表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
開かせるもの  作者: 三嶋トウカ
第五章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/42

第三十八話


 やがて床が完全に消え、祐一たちは白い空間に浮かんでいた。上下もなく、音もなく、ただ静かな光が満ちている。呼吸の音さえ、光に溶けていく。

 楓と結菜の姿も光に溶けかけていた。だが祐一の腕の中では、確かに温もりがあった。その温もりを最後まで掴み続けようと、祐一は両腕に全ての力を込めた。


 白はただの光ではなかった。

 触れようとすれば表面があり、押し返されれば柔らかい膜のように揺れる。呼吸をすれば胸の奥にまで入り込み、肺の中を塗り替える。


「ここ……なに?」


 結菜が小さな声で呟いた。声は広がらない。真っ白な壁に当たって、その場で溶けて消えた。

 祐一は答えられなかった。自分の声もまた同じように、白に吸われていくとわかっていたからだ。楓が傍らで首を振る。笑顔のまま、しかしその笑みの奥に影のような諦めが滲んでいた。


 白の奥で、黒い線が一本、すっと走った。

 設計図のように。罫線のように。

 やがてそれは幾何学的な形を作り始め、四角、矢印、丸。玄関、エレベータ、避難経路の記号だ。


「……図面だ」


 祐一は思わず声に出した。今度は声が消えなかった。図面の線が応じるように震え、さらに線を増やした。


 加賀美の名。過去の住人の名。退去掲示の文言。

 それらが一枚の巨大な紙面のように、白い空間に広がっていく。


 ――『ここに住む限り、従うことと忘れることが最も大切です』

 ――『退去のご案内』

 ――『落とし物は拾わず、三日経過後に管理人室へ。励行』


 すべてが過去の掲示の反復で、その一枚一枚が、ここでは儀式の言葉として整列していた。

 祐一の頭に、管理人の声が蘇る。


「言葉は、どれでも」

「練習が足りないのです」

「都市は更新されます」


 声が次第に重なり、合唱のように膨れ上がった。男でも女でもない。老いも若きもない。ただ都市そのものの響き。

 結菜が祐一の服を掴む。小さな手が震えている。


「パパ……こわい」


 祐一はその頭を抱き寄せ、楓と共に三人で寄り添った。


「大丈夫だ。パパはここにいる」


 口にした言葉は、すぐさま壁に映し出され、黒い文字として刻まれた。


 ――『パパはここにいる』


 祐一は愕然とした。

 都市は聞いている。言葉を奪い、記録し、掲示する。ここに生きる者の存在を、儀式の一部として固定していく。

 放つ言葉は設定の一部となり、その存在は都市の力となる。


 そして、理解した。

 「都市が更新される」という、何度か聞いた言葉。

 これは、そのままの意味だった。自分たちを取り込むことで、贄を取り込むことで、文字通り都市は次のステージへとあがる。

 最終地点はわからない。ただ、本当に都市は更新されていて、すべて忘れて生きてきたほうが幸せだったかもしれないと、そんな結論に至った。


 楓が、そんなことを考える祐一をじっと見る。


「ねぇ、だから言ったでしょ。ここにいれば、一緒にいられるの」


 その言葉の通り、三人は確かに抱き合っていた。けれども、それは都市の内部に組み込まれる過程そのものだった。

 白い空間に浮かび上がった黒い線は、次第に図面から別の形へ変わっていった。

 文字が重なり、角度を変え、やがてロゴになった。


 ――『加賀美設計室』


 無機質なゴシック体。だがその文字の周囲に、無数の影が立ち現れる。背広姿の男たち、ヘルメットを被った作業員、笑顔の家族。昭和から平成、そして令和へと移り変わる時代の広告が、そのまま人影となって整列していた。


「新しい暮らしへ」

「快適な都市生活」

「未来を担う子どもたちのために」


 影たちは口を開かず、掲示の文言を口パクのように繰り返す。声はないのに、都市そのものが代わりに読み上げる。


「都市は更新されました」

「供犠は完了しました」

「忘れる練習を」


 祐一の背筋が凍りついた。

 すべての文言が「家族を取り込んだこと」を祝福する合唱に聞こえる。


 結菜が楓の袖を握る。


「ママ、どうしてわらってるの」


 楓は答えない。ただ笑っていた。笑顔の奥に涙があるのか、それとも笑みそのものが都市に刻み込まれた痕跡なのか、祐一には判別できなかった。

 人影の列の一番奥、管理人の姿があった。

 灰色の作業着、胸ポケットのペン。それから、赤いスタンプ。彼は口を開かず、首を傾げるだけでこちらを見ている。だが祐一にはわかった。あれは人間ではない。既に都市の声帯の一部だ。


「どうして俺たちなんだ」


 叫んだ声はすぐに壁へ吸い込まれ、掲示に変わった。

 ――『どうして俺たちなんだ』

 祐一は唇を噛み、血の味を覚えた。

 言葉は抗議にならない。全てが記録へ変換される。抗えば抗うほど、都市は強固に「記録」として飲み込み、儀式を完成させていく。


 楓が囁いた。


「違うわ。選ばれたの。私たち、選ばれたのよ」

「誰に」


 祐一が問い返す。


「このマンションに。ひいては、この都市に」


 その瞬間、白い床が波打ち、三人の足元に吸い込まれるような感覚が走った。

 逃げ場はない。都市そのものが、篠原家を『内部の存在』として確定しようとしている。

 白の波が一度大きく揺れたかと思うと、視界の端に見慣れた家具が滲み出てきた。ダイニングのテーブル、フィカスの鉢植え、結菜が折ったクレヨン。


「……俺たちの部屋だ」


 祐一が呟いた声が、遅れて掲示に変わった。


 ――『俺たちの部屋だ』


 家具は輪郭を保ちながら、次第に白の中へ溶け込んでいく。テーブルの脚は半透明になり、フィカスの葉は光だけ残して消える。クレヨンは箱ごと白い霧に崩れ、包装紙の破片だけが浮かんで弾けた。


「いやだ! ゆいなのクレヨン!」


 結菜が駆け寄ろうとした瞬間、楓が腕を伸ばし抱き寄せた。


「見ちゃだめ」

「でも、これ、ゆいなの……! ゆいなのものなの!」


 結菜の声は掻き消され、壁に映し出される。

 ――『でも、これ、ゆいなの』

 言葉の一つひとつが都市の糧になる。


 祐一は両手で頭を抱えた。自分たちの生活の証が、次々と「供犠の証拠」として取り込まれていく。

 まるで、彼らが生きてきた日常すら、最初から都市に奉納するための道具だったかのように。

 冷蔵庫の白い扉が現れ、開いて、中身の影が一瞬揺れて消えた。タンスの引き出しが勝手に開き、衣服が空気に溶けていく。洗面所の鏡は楓の顔を映し、次の瞬間、曇りガラスのように白濁して割れもせずに消えた。


「やめろ……やめてくれ!」


 祐一は叫んだ。だがその叫びも掲示に変わる。

 ――『やめてくれ』

 叫びの数だけ、都市の壁は厚みを増す。


「パパ!」


 結菜が祐一の手を掴む。細い指が骨をきしませるほど強く握りしめていた。


「大丈夫。まだいる。私たち、まだここにいる」


 楓の声が震えている。そうだ、それでも、三人の輪郭だけはまだ白に呑まれていなかった。

 都市はまず、彼らの日常を奪い尽くす――そうしてから家族そのものを仕上げとして取り込むのだと、知らないはずのことをすでに理解していた。


 床の模様が薄く波打ち、リビングの壁に貼った結菜の絵が一枚、最後の抵抗のように残っていた。四角い箱と、丸い顔と、白い空洞。

 絵の中の文字はかすれながらも残っている。


 ――『静かにね』


 その文字を見た瞬間、祐一は全身に冷たい力が走るのを感じた。

 壁の絵が霞みながらも残っているのを見た瞬間、祐一は反射的に結菜を抱き寄せた。細い身体は氷のように冷たい。けれど、確かな重さがある。それだけで、まだ「ここ」にいる証だった。


 次の瞬間、背後から温もりが加わる。楓の腕だった。消えたはずの妻の感触が、背中から確かに伝わる。指先の微かな震え。息の揺らぎ。懐かしい匂い。


「……楓」


 祐一が呼ぶと、楓の頬が胸に押し当てられた。


「……ごめん。私が開いてしまったから。あなたの話を、蔑ろにしてしまったから」

「謝るな。戻ってきた、それだけで」


 結菜が泣き声を漏らす。


「ママ……なかないで!」


 楓は娘を抱き寄せ、祐一の腕ごと包んだ。三人の身体が重なり合い、温度が混じる。

 その瞬間、白いだけの空間が静かに震えた。都市の装置が「完成」を認識したのだ。

 みっつの声。みっつの鼓動。みっつの影。


 ――それは、この建物が待ち望んでいた供犠の形。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ