第四十一話
結菜は、楓に向かって両手を伸ばした。伸ばした手は、扉の内側の金属に触れる前に、空気の膜で止まる。膜はぴん、と張って弾力があり、触れる指先ごと記憶を吸う。
祐一は、その小さな手ごと自分の手で包み込み、ことさらゆっくりと握り込んだ。
「結菜。ママは扉の向こうにいるんじゃない。ここで、今、俺たちの前にいる。一緒にいる。このまま、向こうとこちら、どちらへ行くのかを、誰が決める?」
「んー……わかんない」
「じゃあ、俺たちが決めよう」
「……いっしょ?」
「あぁ、いっしょだ」
楓の唇が揺れた。言葉は出なかった。
代わりに、管理人の声が遠くで反響する。「ここに住む限り――」の文句が、いつもより低いトーンになって箱の金属板を震わせる。言葉の輪郭は崩れ、意味だけが粘って残る。
祐一は、ノートの最終ページを思い出す。
あのとき書いた言葉は、外の誓いだった。今の自分にもできることならば、どちら側にいても有効だ。守る、という動詞は、場所と無関係に成立する。
「楓。君は、俺たちを押し出すために戻ってきたのか」
「……ううん。ほんとは、抱きしめに来た。でもね、抱きしめたら、ずっと抱きしめたら、全部、終わるの。終わっちゃうの」
「いいよ、終わらせよう」
「いいえ、だめよ。だめなの。怖い、もう、怖いの」
「俺も怖い。結菜も怖い。……でも、楓を独りで置いていくほうが、ずっと怖い」
箱の呼吸が止まった。
金属の壁に、ほんの短い間だけ無風が訪れる。膨らみも萎みもない、白紙の一拍。エレベータが、決定のための余白を差し出してきたのだ、と悟る。
祐一は、扉の隙間へ身を寄せた。楓の輪郭は、手の届く距離にある。だが、そこには必ず「薄い層」が挟まる。
彼はゆっくりと、額を金属へ当てた。冷たさが骨に沁み、頭の奥で光が粉になる。
「俺たちは――」
その言葉が終わる前に、結菜が小さく囁いた。
「しずかにね」
その声は、命令ではない。頼みごとでもない。合図だった。
祐一は頷き、息を深く吸い込んだ。吸い込む瞬間に、わざと音を立てない。息が音になると、扉が勝手に都合のいい言葉に変換してしまうからだ。
「みっつ、数えて。……ひとつ」
祐一は、結菜の背を撫でる。
「ふたつ」
楓の輪郭が、扉に寄ってくる。金属板の内側の影が、外側の光と重なって、二重のゆらぎが消える。
「みっつ」
扉は、こちらから薄くなった。
今まで一度も見たことのない動き方だった。押されるのでも引かれるのでもなく、ふっと「薄くなる」ことで、境目そのものが消えた。
境目が消えると、温度差がなくなる。外の白と内の白が混じり、空気の密度が均等になる。耳の奥の水音が、遠くなって、やがて聞こえなくなる。
「祐一、結菜」
楓の腕が、初めて三次元の重さで祐一の背を抱いた。
結菜がはねるように両腕を回す。三人の輪郭が重なる。
抱擁は、確かに「家族」を作った。作った瞬間、箱の底から低い震えが起きた。
供犠の完成――機械が、そう告げている。
「……祐一、結菜、あのね」
楓の耳元の声が、震えと混じる。
「だめだ、言うんじゃない」
祐一は楓の髪に顔を埋め、そう言った。きっと、楓の紡ごうとした「ありがとう」は、終わりを呼ぶ。礼は扉の言語。ここでは、危険だ。
三人を包む輪郭の内側が膨らむ。内圧が上がり、その輪郭の外側に、薄い膜が張られる。膜は、内側の温度と脈動を閉じ込めるための、見えないラッピング。
いつの間にか、見覚えのあるエレベータの箱の中だった。いつもの、箱だった。
視界の端で、階数表示がゆっくりと落ちる。7、6、5――数字は意味をなくした記号になり、やがて『B』で止まった。
止まった『B』が、いつものように瞬きで逃げない。固定されたまま、黒が濃くなる。インクではなく、穴の色だ。
その穴の縁に、設計士一族のロゴが浮かぶ。
『加賀美設計室』――加賀美の名。
「加賀美……かがみ……鏡……あぁ、なんだ。そういうことか」
祐一は呟いた。
背中合わせの鏡の向こうに、都市が広がっている。名前すら様式美に入る、決められた型。
開かなければ開かなかった。閉じられた場所に別の世界が広がっている。
「こちら側にいたんだな……」
都市の神格は、鏡面に像を集めるように、住人の輪郭を集め、並べ替え、更新する。
更新――管理人の声が重なる。「都市は更新されました」――拍子抜けするほど事務的な声。
ロゴは次の瞬間、紙片に変わった。掲示板の白に刺さり「退去」の二文字が増えて、乾く前の黒で光った。
結菜の指が、祐一の背中をぎゅっとつかんだ。
「ねえパパ。こわい?」
「あぁ、怖いよ。怖い、すごく」
「じゃあ、パパは、ここ」
小さな手が、祐一の胸の中央に置かれる。鼓動がゆっくり整い、箱の振動と反相になる。
――反相。ずれる。従わない拍。
祐一は、それを確かめるように深く息を吸い、吐いた。吸うと吐くのあいだに、紙一枚ぶんの余白をつくる。その余白は、まだこちら側に残る小さな陸地だ。
「楓」
「何?」
「一緒に、行こう」
「うん」
短い合意。
それは誓約でも、覚悟でもない。ただの選択。選択は、ここでは最も強い儀式だった。
箱がそれを理解したように、呼吸の方向を変える。
吸い込む。
金属の内面が、波打ち、文字と影をまぜこぜにして、三人の足もとへ寄せてくる。白い水の筋が、今度は乾かない。線は線のまま伸び、床の継ぎ目を越えて、肉のほうへ入ってくる。
「ごめんね」
祐一は、ノートの手触りを想像した。表紙の紙のざらつき、インクだまりの膨らみ、筆圧で凹んだ裏頁。
その全部を、腕の中の温度に重ねた。
加賀美の向こうのこの世界で、書けるかどうかがわからなかった。
はたして、書くものが現実の紙でなくても、書くという行為は成立するか。
『――成立する』
誰かの脳の中に、皮膚の上に、金属板の内側に。線は、残る。
管理人の声が、最後の確認のように落ちた。
「忘れる練習を」
祐一は、声に向かって、首を横に振った。
「忘れない練習を、ここで続ける」
「祐一」
楓が微笑む。その笑いは、写真より少し不格好で、それは息がかかる距離で、確実な温度をともなっていた。
結菜が「しずかにね」ともう一度囁く。その顔は笑顔に満ちていて、一ミリの不安も感じられなかった。
そして、その言葉を合図に三人は、同時に目を閉じた。
「だいじょうぶだよ」
最期は、結菜の言葉だった。
装置は、完成を受け入れた。
扉は、今度は外側から閉まるのでも内側から閉じるのでもなく「重なって」閉じた。
金属と白と影が、三枚の薄膜になってスライドし、互いの上に重なって、一枚になった。
その重なりは、音を立てなかった。
代わりに、遠い水の一筋が、どこかで切れる音がした。
――チン。
音を立て、開かれたものが自らの意志で閉じる。
闇は来なかった。
来たのは、見覚えのある白だった。このマンションに遭って、このマンションではない、白色。
朝の白と同じ濃さで、だが方向を持たない白。上下も前後もない、密度としての白。
白の中で、三人の輪郭は解けず、自分たちの形を保った。
抱擁の圧、皮膚の汗、髪の香り、鼓動の偏差――生活の証拠は、そのまま連れて行かれた。
――『篠原家 本日退去』
活字は淡々と、乾き切った。
管理人の手に握られた紙。貼り出す位置を確認している。エントランスの住人たちは足を止めない。止めないが、誰もが一瞬だけ視線を落とし、同じ角度で頷いた。
「よくあること」
薄い笑いが、薄い床を渡っていく。
だが、その床の下、白の層のさらに下で、誰にも届かない場所で、三人分の「生活の音」が続いていた。
鍋の蓋の小さな震え。フィカスの葉を回す爪の音。クレヨンの摩擦。
それらは、都市の内部へ縫い込まれ、更新のたびに微細なずれとして表面へ浮いた。
箱は、静かに呼吸を再開する。
表示盤は『1』に戻り、すぐに何も示さなくなった。
扉の金属には、言葉の跡がなかった。
――「失礼します」の不在が、磨かれた鏡面に、長く、長く、残響した。




