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開かせるもの  作者: 三嶋トウカ
第四章

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第二十八話


 祐一と結菜、二人が座る席の向かいの壁。座れないはずの空席。椅子の背もたれよりも高い影が寄り添っている。

 扉を開かれた誰かの席だと勘違いされないように、空席を壁に向けて押しやった。それなのに、家族の影だけは頑なに残っていた。

 カーテンを引き、照明をつけ直しても、消えない。人型を作るものは何もない。この部屋にいるのは、大人と子ども、家族二人。

 結菜は視線を逸らし、祐一も声を出さなかった。声にすれば、影は「確かにここにいる」と肯定されてしまう気がしたからだ。


「さ、冷めないうちに食べてしまおう。それに、遅刻するといけない」

「うん」


 ここにいるのは二人だけ。他の何かが入る余地のないように、祐一は心を壁で囲った。


 ――ここは、忘れさせる。

 ――忘れない。書く。


 家を出る直前、祐一はペンを取り、ノートに書かれたその二行をなぞり直した。なぞれば戻る、というわけではない。ただ、線の存在だけが濃くなる。黒は増えず、残るのは「痕」のほうだ。


「パパ、きょうも、のらない?」


 結菜の問いは唐突だったが、意味はすぐわかる。


「できるだけ階段にする」

「どうして?」

「……いつも、健康のために、だろ?」


 嘘は薄い。けれど、今はそれでいい。嘘の薄さが、家の空気の薄さに馴染む。

 鍵を閉め、白い空気の中を歩きながら、意味もないのに空を眺めた。


「けんこうって、だいじ?」

「あぁ、大事だ」

「ママ、よりも?」


 思いがけない言葉に、足がぴたりと止まる。


「どうして、ママと比べたの?」


 努めて優しく。少し屈んで、目線を合わせた。


「だって、かいだんにはママ、いないんだって」


 一瞬呼吸が止まる。


「どうしてそう思うの?」


 思ったことが言葉になって吐き出される。選んではいられなかった。


「だってそうなんだもん」


 その言葉の後ろに「したまできょうそう!」と追加して、そのまま結菜は駆け足で階段を下りる。とても、追いかける気にはなれなかった。だが、一人で行かせるわけにもいかない。


「……忘れる」


 祐一は小さく呟いた。

 忘れなければ、消される。そう仮定するなら、逆に「あえて忘れる」ことで、生き残れるのではないか。あえて記憶を空白にする。あえて空白を選び取る。

 昨日、管理人も、犬を失ったあの男性も、口を揃えて言った。「忘れる練習は、早いほどいい」と。彼らはそれで生き残っているのだとしたら――


「パパ? どうしたの?」


 先に下へ着いた結菜が、顔を覗き込んでくる。

 無理やり笑顔を作り、祐一は頭を撫でた。


「大丈夫だ。ほら、学校に遅刻してしまうよ。帰りは、寄り道して帰ろうか」

「うん!」


 結菜は嬉しそうに頷く。

 横断歩道の白線を踏むと、靴底のゴムが一瞬滑る。アスファルトの凹凸を感じない。結菜も足を止め、じっと線を見ていた。


「パパ、まっすぐいってるのに、さっきのきがまたある」


 彼女の指差す先、並木の一本が既視感を連れてくる。結菜のランドセルの中で、消しゴムがころりと音を立てた。その音は聞こえないが、そんな気がした。


「……おかしいな」


 確かに通り過ぎたはずの角に、再び同じコンビニの看板が浮かぶ。


 ――戻されている。


 祐一は言葉にしなかった。けれど結菜も気付いている。顔を伏せ、靴先で地面を蹴った。


「ねぇパパ……もし、ママをわすれたら、ぜったいにかえってくる?」


 祐一は返事ができなかった。その問いは「忘れる決意」を固めたばかりの自分を、残酷に突き刺した。忘れても、楓は帰ってこない。忘れられた人は忘れられたままで、二度と目の前には表れないと、そう直感が訴えかけてくる。


 白昼夢でも見たように、次の瞬間景色は元に戻っていた。脚を進めれば、景色も変わる。今度はちゃんと、一歩ずつ前に進んでいる。

 もう校門は目の前にある。けれど門をくぐっても、結菜は教室へ辿り着けないのではないか。そんな予感が祐一の足を鈍らせた。


 結菜を見送り、家に戻って扉を二重に施錠し、チェーンをかけた。金属の確かな重みが心の底へ沈む。この瞬間はどんな状況酔えりも落ち着いた。誰も入れない。入れる意思もない。

 呼吸を整えてから、祐一は右手にノートを持ったまま、管理人室へ向かった。

 朝の廊下の白は昼の白より粘度があって、歩幅の音がすぐ飲み込まれる。どうしてなのか、もう正体はわかっていた。もや。朝のもや。早朝でないのに、冷たさも、湿気も感じられないのに、ここはいつももやがかっている。

 自然現象なのか、このマンション特有なのか、それはわからない。ただ、マンションから出ると、このもやはいつの間にか消えている。


「すみません」


 呼びかければ、灰色の作業着が現れる。胸ポケットの赤いスタンプが、今日も湿っている。


「……はい」

「確認させてください。掲示の『退去』は――転居、ではないですね」


 管理人は、目だけで瞬きをして、口角をほんの僅かだけ持ち上げた。


「言葉は、どれでも」

「妻は引っ越していない。いなくなった。……存在だけ、消えた。けど――掲示はまだ貼られていない。記録は動いていない。ということは」

「ここに、いらっしゃる」


 祐一の喉が、ひゅっ、と音を立てた。

 管理人の声は柔らかい。柔らかいのに、耳の内側を固い輪郭でなぞっていく。


「ここは、住まいです。大きな住まい。出入りは常にあります。いつでも、どこでも」

「出るのか、入るのか、どちらです」

「言葉は、どれでも」


 同じ言葉。だが、その奥が違う音で鳴った。


「……では、何の出入りなんですか」


 縋るように、見えないところで手を握る。祐一はただ「住人のです」と、そう言ってもらえるならそれでよかった。しかし、マンションという大きな箱は、祐一の中では儀式の装置だった。あの加賀美という名の人間が、何かのために作った儀式のための装置。だから、こんな聞き方をした。

 肝は、エレベータと玄関のドア。誰もが通る。必ず。自ら扉を開け、招き入れ、入り込む。


 その場所に入れられる人間は、ただの人間じゃない。器はそうだ、だが、呼び名が違う。


 ――にえ


「ですから、言葉はどちらでも」

「普通、人が消えたら……みんな驚いたり焦ったり、大袈裟な反応をするものだ。何度起こったって、誰が消えたってそれは当たり前じゃない。よくあることじゃない!」

「あなたが、ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です」

「忘れられるわけがない」

「練習すれば、みなさん上手になります。……それに」


 管理人は一拍置き、窓口の向こうの空気をその目で一度撫でた。


「あなた方は、この場所を選んだ」


 祐一は、指の先だけでカウンターの縁を掴んだ。大理石の冷たさが皮膚に貼り付く。


「……選んだ?」

「ここでは、よくあることです」


 笑っていない笑顔。染みひとつない作業着。

 祐一は、胸の内で一つひとつ言葉を切り分けた。「選ぶ」「記録」「退去」「従う」「忘れる」。切り分けても、鋭さはひとつも鈍らない。

 確かに、このマンションに住むことを選んだのは祐一だった。だが、こんなマンションだと知っていたら、選ばなかった。当初は「このマンションしかない」そう思えるほど、魅力的に見えたのに。


「――やめさせるには?」

「何を」

「選ぶことを」

「それは、私の仕事の範囲外です」


 短い返事。短いのに、行き止まりの扉のごとく重い。


「退去の連絡は、家族がお揃いになってから」

「え?」

「ご存じでしょう。お隣の方の、お顔はもう忘れましたか?」

「あ……」


 祐一は息を飲む。確かに隣に住んでいたのに、もう顔も声も思い出せない、あの人。

 認めたくないが、今管理人に言われるまで、祐一は存在すら忘れていた。


「顔も……声も、わからない。思い出せない……」

「結構です。それが忘れるということです」

「そんな」

「お上手です」


 笑顔で拍手をする管理人。すぐに窓は静かに閉じられ、ブラインドの隙間がぴたりと埋まる。祐一の顔が、薄い縞の中で分割された。


 戻る途中、掲示板の紙が一枚増えていた。


 ――『注意:落とし物は拾わず、三日経過後に残っていれば管理人室へ。深夜帯は乗降の意思表示を明確にし、挨拶を励行してください』


 活字は淡々としている。昨日も見た。一昨日も見た。何度も見た。同じ言葉、知っている言葉。それでも、紙の端のテープの糊だけが新しい匂いをしていた。


「俺の頭がおかしくなったのか。それとも、この場所がおかしいのか」


 口にすれば、怪しまれるかもしれない。だが、そんなことはもう関係ないと思うほどに、祐一は連日の出来事に疲れ果てていた。

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