第四十話
彼の背後、壁の奥に透けて見える無数の紙束。すべて住人の名を記したカードで埋め尽くされている。インクの黒は、ところどころ色褪せ、代わりに赤いスタンプだけが鮮烈に残っていた。名前の黒を、打ち消すように広がる赤。元に戻せない文字が、今の自分たちと重なっていく。
「つまりは、守りさえすれば安全なのです。安全に、都市は更新される。守らなかった人が、守る人の代わりとなる。あなたたちと同じように」
「俺たちは安全じゃないだろ……?」
「ここは、安全です」
「違う、そうじゃないんだ……」
話が通じない。しかし、祐一は理解した。『話などできなくても、誰も困らない』ことを。
「お前……人間なのか?」
ふと問いかけると、管理人は一拍置いて首を傾げた。
「言葉は、どれでも」
それは何度も聞いた決まり文句。だが今は、肯定でも否定でもない曖昧な音として響いた。
祐一は背筋を冷やす。人間と呼ぶには輪郭が淡すぎる。だが存在しないと言い切るには、あまりに濃く目の前に立っている。
「あなた方を選んだのは、都市です。私はただ、その意志を記録する役目にすぎません」
「じゃあ、妻を返せ」
「返すことは、目的ではありません」
声の抑揚は一切ない。だが、その無色の響きこそが祐一の心を抉った。
「忘れる練習を」
また、この言葉。
「ここに住む限り、従うことを」
掲示群の紙が一斉に震え、壁全体が風もないのにざわめいた。白い紙の余白が波紋のように広がり、管理人の体はその波に飲まれるように薄れていく。
残されたのは赤いスタンプの印だけ。押されたばかりのように鮮やかで、そこに確かに「篠原」の名が記されていた。
祐一はその文字を凝視した。
未来形でも過去形でもない。ただ現在進行形で押されたままの「退去」の印。
「……まだ、終わってない」
唇の奥で言葉をかみ砕き、祐一は娘の手をさらに強く握った。
掲示板の紙が震え続けるうちに、そのざわめきは言葉へと変わった。
最初は紙の擦れる音。だが次第に子どもの囁き、大人の会話、老女の吐息が折り重なり、意味のある言葉の形を取り始める。
――『都市は更新されました』
重なる声が一斉に告げる。高低も性別も異なる声が、同じ文をなぞり、響かせる。
「俺たちを! 家に! 帰してくれ!」
叫んでから、祐一は耳を塞いだ。だが、それは耳からではなく、皮膚から、骨から、血管から聞こえてくる音だった。
結菜が震える。彼女の小さな指が「パパ」と口の形を作るが、声にはならない。声は、ゆっくりと周囲に吸収されて、都市に呑まれてしまう。
掲示の文字も変わっていく。
――『従うこと』が『献ずること』に。
――『忘れること』が『覚えぬこと』に。
赤いスタンプが次々に押され、インクのにじみが血管のように広がり、壁全体が巨大な生き物の臓器のように鼓動していた。
「忘れる練習を」
「従うことを」
「都市のために」
みっつの声が揃った瞬間、床が落ちた。だが、祐一たちはそこにいる。
床が落ちると同時に、天井の蛍光灯が一斉に点滅する。白い光の残像が視界に線を刻み、その線は避難経路図と同じ矢印のかたちを描いた。
その矢印は外ではなく――内へ。
「……このマンションは……ただの化け物だ」
祐一の声は震えていた。
娘の肩を抱く。だが抱いた肩越しに、彼女の背中に別の影が寄り添っているのが見えた。細い腕、見覚えのある輪郭。楓だ。
彼女は微笑んでいる。声は出さない。ただ、掲示と同じ文言を口の形で繰り返している。
――「忘れる練習を」
祐一は歯を食いしばった。
忘れることなどできない。だがこの都市は、忘却を献身として要求している。
壁一面の紙がぱたりと一斉に倒れ、空気が吸い込まれる。
その吸引の音が、まるで巨大な心臓の鼓動のように響き渡った。
――金属板の内側で、白い呼気が往復する。扉は僅かに開いては閉じ、肺のように膨らんでは、静かに萎む。
祐一は結菜の肩を抱き寄せ、もう片方の手を扉の継ぎ目に添えた。そこから、冷えた風が糸のように指先へ触れてくる。触れた冷たさは、皮膚の上にではなく、骨の中に残った。
「……祐一」
楓が、そう呼んだ。
金属板の内側に浮かぶ影は、これまで幾度も見た「二重」ではなかった。楓の輪郭は、一重だった。頬の柔らかい斜面も、目尻の小さな皺も、光に触れるたび生きて動いた。顔の中央だけが、薄く白くゆれて、ピントの合う場所を探している。
ついさっきまで、その輪郭は明確だった。それなのに、この短時間で馴染んでしまった。
「ここから先は、私だけでいい」
吐息ほどの声。それが扉の金属に触れて、冷えて、言葉の温度を奪われる。
「だめだ」
「だめじゃないよ。大丈夫。私がここに残るから、二人は外へ。……あの人はああ言ったけど、まだ間に合うかもしれないじゃない」
扉の圧がふっと弱まり、外界へ向かう力線が生まれた。祐一は咄嗟に結菜を抱き上げる。床がゆっくりと傾き、足元の鉄板に白い水の細い筋が走って、すぐ乾いた。
エレベータが吐く息の側へ倒れていく。箱が、二人を「押し出す」準備をしているのだと、身体でわかった。
「楓、やめろ。そんな選び方は――」
「違うの、選ぶしかないの。三人一緒だと、もう閉じてしまう。わかるの。時間がない。ここには無理に扉を開かせるものがいる。誰かが残らないと、それは開かせ続ける。そうしたら、もっと酷くなる」
不安そうな顔に、決意の光る瞳。
「ママ、いかないで」
結菜の声は、かつてより低く、静かだった。すすり泣きの手前の、骨に触れる静けさ。
楓は細く笑い、指先で結菜の頬に触れようとして、空を撫でただけになった。触れたはずの空気が、ガラスのように硬く冷たい。
「結菜、ね。ここから先は、ママがいるより、パパがいいの」
「どうして?」
「パパは書けるから。忘れないでいられるから。書く人は、忘れない人は、外に必要なの」
「ママは? かかないの?」
「……だって、私はもう開いてしまったもの」
言葉は淡々としていたが、瞳の奥で、僅かな波が立った。
祐一は首を振る。
「俺だって! 俺だって開いた! それは同じじゃないか!」
「意思が違うでしょう? 私は、私が開けたくて開けた。あなたは、私やこのマンションに開けさせられたの」
「だからって……」
祐一は俯いた。しかし、ここで諦めるわけにはいけないと、必死に言葉を紡ぐ。
「書くことは、外でも内でもできる! 俺は……俺たちは、もうどちら側かを決められる場所にいないんじゃないか? それなら」
「決めなきゃ。ここはそういう場所」
楓の目は、真っ直ぐに祐一を見据えていた。
「……わかった。なら、俺が決める。――俺たちは、楓を選ぶ」
楓の顔が、少しだけ緩む。笑いでも泣きでもない、間の表情。
次の瞬間、箱がふっと呼吸を変えて、吐き出す力を増した。扉の隙間に、外側の白が膨らむ。エントランスの蛍光灯の色が沁み込み、掲示の黒い文が、海苔のようにぺたりと視界に貼りついた。
――『退去の手続きは、掲示に従い、粛々と』
いつからそこにあった文面か、思い出せない。だが今日のそれは、末尾に小さく「ご安心ください」と加えられていた。安心、だと。舌の上で砂になる言葉。
「祐一、お願い。今ここで「失礼します」って言って。結菜も。そうすれば箱は優しくなる。あなたと結菜を、ちゃんと外へ返してくれる」
「言わない」
「言って」
「言わない。――その言葉は、扉を完成させる。君から外側を奪う儀式が完成してしまう」
沈黙が、三人の間に積もる。
耳の奥で、あの細い排水の音が、一本だけ落ちていた。どこにいても消えなかったビーコンの音。今は、箱のもっと下――『B』の下から響いている気がした。
「ママと、いっしょがいい」




