第四十二話
とある新築マンションの掲示板に、一枚の紙が増えていた。
白地に黒字。明朝体の整った列。印字はまだ乾ききらないのか、触れれば指先に微かなざらつきを残す。
――七階七〇三号室 篠原家 本日退去。
父・篠原祐一(41)/母・楓(38)/長女・結菜(7)
角を留めるテープは新しい。糊の匂いがまだ空気に混じっている。
数日前まで、食卓に三人で並んでいた家族。その名と年齢が、今は無機質な行の中で黒々と並んでいる。
夕刻、買い物袋を提げた老女が足を止めた。紙を見て、ただ一度首を縦に振る。
「……今度は篠原さんか」
それ以上の言葉はない。袋の中の白菜が擦れ合い、かさりと音を立てる。その音のほうがよほど生活らしく響く。
同じ時刻、会社帰りのサラリーマンが掲示を横目にした。スーツの襟を直し、僅かに眉を寄せただけで通り過ぎる。驚きも同情もなく、ただひとつの習慣として。
「よくあることだ」
その呟きは喉の奥で消え、廊下の白に溶けた。
ランドセルを背負った女の子が立ち止まり、黒い文字を一つひとつ指でなぞる。
「……結菜ちゃん」
口に出した途端、母親に肩を引かれた。
「声に出しちゃ駄目」
女の子は頷き、唇を噛み、視線を床に落とす。廊下に散った蛍光灯の反射が、赤い靴の先を無機質に光らせた。
七階の廊下は、いつもより静かだった。扉の前には何も残っていない。だが、壁際に折れた黄色のクレヨンが一本、転がっていた。誰も拾わない。モップを押す清掃員がそれを避けて通り過ぎる。
昨日まで、確かに暮らしていたのに。
朝の共有通路で、祐一が結菜のランドセルを腕にかけて歩いていた姿を見た、という人がいる。昼には楓がヨガマットを抱えて帰ってきたと話す人もいる。夕方、シャボン玉セットを持った結菜を見たと話す人もいる。
どれもよくある、何でもない断片。それが一晩で途切れる。
管理人が掲示板の前に現れたのは夜だった。灰色の作業着。胸ポケットからスタンプを取り出し、郵便受けの封筒に赤い印をひとつずつ押していく。
「退去済」
インクは湿り気を残し、赤はじわじわと広がる。音はなく、印面だけが増えていく。まるで儀式のように。
七〇三号室の前に立ち止まった管理人は、短く耳を澄ませた。
――こん、こん、こん。
乾いた規則音が、扉の向こうで一度だけ響いた。
「……応じなかったのなら、大丈夫でしょう」
それだけ言って、赤いスタンプを胸ポケットに戻した。
夜が深まるにつれ、窓のカーテンがふっと膨らみ、すぐに萎む。誰もいないのに、光が一瞬だけ点き、また消える。見てしまった住人は立ち止まらない。立ち止まらず、早足でエレベータへ向かう。
――チン。
誰も呼んでいないのに、エレベータの扉が開いた。
「失礼します」
誰もいない空間に向け、住人は自然と挨拶をして乗り込む。箱はゆっくりと呼吸をし、また静かに閉じた。
翌朝。掲示板の紙は夜露を吸って端が波打っていた。文字は滲まない。黒はますます濃くなり、白地は白すぎるほどに際立つ。
通りすがった男性が一瞥して呟いた。
「……そうか」
それだけで足を進める。眉間に何の感情も刻まないまま。
昼、管理人は再び掲示を確かめた。糊の浮きを指先で押さえ、必要以上にしっかりと紙を留め直す。掲示は剝がれない。掲示はまだ必要だ。
髪を見つめる管理人の後ろを、男性が独り通り過ぎていく。その手には何かが握られていて、引きずられるように動いていた。
午後、引っ越し業者のトラックがエントランス前に停まった。台車にダンボール、スーツケース、子どものぬいぐるみ。
「今度の入居は七〇二だってさ」
作業員が軽く言葉を交わす。
エレベータ前では新しい家族が小声で笑っていた。母親はカーテンの色を迷い、子どもはぬいぐるみを抱えて跳ねている。父親が管理人と話す。
「これから、よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ。どうぞ安心して」
管理人の笑みは柔らかく、しかし奥行きがなかった。胸ポケットの赤いスタンプが、夕陽に一瞬だけ光った。
新しい住人が越してきた、七〇二号室。
その隣の七〇三号室のドアプレートには、新しい紙が仮止めされた。だが、室内にはまだ篠原家の痕跡が残っている。茶渋の跡、よくあるヘアゴム、折れたクレヨン。リビングの隅には、ノートの切れ端が一枚。黒いインクで強く書かれている。
――忘れない。書く。暴く。娘を守る。
切れ端を拾う者はいない。掃除のモップが近づいても、紙片の上を避けて通る。まるでそこだけが別の層にあるかのように。
夜。エレベータがまた一度、無人のまま開いた。
――チン。
誰もいない箱に、新しい住人の子どもが首を傾げる。
「ここ、一人で乗っていい?」
母親が慌てて肩を抱き寄せる。
「挨拶を忘れないでね」
「なんていえばいいの? こんにちは? おじゃまします?」
「そうね……お邪魔します、かな」
子どもは小さな声で「おじゃまします」と呟いた。扉は満足げに閉じ、静かに上昇していった。
掲示板の紙は、夜風もないのに微かに揺れた。
黒い文字列は、決まりきった形式で、決まりきった事実を並べ続ける。
――ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です。
その文言は一層濃くなり、誰もが頷いて通り過ぎる。忘れることを練習する者も、忘れられない痕跡に触れてしまう者も。
だが朝は必ず来る。白い光は同じ濃さで廊下を覆い、次の一日が始まる。
こうしてまた一組の家族がいなくなり、また一組の家族がやって来た。
篠原家の痕跡は、紙と影と匂いの中に沈み、都市の奥底へ刻まれる。
それでも人は、何もなかったように暮らすのだ。
掲示板の端を指先で押さえ、浮いた角を糊で留め直すと、管理人は静かに頷いた。
白地に黒字の紙はぴたりと壁に貼り付き、そこに記された「篠原家 本日退去」の文字は一層濃さを増して見えた。
管理人室に戻ると、机の上には分厚いファイルが広げられていた。ページの一枚には、新しく刷られたパンフレットの試し刷りが挟まっている。表紙には、刷新されたロゴ――『加賀美設計室』。
滑らかな銀色の文字で「都市の未来へ」と添えられていた。
見開きには「蛍中野計画」の隣に、「新都心再開発」「臨海地区集合住宅計画」などの見出しが並んでいる。いずれも完成予想図の下に、整然と並ぶ白い塔と笑顔の家族が描かれていた。
その余白に、赤いインクで走り書きが残されている。
――竣工予定:202X年
――設計監修:加賀美篤
ファイルの別の仕切りには、退去済の郵便物の束が綴じ込まれている。篠原家の名が印字された封筒と、真新しい建設計画のパンフレットが、同じフォルダに違和感なく収められていた。
住人が気づかぬ間に、都市の別の土地で、また同じ「装置」が準備されている。
まるで退去と着工が、ひとつの歯車の両端に過ぎないことを示すように。




