第三十七話
楓の影が壁へ沈みきった瞬間、エレベータの内部に沈黙が落ちた。
祐一は結菜を胸に抱き寄せ、乱れた呼吸を何とか整えようとする。娘の肩は細かく震えており、冷たい汗が祐一のシャツに染み込んでいった。
「……パパ、ママだったよ?」
小さな声が耳元で震える。
「違う。違うんだ」
そう答える祐一自身の声もまた、震えていた。言葉は否定の形をとっているのに、心の奥では「確かに楓だった」と叫んでいる。ふたつの思考が交錯し、祐一の胸を圧迫した。
結菜は祐一の胸に顔を押し付けながら、必死に囁いた。
「でも、ママだったもん」
「わかってる、わかってる」
「じゃあなんで、ちがうっていうの?」
「だって、ママだと認めたら……」
ゴクリと唾を飲み込み、上手く出ない言葉を必死に紡ぐ。
「もう誰も、ここから出られなくなる」
――そう祐一は、自分にも言い聞かせるように、掠れた言葉を吐き出す。呼吸が苦しい。鉄の壁に染みついた冷たい匂いが、肺の奥を凍らせていた。
そのとき――
エレベータの四方から、一斉に「ざわめき」が立ち上がった。
無数の影が、壁と床の境目から滲み出るように現れる。輪郭は曖昧で、どれも顔がない。だが、肩幅や姿勢、首の角度がそれぞれ異なり、かつてここに住んでいた誰かの残滓であることを祐一は直感で理解した。
だが、先ほどとは比べ物にならないほど多い。
声にならない声。低い呼吸音のような、湿った布を擦るようなざわめきが、狭い箱の中で渦を巻く。
それは祐一たちを取り囲むのではなく、楓の影が消えた場所に集まっていた。そこに、何か合図を見たのだ。
祐一は息を呑んだ。言葉が口から零れた瞬間、影の群れが一斉に震え、壁の奥へ吸い込まれていく。
残されたのは、祐一と結菜、そして閉じ込められた呼吸の音だけ。
「パパ……どうするの」
娘の問いは震えていたが、そこには確かな意志が宿っていた。恐怖に押し潰されそうになりながらも、選択を父に迫っている。
祐一は強く娘を抱きしめ、心の奥で答えを絞り出した。
「……守る。お前を守る。それでも、楓を、ママを……」
言葉はそこで途切れる。守るか、追うか。もう選んだはずなのに、まだ決め切れていないふたつの意志が胸の中で軋み合い、背骨を震わせた。
……決めたはずだった。そう、決めたはずだった。楓の元へいくと。それなのに、いざ目の前にすると、決意は簡単に揺らぐ。
箱の隅で、再び表示盤が点滅する。7、6、5……そして『B』。その一瞬の光が、決断を迫る最後の釘のように祐一の胸を打った。
表示盤の『B』が消え、再び『7』へ戻る。だがその刹那、祐一の視界に影が差した。壁の奥から楓の姿が滲み出てくる。顔の輪郭、肩の丸み、髪の流れ。ぼやけながらも、見慣れた形が確かにそこにあった。
やはり、楓だった。楓は、ずっとここにいた。この、マンションにいた。
「……ママ」
結菜が小さく呟いた。
その声に呼応するように、楓の影は濃さを増した。鉄の壁に縫い付けられていたものが、力を得て一歩前へ出てくる。指先が金属から解かれるように浮かび上がり、冷たい空気を震わせた。
祐一は本能的に娘を庇おうとした。だが次の瞬間、その楓の眼差しが彼の胸を射抜いた。涙を堪えるように細められた目。懐かしい温度がそこに宿っていた。
「祐一……」
声は確かに、楓のものだった。
祐一の心臓が跳ね上がる。
「楓……本当に……」
彼は結菜を抱いたまま、影へと手を伸ばした。指先が鉄の冷たさを越え、柔らかな感触に触れる。楓の腕が、そこにあった。
「ママ!」
結菜も両腕を伸ばし、母の腰に縋りついた。
三人がようやくひとつに抱き合った瞬間、エレベータ全体が深く鳴動した。壁も床も天井も、低い唸りを発して震える。
冷気が消え、代わりに甘ったるい匂いが箱いっぱいに満ちた。鉄の壁の継ぎ目から白い霧が溢れ、視界がじわじわと失われていく。
祐一は必死に楓を抱きしめながら、その匂いに覚えのあることを悟った。――あの日、初めてノックを聞いた夜、廊下を流れていた空気と同じ匂いだ。
「……やっぱり、これは」
祐一の声は震えた。
楓は黙って首を横に振った。その仕草さえも、昔と変わらない。だが祐一は気づいてしまう。これは再会であると同時に、何かの儀式の完成なのだと。
だって、出会ってしまったから。いなくなったはずの楓と。行けないはずの地下室と。実体のない住人たちと。
抱擁が長く続くほど、三人の身体は白い光に溶けていく。輪郭が薄れ、声も霞む。
「パパ……ママ……」
結菜の声は泣き笑いの中間で震えていた。
「大丈夫だ。ここにいる」
祐一は必死に言葉を紡ぐ。だが同時に悟っていた。
――この再会は、都市に捧げられるための供犠そのもの。
確信はなかった。たかだか、設計書上の線でしかない囲いと、昔からある噂。それに、必要以上に固められたくせに、逸脱可能なマンションのルール。
近場に閉じ込められ、遠くに行けなかった事実を含めても、まだ推測の域を出なかった。
だが、それでもわかることもある。
これだけお膳立てされた箱の中で「疑うな」と言うほうが難しいほどの不自然さは、その推測を確信へと変えるほどの強さを持つ。
このマンションは、何かのために作られた贄場。
その何かの鍵は、マンションの地下にある。
消えた人たちも、マンションの地下にいる。
管理人はわかっていてルールを強いる。
住人はわかっていてそのルールを守る。
ルールは儀式の一部で、儀式は失敗せぬよう管理されている。
しかし、ルールは必ず守られるわけでもなく、失敗は儀式の一部とされる。
いや、ルールを破ることが、儀式の成功への一歩となる。
おそらく、一人いなくなっても、一膣に住む全員がルールを破らない限り、成功とはならない。
ルールはルール以上の意味を持ち、マンション住人はこのマンションの中で贄となる。
マンションの持つ影響力は、外部へも浸透している。
つまり、マンション外にも影響力を持つか、そもそもマンション外がその何かの主戦場の可能性がある。
マンションを大きな巣箱として、生贄を飼育している、地域主体の大掛かりな慣行。
そして、その何かのために、このマンションを作った、地域に手を加え慣行を作った元凶は――加賀美。
頭の中でピースをはめ込む祐一を尻目に、エレベータの奥から、無数の影が拍手のようにざわめいた。かつて消えた住人たち。彼らは顔を持たぬまま立ち並び、供犠の完成を見届けている。
抱き合った三人の輪郭が、霧の中で徐々に薄れていく。祐一は必死に楓の背中を掴み、結菜を抱きしめ続けた。けれどもその指先は、次第に空気と見分けがつかなくなっていく。皮膚を掴んでいるはずが、感触は液体に変わり、指の隙間から零れ落ちる。
「離さない……絶対に」
声にした瞬間、箱全体が震えた。まるで祐一の誓いに反応するかのように。
壁の金属板が呼吸するように膨らみ、そこから白い光が滲み出す。光は音を連れてくる。耳ではなく、骨へ。低い合唱のような声が、四方から押し寄せてきた。
――『都市は更新されます』
――『忘れる練習を』
それはかつて管理人の口から聞いた言葉だった。だが今は、人の声ではない。都市そのものが、唸りながら唱えている。
楓が祐一の耳元で囁いた。
「……もういいの。ここにいれば、一緒にいられる」
「ここって……どこなんだよ」
祐一は声を荒げる。
……人がいるべき場所ではないことはわかっている。覚悟が白に溶け、ゆっくりと現実が輪郭を光らせる。
楓は微笑んだまま答えなかった。その笑顔も、白に溶けていく。
結菜が「ママ!」と叫んだ。その声は小さな鐘の音のように霧を震わせた。だが同時に、祐一の胸の奥に鋭い痛みを走らせた。呼びかけは儀式を完成させる。呼んでしまえば、誰も逃れられない。
霧は濃度を増し、金属の継ぎ目からは今度、黒い液体が滴った。滴は床を濡らすのではなく、床そのものを飲み込む。足元の鉄板が溶け、白と黒の境目が粘って混じる。
祐一は必死に目を凝らした。霧の奥で、かつての住人たちの影が並んでいる。顔はない。ただ輪郭と姿勢だけがあり、みな同じ方向――自分たち三人を見ていた。
その瞬間、悟った。
――そうだ、そう考えたじゃないか。「俺たち」が「次」なんだ。
都市は待っていた。三人が揃うのを。家族が完成するのを。揃った瞬間に、供犠として飲み込むために。
「……クソッ」
祐一は奥歯を噛みしめ、霧に抗おうとした。だが抗う力は、霧に吸い取られていく。腕の力も声も、すべてが都市の中へと引かれていく。




