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開かせるもの  作者: 三嶋トウカ
第五章

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第三十九話


 床の模様が完全に消え、代わりに白い水面が広がった。三人の姿は、その水面の上に浮かび、ゆっくり沈み始める。


「離すな」


 祐一は必死に腕に力を込める。


「離さない」


 楓が答える。結菜も短い声で「うん」と返す。

 水面は冷たくなく、痛みもない。ただ、記憶を吸い取られるような静けさだけがあった。

 沈むたび、過去の断片が目の前に広がっては溶けていく。結婚式の写真、結菜の七五三、新居に入った日の笑顔。


「これは……全部……」


 祐一の声が掠れる。


「私たち、供物なのね」


 楓が答えた。



 三人の影が白の奥でひとつに重なった。

 都市の鼓動が遠くで鳴り、掲示板の活字が頭の奥に響く。


 ――『都市は更新されました』


 白の中で、三人は最後の抱擁を続けていた。


 白い水面は、上手く飲み込むための呼吸するように膨らんでは縮み、三人の身体を抱え込みながらさらに深く沈めていった。どうにか抵抗しようと足を踏ん張っても、床はもう存在しない。掴むべきものはなく、あるのは互いの腕と温度だけ。

 祐一は必死に目を開けていた。だが白の濃度は増すばかりで、視界はすぐに飽和し、やがて黒へと反転した。光の裏側へ落ちていくような感覚。耳に残るのは、自分たち三人の鼓動だけ。


「パパ、こわいよ……」


 結菜の声は小さく、けれど確かだった。


「大丈夫だ、ここにいる」


 祐一は答える。楓も「いるよ」と短く添える。

 三人の声が重なると、闇は一瞬だけ裂け、無数の影が浮かび上がった。顔のない乗客たち。かつて消えたはずの住人たちが、重層的な影となって彼らを取り囲む。


「……ようこそ」


 その合唱のような声は、男女の区別も年齢の差もなく、ただ都市全体の響きだった。

 祐一は叫び返した。


「返せ! 俺たちの暮らしを!」


 だが声は吸い込まれ、すぐに白と黒の境界へ消えていった。返事はなく、影たちはただ沈黙のうちに頷くばかり。

 やがて祐一は悟った。彼らは拒む存在ではなく、既に内側へ取り込まれた先客たちなのだ。抵抗も否定もなく、ただ迎え入れる役目を果たすだけの。

 楓の指先が強く祐一の手を握った。


「まだ……結菜を離さないで」

「もちろんだ」


 結菜は泣きながら、それでも二人の腕に身を預けている。

 その温もりが、最後の境界を崩す合図になった。


 何かないかと、それでもまだ、祐一は必死に当たりの様子を窺う。

 そして、視界の端に、見覚えのある生き物を見つけた。


 赤いリードを、つけていた、犬。


 待っていた。この犬も、楓のように待っていたのだ、主人がここへやってくることを。

 しかし、主人は、あの男性は「忘れなかった」。


「ダメだ、待つな! お前の飼い主は忘れないから!」


 最期の力を振り絞って、祐一は叫んだ。視界が滲み、瞼が閉じていく。

 その向こうで、その犬が「わん」と鳴いた気がした。


 ――こうして、闇が完全に口を開けた。

 三人の身体は影と溶け合い、やがて音もなく呑み込まれていった。

 その瞬間、都市の奥底で、巨大な脈動が一度だけ響いた。建物全体が深呼吸するように揺れ、すぐに静けさを取り戻す。


 ――『供犠、完了』


 見えない声が、掲示板の活字のように脳裏に刻まれた。

 白と黒の境界に呑まれたはずの祐一は、次の瞬間、目の前に広がる「無限に平らな廊下」に立っていた。

 天井はなく、床は光沢を持った白の板張りのようで、左右の壁には際限なく掲示板が並んでいる。すべて同じ規格、同じ字体、同じ紙質。そこに刷られた言葉は、見慣れたはずの注意文だった。


 ――『ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です』


 一枚ごとに、僅かに一語が加筆されている。

 『励行』『遵守』『常習』『必然』『退去』『選択』……。

 その連鎖は果てしなく続き、遠く霞む彼方まで文字が波打っていた。

 祐一は喉を鳴らした。声は出ない。代わりに、掲示板の中から低い響きが返ってきた。


「――都市は更新されました」


 音は一方向からではなかった。床から、壁から、頭蓋骨の奥から、同時に重なるように届く。女の声にも男の声にも聞こえ、若くも老いてもいる。かつて聞き交わした住人たちの声が、全て溶け合って響いてくるのだ。


「……誰だ」


 祐一は絞り出した。


「ここは、何なんだ」


 答えは淡々としていた。


「ここは都市です」

「あなた方の暮らしを繋ぎとめるための器」

「そして、次の暮らしを呼び込むための門」


 言葉は掲示文の活字と同じ冷たさで、感情を伴わない。だが確実に刻印される。祐一の背後で、楓が結菜を抱き寄せる気配がした。その腕の震えは、彼自身の心臓の拍動と同じ速さだった。


「……本当に、人を喰って、都市を更新するのか」


 祐一は吐き捨てるように言った。

 掲示板がざわめき、一斉に文言が揺れた。紙がめくれたわけでもないのに、印字が波立つ。

 やがて、それらは合唱のように重なり、答えを示した。


「喰う、ではありません」

「あなた方は忘れられ、刻まれる」

「都市の壁に、影に、掲示に」

「忘れ去られることで、都市は保たれる」


 祐一は思わず壁を叩いた。硬いのに、叩いた手の跡がじわりと黒く染み込み、すぐに消えた。残ったのは彼の手のひらの熱だけ。


「俺たちは……まだいるんだ」


 祐一の声が震えた。


「ええ。あなた方はここにいる。しかし同時にいない」

 その答えに、祐一は背筋を凍らせた。

 廊下の掲示群の中に、一際大きな枠が現れた。そこだけ、白ではなく灰色の厚紙。中央には黒いロゴマークが刻まれている。


『加賀美設計室』


 見覚えのある文字列。パンフレットの片隅で、祐一が何度も目にした設計監修の名前。代々続く建築士の家系。その名が、掲示の中では今まで見たことないほどに濃く肥大化していた。


「……やっぱり、お前らが」


 祐一は低く呟く。


 その瞬間、灰色の紙がひらりとめくれ、裏側に古い写真が浮かんだ。

 白黒の団地建設広告。笑う家族のイラスト。のどかな遊具のある公園。ベンチに座る高齢者。ポップで親しみやすい言葉。隣には小さく「設計:加賀美暁」の文字。

 めくれるたびに時代が進む。昭和末期の建替え。平成初頭のマンション化。令和の再開発。設計者の名前だけが、誠一から篤へ、隼へと、変わらぬ書体で受け継がれていく。


「都市更新とは、建物の更新ではありません」


 掲示群が囁く。


「住人を更新することです」


 祐一は息を呑む。


「……人を、建材みたいに入れ替えるのか」

「はい。古い暮らしは、次の暮らしを呼び込むために忘れられる」

「何を、言ってるんだ?」

「忘却こそが、この都市の基盤」

「そんなものが基盤になるわけ」

「加賀美一族は、その設計を代々担ってきました」


 祐一の指先が震える。ノートに書き殴った数々の記録が脳裏を過った。薄れる文字。戻らない投稿。退去掲示。全てが、都市の意思に沿った「忘却の工程」だった。


「じゃあ、お隣の家族も……あの犬も……」

「私、も?」


 背後で楓が呟く。

 返答は無機質に返ってくる。


「……よくあることです」


 その言葉の重みは、今までと違っていた。軽さではなく、冷酷な確定。数えきれない犠牲が積み上がった果てに、なお変わらない常套句。

 結菜が小さな声で祐一の袖を掴んだ。


「パパ……わすれないで」


 その声だけが、都市の冷気を押し返す火種のように響いた。


 そのとき、掲示群の中央がすっと開き、灰色の作業着を着た男が現れた。管理人だ。だが、いつものカウンター越しではなく、壁そのものの内側から歩み出てくる。

 胸ポケットの赤いスタンプは滲んで、紙から血が流れる血のように広がっていた。


「……ここで、何をしている」


 祐一は声を荒げた。

 だが、管理人は柔らかい笑顔を崩さず、掲示に並んだ紙束を撫でるように指先で確かめる。


「私はただ、記録を整えているだけです」

「記録……?」

「退去の報告。入居の登録。どの世帯が都市に取り込まれたか。どの家族が次に選ばれるか。すべては、ここに」

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