表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
開かせるもの  作者: 三嶋トウカ
第五章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
41/42

第四十一話


 結菜は、楓に向かって両手を伸ばした。伸ばした手は、扉の内側の金属に触れる前に、空気の膜で止まる。膜はぴん、と張って弾力があり、触れる指先ごと記憶を吸う。

 祐一は、その小さな手ごと自分の手で包み込み、ことさらゆっくりと握り込んだ。


「結菜。ママは扉の向こうにいるんじゃない。ここで、今、俺たちの前にいる。一緒にいる。このまま、向こうとこちら、どちらへ行くのかを、誰が決める?」

「んー……わかんない」

「じゃあ、俺たちが決めよう」

「……いっしょ?」

「あぁ、いっしょだ」


 楓の唇が揺れた。言葉は出なかった。

 代わりに、管理人の声が遠くで反響する。「ここに住む限り――」の文句が、いつもより低いトーンになって箱の金属板を震わせる。言葉の輪郭は崩れ、意味だけが粘って残る。

 祐一は、ノートの最終ページを思い出す。

 あのとき書いた言葉は、外の誓いだった。今の自分にもできることならば、どちら側にいても有効だ。守る、という動詞は、場所と無関係に成立する。


「楓。君は、俺たちを押し出すために戻ってきたのか」

「……ううん。ほんとは、抱きしめに来た。でもね、抱きしめたら、ずっと抱きしめたら、全部、終わるの。終わっちゃうの」

「いいよ、終わらせよう」

「いいえ、だめよ。だめなの。怖い、もう、怖いの」

「俺も怖い。結菜も怖い。……でも、楓を独りで置いていくほうが、ずっと怖い」


 箱の呼吸が止まった。

 金属の壁に、ほんの短い間だけ無風が訪れる。膨らみも萎みもない、白紙の一拍。エレベータが、決定のための余白を差し出してきたのだ、と悟る。

 祐一は、扉の隙間へ身を寄せた。楓の輪郭は、手の届く距離にある。だが、そこには必ず「薄い層」が挟まる。

 彼はゆっくりと、額を金属へ当てた。冷たさが骨に沁み、頭の奥で光が粉になる。


「俺たちは――」


 その言葉が終わる前に、結菜が小さく囁いた。


「しずかにね」


 その声は、命令ではない。頼みごとでもない。合図だった。

 祐一は頷き、息を深く吸い込んだ。吸い込む瞬間に、わざと音を立てない。息が音になると、扉が勝手に都合のいい言葉に変換してしまうからだ。


「みっつ、数えて。……ひとつ」


 祐一は、結菜の背を撫でる。


「ふたつ」


 楓の輪郭が、扉に寄ってくる。金属板の内側の影が、外側の光と重なって、二重のゆらぎが消える。


「みっつ」


 扉は、こちらから薄くなった。

 今まで一度も見たことのない動き方だった。押されるのでも引かれるのでもなく、ふっと「薄くなる」ことで、境目そのものが消えた。

 境目が消えると、温度差がなくなる。外の白と内の白が混じり、空気の密度が均等になる。耳の奥の水音が、遠くなって、やがて聞こえなくなる。


「祐一、結菜」


 楓の腕が、初めて三次元の重さで祐一の背を抱いた。

 結菜がはねるように両腕を回す。三人の輪郭が重なる。

 抱擁は、確かに「家族」を作った。作った瞬間、箱の底から低い震えが起きた。

 供犠の完成――機械が、そう告げている。


「……祐一、結菜、あのね」


 楓の耳元の声が、震えと混じる。


「だめだ、言うんじゃない」


 祐一は楓の髪に顔を埋め、そう言った。きっと、楓の紡ごうとした「ありがとう」は、終わりを呼ぶ。礼は扉の言語。ここでは、危険だ。


 三人を包む輪郭の内側が膨らむ。内圧が上がり、その輪郭の外側に、薄い膜が張られる。膜は、内側の温度と脈動を閉じ込めるための、見えないラッピング。

 いつの間にか、見覚えのあるエレベータの箱の中だった。いつもの、箱だった。

 視界の端で、階数表示がゆっくりと落ちる。7、6、5――数字は意味をなくした記号になり、やがて『B』で止まった。

 止まった『B』が、いつものように瞬きで逃げない。固定されたまま、黒が濃くなる。インクではなく、穴の色だ。


 その穴の縁に、設計士一族のロゴが浮かぶ。

 『加賀美設計室』――加賀美の名。


「加賀美……かがみ……鏡……あぁ、なんだ。そういうことか」


 祐一は呟いた。

 背中合わせの鏡の向こうに、都市が広がっている。名前すら様式美に入る、決められた型。

 開かなければ開かなかった。閉じられた場所に別の世界が広がっている。


「こちら側にいたんだな……」


 都市の神格は、鏡面に像を集めるように、住人の輪郭を集め、並べ替え、更新する。

 更新――管理人の声が重なる。「都市は更新されました」――拍子抜けするほど事務的な声。

 ロゴは次の瞬間、紙片に変わった。掲示板の白に刺さり「退去」の二文字が増えて、乾く前の黒で光った。


 結菜の指が、祐一の背中をぎゅっとつかんだ。


「ねえパパ。こわい?」

「あぁ、怖いよ。怖い、すごく」

「じゃあ、パパは、ここ」


 小さな手が、祐一の胸の中央に置かれる。鼓動がゆっくり整い、箱の振動と反相になる。

 ――反相。ずれる。従わない拍。

 祐一は、それを確かめるように深く息を吸い、吐いた。吸うと吐くのあいだに、紙一枚ぶんの余白をつくる。その余白は、まだこちら側に残る小さな陸地だ。


「楓」

「何?」

「一緒に、行こう」

「うん」


 短い合意。

 それは誓約でも、覚悟でもない。ただの選択。選択は、ここでは最も強い儀式だった。

 箱がそれを理解したように、呼吸の方向を変える。

 吸い込む。

 金属の内面が、波打ち、文字と影をまぜこぜにして、三人の足もとへ寄せてくる。白い水の筋が、今度は乾かない。線は線のまま伸び、床の継ぎ目を越えて、肉のほうへ入ってくる。


「ごめんね」


 祐一は、ノートの手触りを想像した。表紙の紙のざらつき、インクだまりの膨らみ、筆圧で凹んだ裏頁。

 その全部を、腕の中の温度に重ねた。


 加賀美の向こうのこの世界で、書けるかどうかがわからなかった。

 はたして、書くものが現実の紙でなくても、書くという行為は成立するか。


 『――成立する』


 誰かの脳の中に、皮膚の上に、金属板の内側に。線は、残る。

 管理人の声が、最後の確認のように落ちた。


「忘れる練習を」


 祐一は、声に向かって、首を横に振った。


「忘れない練習を、ここで続ける」

「祐一」


 楓が微笑む。その笑いは、写真より少し不格好で、それは息がかかる距離で、確実な温度をともなっていた。

 結菜が「しずかにね」ともう一度囁く。その顔は笑顔に満ちていて、一ミリの不安も感じられなかった。

 そして、その言葉を合図に三人は、同時に目を閉じた。


「だいじょうぶだよ」


 最期は、結菜の言葉だった。


 装置は、完成を受け入れた。

 扉は、今度は外側から閉まるのでも内側から閉じるのでもなく「重なって」閉じた。

 金属と白と影が、三枚の薄膜になってスライドし、互いの上に重なって、一枚になった。

 その重なりは、音を立てなかった。

 代わりに、遠い水の一筋が、どこかで切れる音がした。


 ――チン。


 音を立て、開かれたものが自らの意志で閉じる。

 闇は来なかった。

 来たのは、見覚えのある白だった。このマンションに遭って、このマンションではない、白色。

 朝の白と同じ濃さで、だが方向を持たない白。上下も前後もない、密度としての白。

 白の中で、三人の輪郭は解けず、自分たちの形を保った。

 抱擁の圧、皮膚の汗、髪の香り、鼓動の偏差――生活の証拠は、そのまま連れて行かれた。


 ――『篠原家 本日退去』


 活字は淡々と、乾き切った。


 管理人の手に握られた紙。貼り出す位置を確認している。エントランスの住人たちは足を止めない。止めないが、誰もが一瞬だけ視線を落とし、同じ角度で頷いた。


「よくあること」


 薄い笑いが、薄い床を渡っていく。

 だが、その床の下、白の層のさらに下で、誰にも届かない場所で、三人分の「生活の音」が続いていた。

 鍋の蓋の小さな震え。フィカスの葉を回す爪の音。クレヨンの摩擦。

 それらは、都市の内部へ縫い込まれ、更新のたびに微細なずれとして表面へ浮いた。


 箱は、静かに呼吸を再開する。

 表示盤は『1』に戻り、すぐに何も示さなくなった。

 扉の金属には、言葉の跡がなかった。


 ――「失礼します」の不在が、磨かれた鏡面に、長く、長く、残響した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ