第二十八話
祐一と結菜、二人が座る席の向かいの壁。座れないはずの空席。椅子の背もたれよりも高い影が寄り添っている。
扉を開かれた誰かの席だと勘違いされないように、空席を壁に向けて押しやった。それなのに、家族の影だけは頑なに残っていた。
カーテンを引き、照明をつけ直しても、消えない。人型を作るものは何もない。この部屋にいるのは、大人と子ども、家族二人。
結菜は視線を逸らし、祐一も声を出さなかった。声にすれば、影は「確かにここにいる」と肯定されてしまう気がしたからだ。
「さ、冷めないうちに食べてしまおう。それに、遅刻するといけない」
「うん」
ここにいるのは二人だけ。他の何かが入る余地のないように、祐一は心を壁で囲った。
――ここは、忘れさせる。
――忘れない。書く。
家を出る直前、祐一はペンを取り、ノートに書かれたその二行をなぞり直した。なぞれば戻る、というわけではない。ただ、線の存在だけが濃くなる。黒は増えず、残るのは「痕」のほうだ。
「パパ、きょうも、のらない?」
結菜の問いは唐突だったが、意味はすぐわかる。
「できるだけ階段にする」
「どうして?」
「……いつも、健康のために、だろ?」
嘘は薄い。けれど、今はそれでいい。嘘の薄さが、家の空気の薄さに馴染む。
鍵を閉め、白い空気の中を歩きながら、意味もないのに空を眺めた。
「けんこうって、だいじ?」
「あぁ、大事だ」
「ママ、よりも?」
思いがけない言葉に、足がぴたりと止まる。
「どうして、ママと比べたの?」
努めて優しく。少し屈んで、目線を合わせた。
「だって、かいだんにはママ、いないんだって」
一瞬呼吸が止まる。
「どうしてそう思うの?」
思ったことが言葉になって吐き出される。選んではいられなかった。
「だってそうなんだもん」
その言葉の後ろに「したまできょうそう!」と追加して、そのまま結菜は駆け足で階段を下りる。とても、追いかける気にはなれなかった。だが、一人で行かせるわけにもいかない。
「……忘れる」
祐一は小さく呟いた。
忘れなければ、消される。そう仮定するなら、逆に「あえて忘れる」ことで、生き残れるのではないか。あえて記憶を空白にする。あえて空白を選び取る。
昨日、管理人も、犬を失ったあの男性も、口を揃えて言った。「忘れる練習は、早いほどいい」と。彼らはそれで生き残っているのだとしたら――
「パパ? どうしたの?」
先に下へ着いた結菜が、顔を覗き込んでくる。
無理やり笑顔を作り、祐一は頭を撫でた。
「大丈夫だ。ほら、学校に遅刻してしまうよ。帰りは、寄り道して帰ろうか」
「うん!」
結菜は嬉しそうに頷く。
横断歩道の白線を踏むと、靴底のゴムが一瞬滑る。アスファルトの凹凸を感じない。結菜も足を止め、じっと線を見ていた。
「パパ、まっすぐいってるのに、さっきのきがまたある」
彼女の指差す先、並木の一本が既視感を連れてくる。結菜のランドセルの中で、消しゴムがころりと音を立てた。その音は聞こえないが、そんな気がした。
「……おかしいな」
確かに通り過ぎたはずの角に、再び同じコンビニの看板が浮かぶ。
――戻されている。
祐一は言葉にしなかった。けれど結菜も気付いている。顔を伏せ、靴先で地面を蹴った。
「ねぇパパ……もし、ママをわすれたら、ぜったいにかえってくる?」
祐一は返事ができなかった。その問いは「忘れる決意」を固めたばかりの自分を、残酷に突き刺した。忘れても、楓は帰ってこない。忘れられた人は忘れられたままで、二度と目の前には表れないと、そう直感が訴えかけてくる。
白昼夢でも見たように、次の瞬間景色は元に戻っていた。脚を進めれば、景色も変わる。今度はちゃんと、一歩ずつ前に進んでいる。
もう校門は目の前にある。けれど門をくぐっても、結菜は教室へ辿り着けないのではないか。そんな予感が祐一の足を鈍らせた。
結菜を見送り、家に戻って扉を二重に施錠し、チェーンをかけた。金属の確かな重みが心の底へ沈む。この瞬間はどんな状況酔えりも落ち着いた。誰も入れない。入れる意思もない。
呼吸を整えてから、祐一は右手にノートを持ったまま、管理人室へ向かった。
朝の廊下の白は昼の白より粘度があって、歩幅の音がすぐ飲み込まれる。どうしてなのか、もう正体はわかっていた。もや。朝のもや。早朝でないのに、冷たさも、湿気も感じられないのに、ここはいつももやがかっている。
自然現象なのか、このマンション特有なのか、それはわからない。ただ、マンションから出ると、このもやはいつの間にか消えている。
「すみません」
呼びかければ、灰色の作業着が現れる。胸ポケットの赤いスタンプが、今日も湿っている。
「……はい」
「確認させてください。掲示の『退去』は――転居、ではないですね」
管理人は、目だけで瞬きをして、口角をほんの僅かだけ持ち上げた。
「言葉は、どれでも」
「妻は引っ越していない。いなくなった。……存在だけ、消えた。けど――掲示はまだ貼られていない。記録は動いていない。ということは」
「ここに、いらっしゃる」
祐一の喉が、ひゅっ、と音を立てた。
管理人の声は柔らかい。柔らかいのに、耳の内側を固い輪郭でなぞっていく。
「ここは、住まいです。大きな住まい。出入りは常にあります。いつでも、どこでも」
「出るのか、入るのか、どちらです」
「言葉は、どれでも」
同じ言葉。だが、その奥が違う音で鳴った。
「……では、何の出入りなんですか」
縋るように、見えないところで手を握る。祐一はただ「住人のです」と、そう言ってもらえるならそれでよかった。しかし、マンションという大きな箱は、祐一の中では儀式の装置だった。あの加賀美という名の人間が、何かのために作った儀式のための装置。だから、こんな聞き方をした。
肝は、エレベータと玄関のドア。誰もが通る。必ず。自ら扉を開け、招き入れ、入り込む。
その場所に入れられる人間は、ただの人間じゃない。器はそうだ、だが、呼び名が違う。
――贄。
「ですから、言葉はどちらでも」
「普通、人が消えたら……みんな驚いたり焦ったり、大袈裟な反応をするものだ。何度起こったって、誰が消えたってそれは当たり前じゃない。よくあることじゃない!」
「あなたが、ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です」
「忘れられるわけがない」
「練習すれば、みなさん上手になります。……それに」
管理人は一拍置き、窓口の向こうの空気をその目で一度撫でた。
「あなた方は、この場所を選んだ」
祐一は、指の先だけでカウンターの縁を掴んだ。大理石の冷たさが皮膚に貼り付く。
「……選んだ?」
「ここでは、よくあることです」
笑っていない笑顔。染みひとつない作業着。
祐一は、胸の内で一つひとつ言葉を切り分けた。「選ぶ」「記録」「退去」「従う」「忘れる」。切り分けても、鋭さはひとつも鈍らない。
確かに、このマンションに住むことを選んだのは祐一だった。だが、こんなマンションだと知っていたら、選ばなかった。当初は「このマンションしかない」そう思えるほど、魅力的に見えたのに。
「――やめさせるには?」
「何を」
「選ぶことを」
「それは、私の仕事の範囲外です」
短い返事。短いのに、行き止まりの扉のごとく重い。
「退去の連絡は、家族がお揃いになってから」
「え?」
「ご存じでしょう。お隣の方の、お顔はもう忘れましたか?」
「あ……」
祐一は息を飲む。確かに隣に住んでいたのに、もう顔も声も思い出せない、あの人。
認めたくないが、今管理人に言われるまで、祐一は存在すら忘れていた。
「顔も……声も、わからない。思い出せない……」
「結構です。それが忘れるということです」
「そんな」
「お上手です」
笑顔で拍手をする管理人。すぐに窓は静かに閉じられ、ブラインドの隙間がぴたりと埋まる。祐一の顔が、薄い縞の中で分割された。
戻る途中、掲示板の紙が一枚増えていた。
――『注意:落とし物は拾わず、三日経過後に残っていれば管理人室へ。深夜帯は乗降の意思表示を明確にし、挨拶を励行してください』
活字は淡々としている。昨日も見た。一昨日も見た。何度も見た。同じ言葉、知っている言葉。それでも、紙の端のテープの糊だけが新しい匂いをしていた。
「俺の頭がおかしくなったのか。それとも、この場所がおかしいのか」
口にすれば、怪しまれるかもしれない。だが、そんなことはもう関係ないと思うほどに、祐一は連日の出来事に疲れ果てていた。




