共用廊下の角で、また二重の影が重なった。
薄いほうの影が、濃いほうへ追いつくまでの時間が、昨日より少し長い。
動かない。祐一は立ち止まり、影がひとつになるのを待った。待ち方が、少しだけ上手くなっている自分に気づく。あの男性が言っていた「コツ」の意味が、気付きたくもない角度でわかる。
「パパ」
「うん」
「ママ、かえってくる?」
祐一は、結菜の髪を撫でた。答えは言葉にしなかった。言葉は扉だ。開けても、閉じても、こちらが削れる。
代わりに、指で四拍子を静かに取った。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。結菜がそれに合わせて、息を整えた。整えるのに、二拍多くかかった。
「パパ、ここにいてね」
代わりの言葉が投げ出される。
「パパはここにいるよ」
言われた言葉を、ほぼそのまま返す。他の言葉は見つからなかった。それでも、結菜はほっとしたような表情を浮かべている。
「よかった。でも、ママにあいたい」
「……そうだね、パパも会いたい」
「またすぐにあえる?」
縋るような視線に、祐一は思わず俯いた。
「どうかな、結菜はすぐにでも会いたい?」
「あいたい!」
「じゃあ、会えるようにお祈りしようか」
気休めの言葉。こんな言葉でも、今はあのノックの音のように軽やかで硬くて重い。
「ママに、すぐにまたあえますように」
「楓に、すぐにまた会えますように」
胸の前でぎゅっと手を組んで、両目を閉じて祈る結菜の姿は、涙が零れそうなほど神々しく見えた。
楓が帰ってこなくとも、いつもの要に夜はやってくる。心なしか、窓の白が昼間より濃い気がした。もやのかかったような夜景は、窓の向こうで冷たさだけ放つ。
外の廊下から、エレベータの問いは来ない。ノックも今日は来ない。来ない夜がある。いつもならいいのに。何もなければいいのに。
その代わり、どこかで水が一筋だけ落ちている気配が、長く続いた。
祐一はノートを開き、今日の断片をまた黒にして並べ、最後に四行の誓いをもう一度なぞった。インクの濃さが、ほんの僅かに増す。増やすたび、胸の中央で小さな抵抗が生まれる。
その小さな抵抗こそ、自分たちの「普通」だと思い直す。
一人結菜の寝息を確かめ、部屋の灯りをひとつずつ落とす。
最後に残した灯りの下で、設計図の玄関とエレベータの線が、なぜか重なって見えた。
その重なりはすぐに消えて、祐一の脳裏に不穏な影だけを残す。
――逃げ場はない。
――だが、暴くしかない。
祐一は目を閉じ、数える。三拍、間。三拍。
呼吸の内側で、扉がひとつ、静かに閉まる音がした。生活の音。普通の音。
その普通を、胸の真ん中で掴み直し、眠りの縁まで持っていく。掴んだ感触は薄いが、確かだった。小さく、しかし確かな抵抗だった。
いつだって、朝の白は何度迎えても揺るがない。窓からこぼれる均一の光が、食卓の輪郭を薄く起こす。おかしなことに、誰も写真を撮らなくなったのに、今日のマグカップの取手は、いつもの五ミリ右を指していた。それがわかるほどに、祐一は楓の仕草を覚えていた。
そして、拭いても残るマグカップの跡が、なぜか今日はみっつに戻っていた。心配すればいいのか、安心すればいいのかわからない。
「いただきます」
結菜はきちんと手を合わせ、空席のほうへ一瞬だけ視線を落とした。壁際に椅子ごと寄せた空席。誰も座れない。座らない。それなのに、結菜はまるで「誰かいるように」ときどき視線を送る。二人だけの言葉は続かない。そのままパンの端を小さく齧る。
「パパ」
結菜が小さな声で言う。
「きのう、また、おじさんがしずかにねって」
祐一は、パン屑を指先で集めながら、僅かに頷いた。
おじさん――目のない顔。白い空洞。浮いた足。あの絵の黒い丸は、冷蔵庫の扉で数を増やし、紙の白だけが、光の下で微かに浮いている。
未だに、あれが誰なのかわからない。だが最近、犬の散歩をしている男性にどこか似ている、と、そう感じ始めていた。
忘れたふりを、してみるか――
言葉にならない言葉が、祐一の喉の奥で転がる。忘れたふりをして、ここから目を逸らして生き延びる。忘れてしまえば、欠けた歯の隙間には舌を差し込まないで済む。痛くない。削れない。引っかからない。
――だが、ノートの白い頁は開いていた。自分で開いたのだ。最後のページの端には、細い筆圧だけが残り、インクが退いている行がある。爪の背で裏を撫でれば、圧だけが指腹に訴えかける。
ふと、太陽の光が遮られたことに気付く。厚い雲が空を覆い、部屋の中を暗くする。
電気を点けようと席を立ったとき、祐一の目に影が映り込んだ。
「嘘、だろう?」
それは、結菜にも聞こえないほど、祐一自身、口から出たとは信じられないほど、小さな小さな声だった。




