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開かせるもの  作者: 三嶋トウカ
第四章

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第二十七話


 祐一は、返事を飲み込んだ。飲み込み切れずに、喉の奥で「帰ってくる」が擦れて音になりかける。言葉は、扉でもある。

 結菜の手を握る。小さな骨が、皮膚の下で確かに触れる。生きている。今ここにいる。

 眠りに落ちる瞬間、結菜のまつ毛が震え、唇が動いて、何か言いかけた。言葉にはならず、すぅ、と呼気だけが出た。呼気は白くないのに、白く見えた。


 ――翌朝の白は、少し濃かった。


 空席は、昨日と同じ角度で壁に向いている。テーブルには二人分の食器。輪染みはふたつ。そう、減った。ついに、ふたつになった。いや、なってしまった。

 だが、シンクの底に、薄く茶色の跡――マグカップの縁の幅で――が、改に顔を出していた。祐一はスポンジでそっと擦った。跡は簡単に消えた。消えたが、彼の指先の腹に、見えない茶が移る。


 集合ポストの場所で、いつもの男女が立ち話をしていた。


「また、どこか」

「さあね。よくあることよ」

「本当に、よくある」

「いやだわ」

「いやですね」


 目の前を祐一が通り過ぎても、二人は顔をこちらへ向けない。笑いの角度は左右対称だった。

 だが、その会話が、正しいかどうかがわからない。


 ――ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です。


 濃さだけが、毎朝ほんの少しずつ増している気がした。

 忘れることを強いる文が、忘れられないように濃くなっていく。矛盾ではない。掟というものは、いつだってそうやって定着する。


 結菜を送り出したあと、祐一は机に設計図を広げた。会社は休んだ。チェーンをかけ、靴はしまってある。忘れてはいけない。

 玄関。エレベータ。太い線。薄い線。

 指でなぞるたび、線は自分の脈と同じテンポで脈打つように見える。いつものノックのリズムと重なる。三拍。間。三拍。


 ――きっともう、逃げ場は、ない。


 だからこそ、暴くしかない。

 避難図では足りない。竣工図が要る。建築確認の写しでは黒く塗られた名前の下へ降りる必要がある。

 加賀美。代々。建て替え。更新。

 都市の内側に埋め込まれた、開けさせるための装置。玄関は閾で、エレベータは門。

 地下一階。機械室。印刷のかすれた枠。途切れた扉の記号。

 あの一瞬だけ映った「B」の文字。あれは表示のエラーではない。ここに地下がある。表に出ない形である。――そう思うほかない。


 ペンを取り、ノートの新しいページに大きく書く。


 ――忘れない。

 ――書く。

 ――暴く。

 ――娘を守る。


 書いた四行が、紙の上で小刻みに脈打つ。そう見える。

 窓の外、隣のマンションが砂嵐のように揺れる。揺れたと思ったときには、元に戻っていた。

 エレベータの到着音が、遠くで一度だけした。祐一は目を閉じ、深く、長く息を吐いた。吐いた息はすぐに消えたが、輪郭だけ残った気がした。


 夕方、結菜を連れてスーパーへ行く途中、共用廊下の角で、また二重の影が重なった。

 薄いほうの影が、濃いほうへ追いつくまでの時間が、昨日より少し長い。

 動かない。祐一は立ち止まり、影がひとつになるのを待った。待ち方が、少しだけ上手くなっている自分に気づく。あの男性が言っていた「コツ」の意味が、気付きたくもない角度でわかる。


「パパ」

「うん」

「ママ、かえってくる?」


 祐一は、結菜の髪を撫でた。答えは言葉にしなかった。言葉は扉だ。開けても、閉じても、こちらが削れる。

 代わりに、指で四拍子を静かに取った。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。結菜がそれに合わせて、息を整えた。整えるのに、二拍多くかかった。


「パパ、ここにいてね」


 代わりの言葉が投げ出される。


「パパはここにいるよ」


 言われた言葉を、ほぼそのまま返す。他の言葉は見つからなかった。それでも、結菜はほっとしたような表情を浮かべている。


「よかった。でも、ママにあいたい」

「……そうだね、パパも会いたい」

「またすぐにあえる?」


 縋るような視線に、祐一は思わず俯いた。


「どうかな、結菜はすぐにでも会いたい?」

「あいたい!」

「じゃあ、会えるようにお祈りしようか」


 気休めの言葉。こんな言葉でも、今はあのノックの音のように軽やかで硬くて重い。


「ママに、すぐにまたあえますように」

「楓に、すぐにまた会えますように」


 胸の前でぎゅっと手を組んで、両目を閉じて祈る結菜の姿は、涙が零れそうなほど神々しく見えた。


 楓が帰ってこなくとも、いつもの要に夜はやってくる。心なしか、窓の白が昼間より濃い気がした。もやのかかったような夜景は、窓の向こうで冷たさだけ放つ。

 外の廊下から、エレベータの問いは来ない。ノックも今日は来ない。来ない夜がある。いつもならいいのに。何もなければいいのに。


 その代わり、どこかで水が一筋だけ落ちている気配が、長く続いた。

 祐一はノートを開き、今日の断片をまた黒にして並べ、最後に四行の誓いをもう一度なぞった。インクの濃さが、ほんの僅かに増す。増やすたび、胸の中央で小さな抵抗が生まれる。

 その小さな抵抗こそ、自分たちの「普通」だと思い直す。


 一人結菜の寝息を確かめ、部屋の灯りをひとつずつ落とす。

 最後に残した灯りの下で、設計図の玄関とエレベータの線が、なぜか重なって見えた。

 その重なりはすぐに消えて、祐一の脳裏に不穏な影だけを残す。


 ――逃げ場はない。

 ――だが、暴くしかない。


 祐一は目を閉じ、数える。三拍、間。三拍。

 呼吸の内側で、扉がひとつ、静かに閉まる音がした。生活の音。普通の音。

 その普通を、胸の真ん中で掴み直し、眠りの縁まで持っていく。掴んだ感触は薄いが、確かだった。小さく、しかし確かな抵抗だった。


 いつだって、朝の白は何度迎えても揺るがない。窓からこぼれる均一の光が、食卓の輪郭を薄く起こす。おかしなことに、誰も写真を撮らなくなったのに、今日のマグカップの取手は、いつもの五ミリ右を指していた。それがわかるほどに、祐一は楓の仕草を覚えていた。

 そして、拭いても残るマグカップの跡が、なぜか今日はみっつに戻っていた。心配すればいいのか、安心すればいいのかわからない。


「いただきます」


 結菜はきちんと手を合わせ、空席のほうへ一瞬だけ視線を落とした。壁際に椅子ごと寄せた空席。誰も座れない。座らない。それなのに、結菜はまるで「誰かいるように」ときどき視線を送る。二人だけの言葉は続かない。そのままパンの端を小さく齧る。


「パパ」


 結菜が小さな声で言う。


「きのう、また、おじさんがしずかにねって」


 祐一は、パン屑を指先で集めながら、僅かに頷いた。

 おじさん――目のない顔。白い空洞。浮いた足。あの絵の黒い丸は、冷蔵庫の扉で数を増やし、紙の白だけが、光の下で微かに浮いている。

 未だに、あれが誰なのかわからない。だが最近、犬の散歩をしている男性にどこか似ている、と、そう感じ始めていた。


 忘れたふりを、してみるか――


 言葉にならない言葉が、祐一の喉の奥で転がる。忘れたふりをして、ここから目を逸らして生き延びる。忘れてしまえば、欠けた歯の隙間には舌を差し込まないで済む。痛くない。削れない。引っかからない。


 ――だが、ノートの白い頁は開いていた。自分で開いたのだ。最後のページの端には、細い筆圧だけが残り、インクが退いている行がある。爪の背で裏を撫でれば、圧だけが指腹に訴えかける。


 ふと、太陽の光が遮られたことに気付く。厚い雲が空を覆い、部屋の中を暗くする。

 電気を点けようと席を立ったとき、祐一の目に影が映り込んだ。


「嘘、だろう?」


 それは、結菜にも聞こえないほど、祐一自身、口から出たとは信じられないほど、小さな小さな声だった。

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